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onze

 カーテンの隙間から差し込む光の眩しさに、大澄は顔を歪めた。  一番はじめに視界に入ってきた天井は見覚えのないもので、一瞬ここがどこなのかピンと来なかったが、顔に掛かった柔らかな髪から甘い香りがして、それが烈己であることはすぐにわかった。  枕にされた腕は少し痺れていたが、ずっとそばに烈己がいてくれたのだと実感する証拠に自然と笑みが溢れる。  朝からよく食べる可愛い恋人のために何か作るかと、烈己が起きないようにそおっと体を引いて、無事、枕への引っ越し作業を成功させた。  深い眠りについたお姫様はちょっとやそっとじゃ起きそうにないほど安定した寝息を繰り返していた。体を離したことを後悔したくなるほど愛らしい寝顔をしていて、長い睫毛やピンク色のほっぺにいたずらしたくなる衝動たちをどうにか説き伏せ、大澄は理性に反抗的な自分の体を奮起させ、なんとかベッドから旅立たせる。  落ちた洋服たちを拾い集め、あとはシャツを着るだけの大澄がふとリビングの仏壇に目が止めた。  昨夜はそちらへ背を向けて座っていたせいか、そこに仏壇があることに気づけていなかった。大澄は慌ててシャツをかぶり、仏壇の前に座った。  そこに飾られた写真立ての中にいる女性が烈己の母親かと胸を躍らせ視線を動かした途端、一瞬にして大澄の心臓は凍りついた──。  キンと、短い耳鳴りがして大澄を強い目眩が襲う。  心臓が早く打ち始め、息も乱れる。恐怖で歯がカチカチと勝手に震えて音を鳴らした。 「ど……して…………そんな、嘘だ……そんな…………」  ドクドクと異常な速さで流れる血の音が鼓膜から響き、内耳に勢いよく集まった血液たちが今にも破裂しそうな錯覚に陥り、ひどい痛みを覚えた。大澄は奥歯を噛み締め、耳を押さえつけるようにして塞ぐ。 「烈己は────烈己……の子供だったのか……」  歪む視界の中で写真の彼女が幸せそうに微笑んでいる──その腕の中で抱きしめられているのは今もその面影が残る、安らかな寝息を立てて眠る愛しい彼だろう──。  リビングに置かれた大きな姿見が視界に入り、大澄は息が止まった。  正常な判断がつかず、そこに兄が立っているようなおかしな混乱に陥った。揺れの続く視界の中で兄がこちらを眺めている──何度も見た、あの絶望の眼差しで──。 「花……月…………」  鏡の中の兄の口がうっすらと動いた──。 ────裏切り者、と。  大澄は姿見に背を向け、すべてから逃れるように畳に這いつくばって頭を抱えた。血流の音に混じって兄の声が木霊する。震える手が畳に当たってカタカタと音を鳴らす。 「…………俺は、罰を受けたのか……? 兄貴のことを忘れて……一人で幸せになろうとしたから……? これも……運命だったのか…………? 俺は……」 ──この世で一番選んではいけないΩを選んだ。  大澄の瞳からはボロボロと涙が一気にこぼれ落ちた。  拭わずに放って流したそれは畳へ幾つものシミを作り、大澄は声も上げずに無表情で見開いた両目からただただ涙を流し続けた。 ──誓ったのに……  約束したのに……。  番になろう、家族になろう、ずっと一緒に暮らそうと──。 「許されるはすがない……俺なんか……、俺が──烈己の番になんてなれる訳がない……俺は……」    足元から纏わりついてきた絶望は、大きな黒い渦になって大澄をゆっくりと呑み込んでゆく。見えないそれは重さを持って大澄の全身に巻きついて、体の中まで浸食してゆく。  見えない何かに首元を締め付けられ、うまく息が継げずに大澄はその場に崩れ落ち、畳へ頭をつけ、目を強く瞑ると声を殺して泣き続けた。  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎  なんだかすこし肌寒くて、烈己はうっすらと目を開いた。  ぼんやりと見上げた天井は何年と見続けた馴染みのものだった。  狭いベッドの上にはすでに彼の姿はなく、リビングにでも座っているのだろうかと寝ぼけまなこの烈己はゆっくりと体を起こす。 「大澄さん……?」  狭いアパートの一室は、一瞬で探し人がいないことを烈己に教えた。裸のまま烈己はベッドから降りて玄関の靴を確かめる。 「帰った……? なんで、黙って……」  大澄の行動が読めなくて混乱した烈己は慌てて携帯画面を確認するが、そこにはなんの連絡も届いてはいなかった。 「仕事? でも大澄さんが黙って行くかな……」  夢でも見ていたみたいな突然の消失に違和感しかない烈己は胸騒ぎが止まらないでいた。  朝ご飯の買い出しに外に出たのかもしれないと、慌てて服を着て烈己は玄関のドアを思い切り開いた。 「きゃあ!」と突然ドアの向こうから女性の悲鳴が上がって烈己は心臓が跳ねた。 「……浜野(はまの)さん? びっくりしたー」  瞬きしながら烈己が浜野と呼んだ相手は、烈己たち親子がここへ引っ越してくる前からこのアパートに住む60半ばの女性で、母親が事故で亡くなって以来、一人になった烈己のことをずっと気にかけてくれている。 「烈己ちゃん! 見つけたのよっ、アタシ!」 「え? なに?」  浜野は激しく興奮しながら烈己の腕を掴み、大きく揺らした。だかその顔にはどこか怯えも含まれている。 「見つけたのっ、あの日、アンタのお母さんが事故に遭った時に近くにいた男を! アタシ見つけたのよ!」 「……お母さんの事故……? どういう……」  浜野の言ってることのほとんどを理解出来なくて、烈己はひどく困惑した表情で浜野を見つめた。 「あの日、大雨の日! お母さんっ、結羽(ゆりは)ちゃんがトラックに撥ねられた時、アタシ見たのよっ、事故現場から走って逃げてく男を!!」 「えっ……なに……? そんな話俺一度も……」 「警察には言うなって言われてたの、アンタはまだ学生で、いきなり天涯孤独になって……そんなこと知って、もし復讐でもしたら大変だって……アタシ、ずっと烈己ちゃんには黙ってたのよ……。ごめんなさいっ、こんな大切なことっ……でもあの時は確証もなかったし、アンタに余計なことは言えなかった……」    浜野が辛そうに目を瞑りながら俯き、過去の懺悔を絞り出すようにして烈己へと告げるが、あまりに衝撃的すぎる真実に、烈己は頭の整理がまったくもって追いつかない。    この人は今、何を話した──?  お母さんが事故の時……そばに誰かがいた──?  そんな話、三年の間一度たりも聞かされてこなかった……。  あの日──真夏の夕立みたいに突然降り出した大雨の中、母はアパートのすぐ近くにある信号のない横断歩道を傘も差さずに渡っていて、見通しが悪かったせいで母に気付けなかったトラックがそのまま母を────。  母は即死だったらしい──。  大雨のせいか人通りもなく、目撃者もいなくて──トラックの運転手はいきなり母が飛び出してきてブレーキが間に合わなかったと話した。警察も運転手の反省ぶりから嘘をついているようには思えないと話していた。 ──だけど、そこにはもう一人誰かがいた……? 「どう……いう意味、浜野さん……、その男を見つけって……一体……」  震えながら浜野は顔を上げ、真剣な眼差しと共にゆっくり口を開いた。 「今朝ね……、二階の廊下で物音がしたからなんとなく階段の下から覗いたのよ……そしたらこのドアの前に男が座り込んでたの……」  その言葉に烈己は心臓が締め付けられた。今から彼女は一体何を話すつもりなんだと鼓動が次第に早くなる。訳の分からない悪寒が何度も背中をかけていく。 「烈己ちゃんの彼氏かなんかだと思って……アタシ、余計だとは思いながらも声をかけたの」 「え……っ」 「そしたら俯いてた顔が上がって、見たら……あの顔! あの顔だったの! あの事故の日アタシが見たあいつ! あいつと同じ顔してたの! アンタあの事故の時のってアタシが口走った途端、あいつ顔色変えて凄い勢いで走って逃げてったの! あの日とおんなじ! まるであの雨の日の悪夢をもう一度見せられている気分だった……」  青白い顔をした浜野がその時のことを思い出しているのだろうか、眉根に皺を寄せ震える唇を手で覆う。 「…………」 「そう! 絶対あいつよ! 一瞬だったけど見えたの、細身で背の高い男の姿!」  烈己はとうとう全身の力が抜け落ちて、そのまま呆気なく足元へ崩れ落ちた。 「烈己ちゃんっ……しっかりっ!」  青白い顔をした烈己は浜野に支えられながら、座ったまま玄関のドアへ背中を預けた。 「……浜野さん……、多分その男とここにいた人とは別人です……」 「えっ? でも同じ顔してたのよ?!」 「いるんです……ううん、正確にはいたんです……。もう一人、同じ顔の人が……」  浜野は烈己の言っている意味がまったくわからないようで、合点のいかない難しい顔をしていた。  烈己の体は鉛でも流し込まれたように全身が重苦しかった。もう彼を追う気力はどこにも残っていない。閉じかけた瞳に映る鮮やかな青空がやけに眩しくて、痛くて、涙が滲んだ。  なぜ突然大澄が消えたのか、浜野の言葉ですべてが腑に落ちた。  彼は多分、仏壇にある母の写真を見つけて、あの大雨の日に事故で亡くなった人物が俺の母親であることを初めて知ったのだ。  事故現場にいたのは彼じゃない、きっと彼の兄だろう。そしてそれを弟である彼ももちろん知っていた。  あの人のお兄さんは母を見殺しにした──。  雨の中車に轢かれた母を置いて、一人走って逃げた。  関わりたくなかったから?  疑われたくなかったから?  母はあの冷たい大雨の中、血を流し、ずぶ濡れになってアスファルトの上で最期を迎えた──。  どんなに辛かったろうか……  どんなに寂しかったろうか……  どんなに──悔しかったろうか……。    烈己はとうとう嗚咽を上げて泣き出した。  子供みたいに溢れてどうしようもない涙を止める方法など到底見つからなかった。  泣き声を抑えられない、震える体を抑えられない、気が狂いそう──。  俺が愛した人は── ──この世で一番選んではいけないαだった……。  タクシーから降りた大澄は、フラフラと覚束(おぼつか)ない足取りで自宅のマンションへと辿り着いた。  重い足を引きずるようにしてエレベーターへ乗り込むが、うまく膝に力が入らずバランスを失い、壁へ思い切り背をぶつけ、そのまま床へ崩れた。  エレベーターを降りた後も壁に寄りかかりながらヨロヨロと廊下を進み、ようやく玄関扉へ手を掛ける。  扉を開くとともに腰が抜け、玄関口へそのまま倒れ込んでしまう。うまく受け身が取れなかった腕がズキズキと痛むが、それよりも眩暈が酷くて大澄はしばらくその場で動けずにいた。  瞼を閉じてはじめに浮かんできたのは最後に見た烈己の安らかな寝顔だった。それと同時にどうしようもないくらいの後悔が大澄の全身を襲った。  散々泣いて枯れたはずの涙が懲りもせずまた溢れてくる。悲しみなのか怒りなのかわからない感情の波が頭と胸の中をぐちゃぐちゃに壊しては引き裂く。耐えきれずに大澄は絶叫した。  半狂乱になりながら四つん這いで廊下を進み、アトリエの扉を開いて正面に見える兄の写真たちを睨んだ。 「花月……っ、俺はそんなにひどいことをしたか? お前を理解してやれなかったから俺はこんな目に遭うのか? 花月俺はっ…………」 ──今日ほどお前の弟であることを恨んだ日はない。 「なんで烈己なんだ……っ、なんで……俺の兄貴がお前なんだ……どうして……こんな…………」  十代がする初恋みたいに浮かれて、彼に恋をして、愛して、家族を作ることを夢見た──毎日彼がいる生活、人生を夢見た……彼が望む未来をあげたいと心から思った──なのに……。  制御できない涙たちが床へバラバラと溢れてゆく。  情けなくて妙な笑いすら込み上げてくる。  ふと、大澄は四つん這いのまま物置の扉へ手を掛けた。  その棚には三年間手付かずだった兄の遺品が片づけられており、大澄はガムテープで閉められた段ボール箱を乱暴に開いた。    箱の中には展示会に回されなかった写真や、兄がプライベートで撮影した趣味の写真たちがファイリングされていた。  大澄は何かに取り憑かれたようにしてページを捲り、何冊目に差し掛かった時、目を見開き手を止めた。 「──烈己……」  そこには今よりずっと若くて青い、学生服を着た烈己が写っていた。  ピントは合っているが目線がよそを向いている。きっとこれは兄が本人に了承を得ず、勝手に撮影したものだろう。  買い物帰りなのだろうか、あの遺影の女性が隣に並んで歩いていた。  そんな母親に向かって烈己は今と変わらない優しい笑顔を向けている。 ──その何気ない二人の日常を……自分の兄が奪った……。  別の日の写真は母親の女性が一人で歩いているものだった。  兄は何を思って彼女を撮っていたのだろうか──。  兄は彼女に死ぬまで嫉妬し続けていたのだろうか──。  愛する男のΩに──。    大澄は下半身を引きずってそばにある壁へ体を預けた。  大きくため息をついて、膝の上へ烈己たち親子の写真が入ったスクラップを投げ出す。  三年経った今でもあの事故の日のことを忘れたことはない──。  いつものようにアトリエで絵を描いていた大澄へ兄から突然電話が入り、スピーカーで何気なく聞いたその声はひどく動揺して怯えていた。  そして、次の瞬間恐ろしい言葉を兄は口にした。  兄は目の前で、ある女性がトラックに撥ねられる姿を見たと言う──。  正しくは、自分を庇い轢かれてゆく女性の姿を…………。  泣き叫ぶようにして掛かってきた電話口で兄は目の前で起きた出来事すべてを告白し、自分はどうすれば良かったのかと弟へ何度も問うた──。    大澄は何も答えることが出来なかった──。  あまりにも惨烈な真実に、何を伝えれば良いのかその場凌ぎの言葉すらわからなかったのだ──。  言葉を選びあぐねている間に、電話口の兄の様子が急変した。突然痛みを訴え出し、苦しそうに唸り声をあげ、いくらこちらから話しかけても唸り声が聞こえるばかりで返答がなかった。  そのうち声は無くなり、携帯電話は無情に打ち付ける激しい雨音だけを響かせ続けた。  大澄は、ひどい耳鳴りと共に、すべての音がなくなるような錯覚に陥った。そして、双子の本能がを悟らせた──。 ──兄は死んだのだと。  雨の中、なにをどう探せば良いのかわからない大澄が一心不乱で弟の家の周りを探し回っていると、携帯が着信を知らせた。  画面には見たこともない番号が表示されていて、大澄が震える指で応答すると、電話の向こうの相手は静かに兄の死を伝えた──。 ──兄は三回目に授かった胎児を流産し、そのまま出血性ショックで冷たい雨の中、命を落とした。  奇しくも自分を庇った女性と同じ日に、彼はまだ見ぬ我が子とともに天に召されたのだ──。 「俺が代わりに死ねばよかった……、お前じゃなくて俺が──、そうすればお前は夢にまで見ていた愛する男との間に子どもを産んで、家族になれた……。そして俺は烈己を不幸にせずに済んだ……傷付けずに済んだんだ……」 ──なのに、生きているのは俺なのか……。  何のために?  愛する人を傷付け、失い、誓いは全て嘘になった。  夢を見させるだけ見させて、すべてを壊した──。  αの本能よりも、大澄天地としての魂が選んだ、誰よりも愛しい人──。 「泣き虫で、どうしようもない……、あんなにも優しい子を……傷付け……ひとりにした……」    きっと今頃絶望して泣いているだろう──。  すべてを悟り怒り、自分たち兄弟を憎んでいるかもしれない──。 「どうして……」  俺たちは出会ってしまったんだろう…………。  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎  何度連絡しても繋がらない親友の携帯に痺れを切らした江は、秀を連れ直接家まで押しかけた。  だが、チャイムを何度鳴らしても中からの応答がない。 ──三年前のあの日も、烈己は江の連絡に一切反応を示さなかった。  その時も江は今みたいに烈己の家へ無理矢理押しかけ、母親の四十九日が過ぎるまで烈己の家に入り浸るようにして過ごした。  当時の烈己は、立ち止まって泣く暇もないほどあらゆる手続たちに追われていた。学業との両立でくたくたになりながら、夕飯を食べ終わったと同時に寝息を立てているような毎日だった。  四十九日の法要が終わり、自宅の畳の上で烈己は手足を投げ出し、大の字になって大きく伸びをした。 「終わった〜!」  そう口にした烈己の体はこの一ヶ月と二週間あまりでうんと痩せていた。  十七歳がたった一人で、この世にたった一人だけの家族の死を見送った。それがどんなに辛く、どんなに絶望的だったか──。  なのに烈己は、親友へ向かって「ずっとそばにいてくれて、俺に付き合ってくれてありがとう」と、感謝を告げると、柔らかに微笑んでみせた。  その時の笑顔があまりにも痛くて、辛くて、今泣いていいのは自分じゃないのに、江は我慢出来ずに大泣きしてしまった。  その姿に驚いた烈己は、必死に江を宥めようと抱き寄せたが、反対に江から抱き締められ、痩せて背骨が浮き出た背中をゆっくりやさしく撫でられる。 「……頑張った、よく頑張ったな、烈己。もういいよ、もう大丈夫、全部放りだしていいよ。もういいんだ」  その言葉に、烈己を奮い立たせていた全てのものが体からバラバラと音を立てて外れてゆく。重くて重くて、投げ出したくても投げ出せなかった義務や現実の鎧たち。もう脱いでもいいんだよと、江はやさしく何度も言ってきかせる。  そして烈己は堰を切ったように泣き出した。  こどものように嗚咽を上げて、狂ったように泣きちぎった。  突然理不尽に訪れた悲しみや苦しみ、怒りすべてを喉から叫び声と共に吐き出して、溢れた涙で流してゆく。  悲しみと同じくらい烈己は怒っていたのだ。  母を殺したトラックに、  自分を一人にした母に、  母に怒りを覚える自分に──。  だけどもう終わった。  怒りを感じることにもう良心の呵責で苦しむこともない。  もういいんだ──と、烈己は親友の肩へ顔を乗せ、深く大きな安堵のため息をこぼした。 「俺、ひとりじゃないね。ずっとここに江がいた……」  穏やかな笑みを浮かべながら烈己は静かにそう告げた。 ──その時、江は誓った。  烈己を絶対ひとりにしない、孤独にしないと。弱くて何もできないΩだと世間に蔑まれても、絶対にそれだけは譲らない。  たとえ烈己を幸せにすることが自分の役目でなくても、烈己を悲しませないようにすることが自分の役目なんだと江は心に決めたのだ。  なのにまた、三年前のあの日に逆戻りするのかと江は怯えた。  また重い鉄の扉の向こうに烈己は閉じこもって、ひとりで泣いているのだろうかと江は恐ろしくて仕方なかった。      江は良くないことだと知りながらも、外壁と雨どいを使って秀を烈己の部屋がある二階のベランダへと登らせた。  不用心にも窓の鍵は開いていたらしく、秀はそのまま窓を開いて中へと姿を消した。 「変なことしてないよね……ねぇ、烈己……」  不安に押し潰された江の瞳はすでに溢れた涙で濡れていたが、自身の涙に構うことなく、江は玄関のドアを開くのを祈りながらもジッと睨みつける。  玄関の鍵が内側から開いた瞬間、江は外から勢いよくドアを開き、うまく脱げなかった靴たちを乱暴に投げ捨て転がるようにして室内へ飛び込んだ。 「烈己っ!」    リビングに烈己の姿はなく、いつも綺麗にしてあった部屋が脱いだものや食べたもののゴミたちで荒れていた。  すぐさま寝室に向かうと、ベッドから烈己の小さな頭が覗いていて江は慌てて駆け寄る。 「烈己っ、烈己!!」  そこには真っ白な顔をした烈己が赤ん坊のように横向きで丸くなって眠っていて、深い眠るについているのか、そばで叫ぶ江の声がまったく届いていないようだった。  烈己からはアルコールの強い香りしていて、江はすぐに中毒を疑う。慌てて携帯を取り出した江を秀が冷静に止めた。 「コイツはそんなに飲めないよ。無理しようにも飲み込めずに先に吐き出すタイプだ。寝たまま吐いた様子もないし、寝息もいたって平均的だ。ただ酔っ払い潰れて寝てるだけだろ」 「でも……」  秀の前で狼狽える心細そうな恋人の姿が珍しくて、もう少し見ていたいと不謹慎で悪い心がざわつくのをどうにか振り払って、秀はおもむろに烈己の腕を掴み、耳元へと口を近付けた。 「起きろっ! 烈己ッ!!」  α特有の強い波長を含んだ叫び声に、目の前にいた江ですらビリビリと鼓膜が鳴り、視界がチカチカして全身が震えた。 「ギャヒャアッ!!」と、烈己は目の前に雷が落ちて瞼の中で火花が飛びるような錯覚に陥り、上半身を大きく揺らして一瞬で覚醒した。  何が起こったのか全くわかっていない、ショックを受けて呆然としたまん丸の瞳がぐるぐると揺れている。 「──起きたか?」 「……え……秀? なんで……、あ、江も……? え?  なに、どうしたの?」 「どうしたのじゃないっ! 全然電話も出ないしっ! チャイム鳴らしても反応ないしっ! お前に何があったんじゃないかって俺……」  江はとうとう堪えられずに、大きな瞳からボロボロと涙を零した。 「江っ」  動揺した烈己が、泣きじゃくる親友の背中を必死に撫でながら、もう片方の手で頬を拭う。 「ごめん、心配かけて……。でも大丈夫、生きてるよ」 「本当に心配したんだからな……俺、本当に……」 「うん……うん。ありがとう、江。ごめんね……、ごめん」  震える体を優しく抱きとめて、烈己は親友の髪を撫で、赤ん坊でもあやすみたいにその背中を何度も軽く叩いた。    江がようやく落ち着きを取り戻した頃、烈己は重い口を開いて自身が知ったばかりの事実のすべてをゆっくりと、親友二人へ語って聞かせた。  江は握り拳に込めた殺意を押し殺すことが出来なかった。 「江の忠告がまんまと的中した。俺ってやっぱダメなΩだよな、もう自分でも呆れて笑っちゃう」 「烈己はダメなんかじゃないっ! 烈己をダメなんて言う奴がこの世にいるならそいつら全員殺してやる!」 「ちょ……落ち着いてよ、江……」 「落ち着けるわけないだろ! ふざけやがって!! 烈己を傷付けるなんて絶対許さない!! 許さないっ殺してやるっ!!」 「江お願いだから落ち着いてって! ねぇ、秀も止めてよ」 「無理。コイツはお前のことになると止められない」  秀は至って冷静な声色で首を横に振ると、自身が淹れた茶を一人優雅に啜った。  絶望の眼差しでそれを眺め、烈己は江へと再び向き合った。 「江、あのね、大澄さんは俺がお母さんの息子だってきっと知らなかったんだよ。でなきゃモノ好きにもほどかあるだろ? 俺も同じでさ、事故現場にいた人が大澄さんのお兄さんだなんて知りもしなかったし、事故現場にもう一人いたことすらこの三年間知らなかったんだから」 「だったら何? 知らなかったら黙っていなくなってもいいわけ? 連絡のひとつも寄越さないでいいの? ありえないよ!」 「じゃあなんて言うの? 自分の兄があなたの母親の事故に関わってたけど今朝までそのことを知りませんでした。さすがに気まずいので今すぐ別れましょうって?」    冷静に言葉を返す烈己に江が思わず尻込み、口をつぐんだ。下がった眉の江をやさしく見つめながら烈己は再び微笑んでみせる。 「ありがとう、江。いつもいつも俺を大切に思ってくれて本当に感謝してる。江がいなかったら俺今頃生きてないのわかるもん。お母さんが死んだあの時から、江がいるから俺はどうにか生きてこられたんだよ。俺がαだったら絶対江を番にする」 「コラ」と秀が烈己の頭をつつく。 「アハハ、珍しく秀が怒った」  秀はため息をひとつ溢すと立ち上がり、烈己を見下ろし、その頭をやさしく撫でた。 「何が食べたい? どうせロクなもん食ってないんだろう。俺はお前に飯を作るくらいしか出来ないからな。作り終わるまでにこの部屋二人で綺麗にしてろ」 「へへ、秀もありがと! エラソーなこと言ってごめんね、ウニはしばらくお預けみたい」 「それまでちゃんと貯金しとくから心配すんな」 「ウニ? 何の話?」と江が首を傾げる。 「秘密」と二人同時に笑顔で返されて、江のピンク色のほっぺがぷうと膨らんだ。 「やだぁーっ、なんで俺だけハブんのお? ヤダヤダっ俺も混ぜろぉ〜っ」 「痛いよ江っ、そんな強く抱きつかないでっ」 「お前わざとやってるだろう」と、呆れた秀が静かに目を細めた。 ──ああ、そうだ。これが俺の日常だった。  烈己はふっと親友たちの姿を目で追った。  大丈夫、心配ない。二人がいるなら頑張れる。  俺はきっと頑張れる。  だからね、大澄さん──  俺はあなたへの想いを捨てることにするよ。  どれだけ時間がかかっても、どれだけ苦しんだとしても忘れてみせる。  だから──  もし、あなたが俺や母や、あなたのお兄さんのことで苦しむことがあったのならどうか捨てて、忘れて。  俺のお母さんもあなたのお兄さんももうこの世にはいない。いない人のことを悔やんでもどうしようもないことをきっと俺たちはもう知ってる。そうでしょう?  あなたの愛を疑ったことはない。あれはきっと本物だった。少なくとも俺はそう信じてる。  あなたに貰ったたくさんの愛も、言葉も全部全部捨てるけど、二人が過ごした時間は真実で、消えることはないから──。真実は絶対で、俺たちが忘れてもそこに存在し続ける。   ──ああ、だけど叶うなら……せめてあなたにサヨナラを言いたかった。

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