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douze

 それから一ヶ月して、烈己は二年勤めた在宅の仕事を辞め、今は先日採用された二駅隣りにあるインテリアショップで販売員を始めたばかりだ。  顔を見ながらの接客業はまだまだ慣れないけれど、同僚の中には同じΩも何人かいて、年齢も性別も関係なく皆気さくで、和気藹々とした暖かくてとても雰囲気の良い職場だ。  仕事が慣れたら、そのうち引っ越しもしようと烈己は考えていた。  母と最後に暮らした大切な思い出のアパートだったけれど、それよりも今は新しい一歩を踏み出したい気持ちで溢れていた。  大きな出会いと別れを一度に経験し、それらを思い出にするにはまたまだ時間だけでは足りなかったからだ。 「髪の毛伸びなぁ……そろそろ切らなきゃ……」  烈己は洗面所の鏡を覗きながら、重くなり始めた前髪をといた。 「パーマとかかけちゃう? いや、でも似合わなそう〜」  鏡に向かって独り言を続けていると、突然玄関のチャイムが鳴った。  日曜の朝に来客の予定はなく、烈己は一瞬息を呑んだ。 「────俺もう……期待したくないのに……なんで……」  洗面所からゆっくり玄関へと向かう。  覗き穴を見てもいないのに、烈己の全身はおかしな緊張で包まれ、あちこち鳥肌が立っていた。  ドアを開くなくとも、その先に誰が立っているのか、烈己にはなぜかわかったのだ。  震える手で鍵をゆっくり開き、ノブへ手を掛ける。  心臓が激しく打ち出して、烈己は思わず胸を押さえた。下唇を噛んでドアを開くまでの覚悟を決める。  最後に大きな深呼吸をついて、烈己はドアを開いた。  開けた瞬間、膝が崩れそうになった。  鼻腔を抜けるこの香りも、視界に映るこの姿も、目があったその瞳も何もかも──  自分がずっと求めて求めて、忘れようとしていたあの人のもの──  声が出るより先に、勝手に溢れた涙が唇へ伝う。  それでも烈己は懸命に口を動かして、どうにか声を出そうと藻掻く。眉を曇らせた相手の顔が涙で滲んでゆく。顔を見たくて乱暴に目元を擦った手を相手に止められ、触れられた場所が一気に熱を帯びた。 「…………お、大澄さん……」  ようやく烈己はその名を音にして呼んだ。  ずっと口にしていなかった愛しい人の名前──。    大澄はゆっくり微笑み、頷いた。 「烈己……ごめんな、黙っていなくなったりして……、本当にごめん」    大澄の声が烈己の鼓膜を揺らし、心臓を突き刺した。  痛くて痛くて烈己はとうとう我慢できず、その場に崩れ落ちた。  慌ててしゃがんだ大澄は、無意識に烈己の髪へ触れようと伸ばした手をすんでのところで止め、強く握りしめた。  拳をきつく握って、血管が浮き出ている大澄の手首を今度は烈己から触れた。 「だめ……ケガしちゃう……」  爪が鋭く食い込んだ手のひらは青紫に色が変わっていて、烈己は痛々しいそれを辛そうな瞳で見つめ、指でやさしくなぞった。  大澄は肩を跳ねるように揺らし、きつく目を瞑った。下唇を噛んで我慢できなくなった両腕を伸ばして小さな体を抱きしめる。  それだけで烈己の全身は簡単に力を失った。  大きくて暖かいその腕に包まれるだけで、こんなにも自分は無力になるのかと、烈己は自分自身に呆れるほかなかった。 「──大澄さん……少し痩せた? ちゃんと食べてる?」 「ん……」  大澄はろくに返事も出来ずに烈己の痩せた背中をゆっくり撫でながら、抱きとめる腕の力をさらに強くした。 「烈己……俺の話……聞いてくれるか……? 俺の……兄貴の話を──」  烈己は涙で濡れた瞳を大きく開き、しばらく黙ったまま逡巡し、ゆっくり静かに頷いた。  烈己は強い緊張で渇き切った喉へ冷たいお茶を一気に流しこむが、慌てすぎたせいかうまく飲めずに激しく咳き込んでしまう。  大澄から本気で心配され、あまりの恥ずかしさに早くも穴へ潜りたくなっていた。  どうにか呼吸を落ち着けて、まだ若干熱を覚える頬のまま、烈己はゆっくり話しはじめた。 「──俺ね……大澄さんがいなくなったあの朝に、アパートの人から聞いてはじめて知ったんだ……。事故の時、運転手以外にもう一人いたこと……」  その言葉に大澄の目は素直に驚いた様子だった。 「大澄さんあの朝、ここで女の人に声かけられたでしょ? その人ね、事故の時、近くにいたんだ。大澄さんを見て現場から逃げたのと同じ人だと思ったんだって。それで俺の中で合点がいったの。現場にいたのは大澄さんのお兄さんだったんだって……」  最後の言葉を重く、ゆっくりと烈己が告げると、大澄は瞳の色は翳りを見せた。そして視線を落とし、静かに頷いた。 「…………そう、あそこにいたのは兄貴だよ」  自身が組み立てた謎解きの最後のピースがはまり、烈己はゆっくり深呼吸し、最後に大きく息を吐き切った。 「やっぱりそうだったんだ……。俺ね、それを聞いた時ものすごく腹が立った。お母さんを見殺しにした奴がいたのかって死ぬほど腹が立った、気が狂いそうだった」 「うん……」 「…………けど、もう恨むのも怒るのも疲れちゃった。だって、どうしたってお母さんはもう戻ってこないんだもん」 「……ごめん……本当に申し訳なかった」  大澄は烈己の顔を見ることも出来ずに俯いて、正座した膝の上で自身の両手をきつく握りしめた。 「話って? 謝罪ならいらないからね。だって、そこにいたのはお兄さんであって大澄さんじゃない。血が繋がってても完全なる別人だから」  烈己が苦しげに引き上げた口角を見て、大澄は余計に胸を痛めた。一度はその瞳から逃げるように視線を外し、そして覚悟を決めたのか、再びその瞳へゆっくりと向き合う。 「──この話はあくまで兄貴から聞いた話であって、二人が亡くなった今、真実を確かめることはできない──それでも聞いてくれるか?」 「…………う、ん」  烈己はかつてないほど真剣な眼差しの大澄を見て、思わず唾を飲んだ。 「俺の兄貴──花月は(かづき)は、元々は俺と同じαとして産まれた。だけど好きになった相手もαだった。それで兄貴はΩになることを選んだ」 「えっ?」 「花月は──そのαとの間に血の繋がった子供を、家族を作りたかったんだ」  耳が痛いと思った──。  それはつい最近まで自分が口にし続けていた言葉と、まったく同じものだったからだ。 「──大澄さん、前に自分の寂しさを埋めるために人生を狂わせた酷い奴がいるって話してくれたよね? それって……」 「ああ、その相手のαのことだよ」 「お兄さんは無理矢理Ωに?」 「──だったらまだ恨み甲斐もあったんだけど、それは花月の本心だった……。花月がそこまでして実の子にこだわったのは、そのαには別のΩとの間に子供が一人いたからなんだ」 「元番相手ってこと……?」 「いや、そのΩとの間にそういったものはなくて、二人はただの近所に住む幼馴染みのような関係で、αが初めてラットになったとき、たまたまΩが家にやって来て、二人は初めてそこで関係を持ったんだ──」 「それって、好きでもなんでもないのに子供を作って産んだってこと?」 「少なくともαには初恋みたいな感情はあったんだと思う。ただΩにとってそのαは年も離れていて、ただの幼馴染みの弟みたいな存在だったんだ──」  烈己はαとΩの本能を恐ろしく思った。  人間である感情より以前に、本能が勝る現実が存在するのかと──まさにそれこそ呪いだ。自分たちの意思だけでは逃れない生殖本能に、人の手によって造りだされたこの性の本質に慄然とする。 「そのαは絵に描いたようなエリート家系の長男で、当時は父親になれるような年齢でもなかった。Ωは妊娠したことを誰にも言えずに、堕ろすことも出来ず、最後には家出して、一人で子供を産んだ」  烈己は自身がΩなせいか、どうしてもそのΩに自分を重ねてしまっていた。  もし自分が同じ立場になった時、自分はたった一人でその子を育てる覚悟が出来るだろうか──。 ──何よりも好きでもないαとの間に授かったこどもを愛せるのだろうか……。  不安そうに顔を曇らせた烈己に向かって、大澄は静かに微笑みかけた。 「烈己が思っていることはわかるよ、その子はちゃんと母親であるΩに愛されたのか気になったんだろ?」  自身の心を簡単に見透かされて、烈己は目を大きく開いた。 「大丈夫。その子はちゃんと愛されて育ったよ。父親の分も母親に倍以上の愛を注がれて、真っ直ぐ、綺麗な心のまま大人になった」  大澄の、何かを言わんとしている瞳の中で、溢れかえっている愛情に気付いた烈己は息を止めた。心臓が高鳴るとともに鼓動が早まる。驚いて開いた瞳はさらに丸くなり、うっすらと涙で濡れはじめていた。  あの夜、最後に触れた指先がゆっくり伸びて、烈己の柔らかな頬をなぞり、大きな手のひらが優しく撫でる。 「その子の名前は烈己──。今、俺の目の前にいるよ」  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ──同じ顔を持って生まれた兄が恋をしたのは、九歳年上の自分と同じ、男のαだった。  二人の出会いは写真専門学校を出たばかりの花月が、個人で初めて開いた写真展のギャラリーでだった。  αの兄が同じα相手に、Ωのような運命的な何かは存在しないはずだった。だけど、兄はなぜかそのαに惹かれた。自分より経験値の高い大人な言葉に惑わされたのかもしれないし、α性を抜きにして、純粋に恋に落ちたのかもしれない。  どっちにしろ、本当の番になった二人に、最早他人の仮定も憶測もなにも必要ない。  そばで見ている分には、はじめはあくまで兄の片想いのようだった。  それはそうだろう。向こうからすればこちらもαだ。恋愛対象になるなんて思ってもみなかったはずだ。  兄の写真を気に入った彼に兄から友達になろうと持ちかけ、二人は関係をスタートさせた。  少し臆病な性格をした兄に、そんな積極的な一面があったことが内心驚きではあったが、俗にいう恋心が兄を変えたのだ。  それまではどこか神秘的で繊細だった兄の写真は、いつしか温度を持ち、人々にとって現実味のある、身近ななものに姿を変えていった。  それは写真展の客層の変化にも如実にあらわれ、訪れる人たちの年齢層の幅はぐっと広がり、兄の恋はわかりやすいカタチとなって写真に映し出されていった。  二人が友人から恋人になるのに大した時間は掛からなかった。言葉にするのが下手な兄でも、わかりやすい好意を前に疎くいられるほど相手は子供じゃない。  そして、久しぶりに顔を合わせた兄は明らかに様子が違った。  恋人と同棲するからと、引っ越しの準備を手伝いに行った時、俺は自分の目を疑った。  瓜二つだった兄弟は、よく似ているだけの兄弟に様変わりしていたのだ。  ひとまわり体の線が細くなっていた兄からは、嗅ぎ慣れない匂いがした。  兄は──Ωになっていたのだ。  兄は恋人であるαに首筋を噛まれ、Ωへと変化していた。成人になってからのビッチングは明らかに兄の体に負担を要した。ホルモンバランスの崩れから兄はよく寝込むようになり、薬の常用も増え、どことなく顔色が悪く思えた。  そこまでしてΩにこだわる必要があったのか、俺は理解に苦しんだ。  だが、兄の願いは至ってシンプルだった──。  "彼との間にこどもを授かりたい。血の繋がったこどもを──"  この現代、そもそもα同士の子供は産まれないのが基本とされている。元々人工的に作られたこの性には弱点も多く、はじめの遺伝子が同じとされるこの性の同性交配における胎児には劣勢遺伝子を持つ可能性が非常に高いとされた。  後天的にΩになったとしても、αとのこどもを妊娠することや最後まで母胎の中で正常に育って産まれるケースは未だ難しいとされ、さらにホルモンバランスを崩し、体が弱った兄に妊娠はひどくハードルが高いものだった。  たけど、兄は固執した。  二度の流産で心も体もボロボロになり、ただてさえ痩せていた体はより一層儚さを増し、それでも兄はこどもを諦めようとはしなかった。  いくら兄弟だからといって、口出ししていい問題じゃないことくらいわかってはいたが、俺はこのまま兄が弱り続けて壊れゆくのをとてもじゃないが黙って見ていられなかった。  俺は相手のαにこどもは諦めるように頼んだ。ここまでして血の繋がりに拘るのかと、相手を責めた。だが、それはお門違いな話で、血の繋がりに固執しているのは兄一人だったのだ──。  αの彼にはすでに血の繋がったこどもが一人存在しており、一度も会ったことはないが、それでも大切に思っていると話していた。それが花月を苦しめていることも知っていた。  だからといって、大切に思う彼の気持ちをいくら番だからといって、花月が否定していいものじゃない。  産まれたこどもには何の罪もないのだ──。  その子の命を大切に思うのは、誰にも等しく許された行為なのだから──。  だが、兄はその子がいる限り、相手のαはその子の母であるΩのことも大切に思い続けるのではないかと考えたのだ──。  兄は恋愛に対してにひどく幼すぎだのかもしれない。  相手のαにとって、兄はすでに何よりも誰よりも大切な家族の一人だったのに、その愛すら見えなくなるほど、兄は猜疑心に体を蝕まれていたのだ。  こどもが産まれることで兄がαの愛を心から信じ、穏やかな心を取り戻すのことが出来るのであれば、いくらでも彼の願いに寄り添いたいとαは悲しげに告げた。  そして、兄の写真はいつしか温度を失った──。  白黒の世界は常に悲鳴をあげていて、安住の地を求めて彷徨う兄の苦しみがすべてに映し出されていた。  その叫びは、また別の客たちの心を魅了したが、彼らに写真の奥に潜む本当の苦しみまで推し量ることなど出来るはずもなかった──。 ──そして、悪夢の日は訪れた。  三人目の命をようやく授かり、大切に育てなければならないときに、兄はよりによってあのΩに会いに行ってしまったのだ。  相手になにを求め、なにを話しに行ったのか、今となっては誰も知ることは叶わない。  そして、対峙してはじめて兄は恐ろしくなったのかもしれない。  の前から逃げ出した兄は、走ってくるトラックに気付けず、轢かれかけたところを後ろから追ってきた彼女に突き飛ばされる形で庇われ、その命を救われたのだ。  そして彼女は兄の代わりに命を落とした──。  自分にも大切な家族がいたのに、彼女は兄と、兄の中にある新しい命を助けることを優先してしまったのだ。  誰にも迷惑をかけずに生きようと必死だった彼女が、知らぬところで兄を苦しめていたことを悔いていたと、兄は最期に俺へ語った──。  兄は愚かにもそこで初めて目が覚めたのだ。  彼女には何の罪もないことを──彼女が悔いる必要などどこにもないことを──そうやって懸命に生きてきた彼女が自分の命をかけてまで兄を救う必要など、どこにもなかったことを──。  彼女は命の途切れる瞬間、兄に早く行けと一言告げた。  最期の言葉が、愛する息子へ送る言葉でも恨みの言葉でもなく──彼女は最期の最期まで兄とそのお腹の子を守ろうとしたのだ──。  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎  最後まで黙って大澄の話を聞き続けた烈己の瞳からは、大粒の涙が溢れかえり、とどまることなくボロボロと畳へ落ちてゆく。  放心状態で開かれた瞳のまま、烈己は大澄の顔を見つめる。 「…………おかあさんは、大澄さんの……お兄さんを庇って死んだの……?」  大澄は声を発することもできず、苦しげに眉根を寄せ、ただ静かに頷く。 「見ず知らずの…………人を助けて……、自分は死んだの? 俺がいるのに…………お母さん、なんで…………っ」  とうとう我慢できずに烈己は畳に崩れ落ち、肩を激しく揺らしながら嗚咽を漏らす。悔しさで握りしめた拳が畳を殴りつける。 「馬鹿じゃんっ! 助けたのにっ、その人もすぐに死んで…………っ、お母さんが死ぬ必要なんてどこにあったの?! 無駄死にもいいところだよ!」 「無駄なんて言うな烈己……っ、お母さんはっ……」 「うるさいっ黙れっ! 俺の母親のことをが口出すな!!」  感情的にぶつけた言葉に烈己は自身で驚き、両手で口を塞いだ。 「ごめん──。その通りだ……。他人の俺じゃ、どう償っても償いきれない──」 「…………ごめんなさい……俺……」烈己の瞳は後悔で震えている。 「謝らなくて良い。烈己はその怒りを今まで誰にもぶつけることが出来なかったんだから、俺にぶつけていいんだ」 「…………ううん、違う、それは違う。俺の怒りは誰にぶつけてもいいものじゃない……。俺が悲しいからって誰かを傷付けて良い理由にはならない──大澄さんだって誰より傷付いた。大切なお兄さんを失って、お兄さんが庇って死んだのが俺の母親で──その呪いを俺と同じくらい憎んだはずだよ」  大澄は驚いたような目で烈己を見た。   「──どうして烈己は……、烈己はなんでそんな風に俺に優しく出来るの……」 「大澄さんって馬鹿なの? そんなの一つしかない……。俺があなたを誰よりも愛してるからだよ」  涙で濡れた瞳のままで烈己は穏やかにそう告げた。  体中を締め付けていた緊張や苦しみから大澄は一気に放たれ、力を失った体はぐらりと前へ倒れかけた。慌ててその体を烈己が抱き留める。  だが、思っていたよりも重い体を受け止めきれずに、烈己は大澄を抱いたまま背中から畳に倒れ込んだ。  ゴンッ! と鈍い音が烈己の後頭部からして、大澄は一気に血の気が引いた。 「いったぁ〜!!」 「烈己っ、大丈夫かっ?」  大澄が青い顔をして、慌てふためきながら自分の頭を撫でるのを烈己はぼんやりと眺め、そしてすぐに大きな声で笑いはじめた。 「──烈己?」 「色気な〜いっ! ヒャハハっ! こんなシリアスなシーンで俺たちって、ほんと、ハハッ──やっぱ向いてないね、誰かを恨むの」  その瞳には明らかにまだ悲しみの涙が浮かんだままだったが、烈己は微笑むことをやめなかった。そして、大澄から流れている、自身も気付いていなかった涙をそっと指で優しく拭ってやる。 「他人だなんて言ってごめんなさい。俺は母を、大澄さんはお兄さんを。互いに大切な肉親を失った当事者で、俺たちは唯一同じ立場にいる人間だった」 「烈己…………」 「人間て不思議だよね、いや、俺だけか? 何度でも怒れちゃうの、学習しないよね。噴火山なこの性格どうにかしなきゃ……」 「そんなことない。大切な人の死なんだから、怒って当然なんだ。その感情まで失くす必要なんてどこにもない。死ぬまで持ってていい大切な想いだよ」 「だけどすごく疲れちゃう。怒るのって本当に疲れるし、何にも生まれないよね、泣くのだってすごくしんどいもん」  烈己は瞼を閉じ、ハーッと大きくため息をついて再び目を開いた。 「大澄さん、俺ね、あなたのこと忘れようってすごく頑張った。あなたを好きなこの気持ちも、あの時誓ったすべても全部捨てて過去にしようって必死に頑張ったんだ」  大澄は唇を引き結んで、じっと烈己が語る決意に耳を傾けた。 「だけど──やっぱり無理だった。さっきドア開けた途端に全部飛んでっちゃった。大澄さんが大好き過ぎて、飛びついて無茶苦茶にしちゃうかと思った」 「…………烈己……」 「それってもう俺だけの一方通行──?」  最後は少し不安そうにして、烈己は大澄の顔を見上げた。 「…………本気でそう思うの?」 「はっきり言葉にして欲しい時だってあるよ」 「言っても怒らない? 殴らない? 蹴らない?」 「────やっぱ、ちょっと考えさせて」 「おおいっ!」  久しぶりに耳にした大澄の冗談めいた声色がなんだか無性に懐かしくて、烈己は耐えきれず口角が無意識に緩む。 「大澄さん、ひとつだけ、絶対に約束して」 「なに?」 「二度と俺にこのことで謝ったりしないで。母とお兄さんのことはあなたにはなんの罪もない、言ってしまえばきっと誰にも罪なんてない。母は自分の意志でお兄さんの命を選んだ。俺も二度とそれを否定しないって決めた。無駄死になんて酷い言葉、もう絶対口にしない」  烈己の大きく強い瞳が真っ直ぐ大澄を見据えていた。 「…………俺は烈己をたくさん裏切ったのに……、烈己は俺をもう一度信じてくれるの……?」 「大澄さんは俺を傷付けたくなくて、何も告げずに離れたんでしょ? 馬鹿な俺でもそれくらいわかってるよ」 「烈己は馬鹿なんかじゃない。心の優しい、本当に素敵な子だよ……」 「言ったな〜、もう取り消させないからね」 「はい」 「なに、はいって。かわいい」  烈己は畳に背中をつけたまま肩を揺らして無邪気に笑ってみせた。 「烈己──もう一度、俺と家族になる決心、してくれる?」 「──三度目はないからね」  少し意地悪っぽく烈己は笑って、大澄の頬をそっと撫でた。その手を今度は大澄が取り、やさしく手の甲へと口付ける。 「──うん、今度こそ俺のそばにずっといて。一緒に孫の結婚式見て、一緒のお墓に入ろう」 「ねぇ、それやだ! 初めて会った日のことはさっさと忘れてよっ」 「やだ、忘れない。烈己と過ごした日のことは全部覚えとく」 「俺はもう忘れたい! 電車でのことも見合いの席でのことも全部消しちゃいたいの! ジコチューで恥ずかしくって思い出すだけで顔から火が出そう!」 「そう? 俺は勲章だな、あーんな嫌われてた烈己にこんなに愛される日が来るなんて、奇跡だよ」 「じゃあ百歩譲って覚えててもいい。そのかわり絶対自分たちのこどもには話さないで! もちろん孫にも! 門外不出! 他言無用!」 「ん〜〜〜??」 「ねえ! 笑ってないで約束してよ!」  大澄は烈己が欲しがる返事は寄越さずに、自身の体を烈己の胸の中へ滑り込ませ、背中へと両手を回した。 「大澄さんってば! ねえっ、約束!」 「良かった……烈己にまた会えた……」 「全然人の話聞いてないっ、コラ! 返事して!」  人の話も聞かずに大澄はぐいぐいと自身の頬を烈己の胸に擦り寄せて、幸せそうにため息を漏らした。 「ねぇ〜、俺の服で涙拭いてるでしょ」 「烈己…………烈己……」 「──もう……、だめだぁ、この人はぁ〜」  烈己は呆れたふりをして、幸せそうにその頭を抱き寄せる。 ──愛しい人の香り、声、心臓の音──。  目を瞑ると性懲りも無くまた涙が滲む。  誤魔化すように烈己は大きく息を吐いて唇をきつく結んだ。 「愛してるよ……烈己──」  大澄の低くて甘い声が直接胸に響いて、鼓膜までも震わせる。  その声を聞くだけで、頭も体もすべて大澄の世界へ|誘《いざな》われ、深い海の中へゆったりと沈んでいくような錯覚に陥る。  そこにはもう何ひとつ怖さはない──。 「俺も──愛してる……。もう絶対あなたを離さない……」

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