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treize

 腕の中にいる愛しい人の匂いを胸いっぱい吸い込みながら、烈己は酒にでも酔ったみたいに目をトロンとさせていた。  思考がまとまらず、見慣れた天井がなんだか揺れて見える。大澄が腕の中にいるからなのか、いつもより体も熱く感じる。身じろいだ烈己に気付いた大澄がくっつけていた頬を上げた。 「ごめん、重かった?」  大澄は尋ねながら烈己の顔へ視線を移し、すぐにそれがお門違いな質問だったことに気付く。  烈己の頬は熱を帯びているのか赤く染まり、泣き止んだはずの瞳はやけに濡れて艶っぽい。汗ばんだ首筋からは甘く強い香りがした。 「──烈己……?」  大澄は眉根を寄せて不安そうに烈己を伺う。 「ん……、熱い……」モゾモゾと小さな子どもがぐずるように烈己はシャツの首元を引っ張った。むずかって体を揺らし、シャツの裾を自ら捲り上げて胸下まで露わにする。 「おおいっ烈己っ!」  突然すぎる烈己の変容に、大澄はあからさまに動揺した。 「ん……なぁに? 大澄さん、俺熱い……ねぇ、脱いでもいい?」 「ええっ!」 「だって熱いんだもん……熱い……」  明らかにいつもと様子の違う烈己は、甘ったるい声を漏らしては無意識に大澄を惑わせた。 「──烈己ちゃん……、あの、ひょっとしなくても…………ヒート?」 「んん……? わかんない、薬飲み忘れてたかなぁ……、俺ちゃんと今月薬飲んでた?」 「俺が聞きたいんですけど〜〜っ」  困り果てる大澄のことなどお構いなしに烈己はモゾモゾとズボンのファスナーに手をかけ今にも脱ごうとしている。 「待って待って待って! 烈己! 危険っ、今はヤバい! 薬どこにあんの!」 「わかんない……熱い……、んん〜、うまく脱げない……ねぇ、大澄さんズボン引っ張ってぇー……」 「会話が成り立ってないっ! ねぇ、あの、俺ちょっと一旦帰宅してもよろしいでしょうか?」 「なんでぇ? やだぁ、俺のことまた一人にするのお?」  ショックで涙ぐんだ烈己が、大澄のシャツを強く握り締める。 「〜〜〜〜〜そうなんだけどぉ〜っ、その方が今は烈己さんのためにも良いかと思います〜」 「いや、もういや。離さないのぉ!」  タチの悪い酔っ払いみたいに、烈己は大澄の体に正面からしがみついた。体を離そうと起き上がる途中だった大澄は、バランスを崩して烈己を下敷きにして倒れそうになるのを手をついてどうにか未遂に終わらせる。  うっかり気を抜いたせいで烈己の香りを深く吸い込んでしまい、大澄は一気に目を回した。 「烈己……マジで、拷問……」 「大澄さんの肌気持ち良ぃ……冷たい……、ねぇ脱いで? スリスリしたい」 「ん? 夢か? まだ俺は夢の途中か?! ってコラ、脱がすな!」 「やだぁ、俺熱いのぉ」 「今濡れたタオル持ってくるから! 氷も! アイスだって買ってくる! だからお願い離して!」 「────なんでそんな俺から逃げるの? 俺のこと嫌いなの?」  本当に傷付いてしまったのか、烈己の瞳には今にもこぼれんばかりに涙が溢れかえっていた。 「泣かないでよ烈己〜っ、愛してるに決まってるでしょ!」 「だって、離してって……大澄さんすごい嫌そうな顔して……ぅ……う……」 「待って待って! 泣かないで! 待って!」  情緒不安定極まりない恋人はとうとう泣き出してしまい、それ以外の道を選ぶことができなくなった大澄は、その頼りない体を強く抱きしめた。  強い目眩とともに、体内の血液がすごい早さで巡る。抱きしめた体は明らかにいつもより熱く、熟れた果実の甘い香りが鼻腔から脳へと伝わり、強いアルコールを浴びたかのような高揚感が大澄を襲った。  今は絶対に背後の仏間を見ることはできないと、大澄は強く目を瞑って烈己の母親へ心の中で土下座と共に懺悔した。  人が懺悔している間も腕の中の恋人は、勝手に人のシャツのボタンを外して、気持ち良さげに首や胸元へ頬を擦り付けてくる。  一瞬無になった大澄は、烈己に完全降伏する共にその体を前から抱き上げ、迷うことなく寝室へと進んだ。 「コアラみたいっコアラっ」  大澄の胸に抱きかかえられながら、烈己は幼い子供のように上機嫌だった。「うんうん、コアラかわいいね~」と、大澄は自称コアラの尻をペチペチ叩いて軽く流す。  シーツへゆっくり背を下ろされたあとも、烈己は幸せそうにずっと微笑み、大澄の頬や髪を撫で回している。時折、人のほっぺを軽く摘んで「ふふふっ」と肩を竦めて遊ぶ。 「なに?」 「大澄さんだー」 「そうだよ」 「ほんもの?」 「本物。在庫一点、現品限り」 「なにそれー」  鼻先や頬へ軽くキスを落とされ、烈己はいつものように無邪気に笑った。 「あのね、結婚したら俺も大澄さんなんだよ?」 「そうだね、俺が鶏冠井(かいで)さんでもいいよ?」 「あ、そっかー。鶏冠井 天地……。んー、なんかしっくりこないかも」  烈己はイマイチ視点の定まらない潤んだ瞳をしながら宙を眺めている。 「それはまたゆっくり時間のあるときに考えよう?」  焦らされた大澄が烈己の思考を中断させ首筋に顔を埋めると、烈己からは子供とは程遠い、湿った吐息が漏れる。  その声がいつも以上に大澄の腰へ響き、思わず眉根を寄せた。 「大澄さんシャツ脱いでぇ、邪魔ぁ~」  普段なら絶対に出さないような、舌ったらずでやけに甘えた可愛い声とは真逆に、気性が荒いときの乱暴な手癖が露呈して、烈己は大澄のシャツを強引に引っ張った。 「コラコラッ、破れるからっ……! ああんっだめえっ!」 「ひゃははっ、変な喋り声ぇ~!」 「…………っとに、録画しといてやろうか、この子は……」  顔を赤く染めたまま大きな声で笑い続ける烈己をスルーして、シャツを脱ぎ捨てた大澄はあっという間に烈己の着ているものも剥ぎ取った。  体を覆っていた邪魔なものがすべてなくなって、烈己は気持ちよさげに体を伸ばし、目を瞑ってシーツへと頬を擦り寄せる。  丸見えになった無防備な首筋を指でなぞり、大澄はわざと軽く歯を立てた。  ビリッと電流を受けたみたいに烈己の体は震え、熱で濡れた瞳を大澄へと向けた。  ピンク色の頬へ手のひらを当てると、烈己は撫でられる猫のようにうっとりとした表情で睫毛を伏せ、自らその手に唇を寄せた。  それが、ギリギリのところで理性を保っていた大澄の致命傷となった。    さっきまで優しかった男は、危険な薬でも打たれたみたいに牙を剥き、目の前のΩのはらわたを激しく貪りはじめた。 「やぁっ……大澄さっ……やだ、あっ……んんっ」  赤くなるまで胸の尖りを舌で嬲り、涙ぐむ烈己の唇を塞いで舌を絡め取る。声を封じられた濡れた唇からは透明の雫が滴っていく。  長い口付けに耐えきれず、烈己は瞑った瞳から涙をポロポロとこぼし、助けが欲しくて大澄へしがみ付こうと伸ばした手で思い切り何か硬いものを握りしめた。 「☆■×※◆$〜‼︎‼︎‼︎ 痛ぁああい〜〜っ!!!」  大澄はあまりの痛みに烈己の体から飛び退き、シーツへ尻もちをついて正座を作った両膝の間へ両手首を突っ込み、俯いて肩を震わせている。 「えっなにっ? どうしたの?」烈己も慌てて体を起こした。 「どうしたのじゃないよぉ〜! 今思いっきり握ったじゃん!! 死んじゃうかと思った!!」  顔を上げた大澄は怯えた犬のように震え、真っ赤な顔をして泣いていた。 「えっえっ? 俺、何も見えてなくてっ、ごめんなさいっ えっ嘘、あれ、大澄さんの…………だった?」思わず烈己は苦笑いを浮かべる。 「他に誰かいます?!」 「……ごめんなさい……俺、苦しくって無我夢中っていうか、必死で……」 「…………ううう。──ううん。ごめんね、俺も一人で暴走しちゃってた……烈己のこと怖がらせたよな」  大澄はようやく自分を顧みることが出来たのか、少し冷静さを取り戻した瞳で烈己を見た。 「ううんっ怖くなんかないよっ、俺大澄さんのこと大好きだもん。今のはちょっと苦しかっただけ……、あっ! 大澄さんの痛いの俺が治すっ」 「──へ?」  大澄は頭の上にハテナマークを浮かべて首を傾げた。  何かを閃いたらしい烈己は、猫のように四つん這いで大澄の元へやって来て、その両膝へ手を置くと、躊躇なく大澄の雄を口へ咥えた。  大澄は首を傾げたまま、人間として限界まで口を全開にし、烈己の耳では認識できないような超高音を発した。 「〜〜〜〜〜れっれっれっれおちゃんっ?!」 「ん……んぅ、やっぱ、全部はひゃ()いんない……」  眉を顰めた烈己が、咥える向きや舐める方向を真剣に試行錯誤している姿とともに、目の前で小さな尻が蠱惑的に揺れ動いては大澄を悩殺する。 「んんぅ…………大澄さん、まだ痛い……?」  膝上からこちらを上目遣いで見上げてくる烈己の姿へまともに返す言葉など、最早大澄には見つからなかった。  大澄は無言のまま再び烈己を押し倒し、両膝を開かせると、飢餓状態の肉食獣のように烈己を貪りはじめた。 「大澄さっ……? やっ……俺そこ痛くない……っ、んっ……やぁ、あっ」  少し舐めるだけで烈己の秘部はあっという間に蜜を垂らし、かつて感じたことのないような強く甘い香りが、大澄の脳味噌を簡単に狂わせた。  すぐに柔らかくなった場所へ指を這わすと、烈己は腰をガクガクと揺らした。 「ああっ……やっ……、あ、だめだめ……っ」 「本当にだめ……?」  烈己の内太腿へ頬を擦り寄せ、大澄が下から意地悪い瞳で尋ねる。ペロリと腿の内側を舐められピンク色の肌が勝手に震えた。 「…………だめ、じゃなぃ……ケド……」 「──ケド?」 「さっき舐めたの……、挿れないの……?」  烈己は強い羞恥心とは裏腹に、ヒートでうまく操ることができない自分自身に戸惑いながらも、抑えきれない情欲を口にせずにはいられなかった。  こちらを見つめる大澄の瞳が怪しく光るのを、烈己は見逃さなかった。思わず背筋がゾクリと粟立つ。  それは決して恐怖などではなくて、言葉がなくとも大澄が自分を本気で欲しているのを感じる瞬間だった。 ──運命の(アルファ)。  俺は、この人の番になるんだ。  熱を孕んだ欲望が、烈己の体を割って奥へと入り込む。理性を失くすギリギリのところで、愛しい人の体を傷付けまいと堪えながらゆっくり進むのが、烈己にはなんだかじれったかった。  烈己の無意識が大澄の雄をうっかり強く締め付けてしまい、大澄からはおかしな声が漏れた。 「烈己ちゃん……」大澄が恨めしそうな瞳でなにかを訴えている。 「ごめんなさい……だって、奥のとこ早く突いて欲しくって……」  叱られた子供みたいに拗ねながら、烈己はとんでもない言葉を口にする。 「も〜っ、ソレ反則っ。言ってるそばからぎゅうぎゅうしないのっ、大澄さん暴走しちゃうでしょ」 「俺はもうしてるっ、大澄さんも早くして?」 「あなた自分の言葉に責任持ちなさいね? 大澄さんもう知らないんだからね」  すべてを諦めた男が閉じかけた瞳で烈己を見るが、当の本人は知ったことかと大澄の肌へと頬を擦り寄せ、法悦の笑みを浮かべている。  大澄が烈己の頬へ唇を寄せると、烈己の方から向きを変えてパクリと大澄の唇を捕まえた。  驚いて目を丸くした大澄の顔を、いたずらな笑顔で烈己が盗み見する。 「本当に知らないから」 「うん、いいよ。大好き大澄さん」 「も〜っ! なんなのっ可愛いなぁ! 俺も大好きです!」  二十五年間の人生で、こんなにも自分が愚かで、どうしようもない馬鹿だと自負したことがかつてあっただろうかと大澄は自問自答する。  最早知性を持った人間からは程遠く、直情径行なる動物(ケダモノ)だ。  死にもの狂いで誰かを求めるとき、人は己の不格好さなど気にはしていられない。  はたから見ればひどく間抜けでカッコ悪く、目も当てられないほど無様な姿をしていても、これ以上に己の覚悟を讃えられた過去はほかにない──。 「大好き大澄さん……」  愛しい人が腕の中で譫言のように何度も愛をささやく。その唇からは考えるより先にあふれた想いがこぼれ落ちてゆく。  繋がった場所から相手の熱が伝わって、より深い場所でさらに交わる。どちらがどちらの肉体なのかわからないくらい、互いの体に酔いしれて気がふれてゆく。  大澄にとって、叫びに近い烈己の泣き声すら媚薬入りの美酒のように濃厚で美味く、刺激的だ。    伸ばしてくる指をすべて絡めとって深く口付ければ、叫びはやがて湿った吐息へと怪しく色を変える。  汗が伝う薄紅色をしたうなじがやけに目について、大澄の乾いた喉が吸血鬼かのようにその味を知りたがった。 「アアッ!」    繋がった場所の、一番奥深いところまで貫いた大澄の雄をよりいっそう烈己は強く締め付けた。  こんな場所まで他人が入れるものなのかと慄く反面、自分の意志とは別の何かがそれを離すまいとしがみつく。  獣のように乱暴で、淫らな自分なんて知られたくないのに、Ωの本性が羞恥心も理性もあっさり食い殺す。  それどころかもっと奥まで来て欲しくて、それをもっと味わいたくて、誘うようにどこまでも自身を開いてみせる。   「やっ……ダメっ、壊れちゃう……っ、あっ……っ、アア──ッ!」  何度も何度も奥を貫かれ、怖いくらいに膨れ上がった大澄の欲望が中を激しく掻き混ぜる。自分の中の一番気持ちの良い場所にずっと大澄が触れていて、烈己は泣きじゃくりながら気が狂いそうになっていた。 「大澄さっ…………っ、おおすみさん……っ」  怖くて手を伸ばすとすぐに強く握りしめてくれる。それだけで烈己は詰まっていた息が楽になって、自身を穿つ欲望とは裏腹の、やさしく甘い口付けの温度に酔いしれた。    涙でうまく見えない世界の中ででも、変わらぬやさしい笑みをした大澄を感じてとれた。  奥にある熱がより一層強くなるのを感じたと同時に、首筋に火傷を負ったような強い痛みが走った。  驚いて強く瞼を瞑ったが、痛みは一瞬にしてなくなり、代わりにそこから熱が広がってゆく。  なぜか首筋伝いに、相手の心臓の音も大きく響いてくる。  とても不思議な感覚に、烈己は全身が宙に浮くような錯覚に陥った。浮いた体はゆっくり大澄の中へと沈んでゆき、強く抱き止められた腕の中へどんどん溶けていって、まるで自分の体が相手の中へあるような、どこからが自分の体なのか烈己にはもう区別すらつかなかった。 「愛してる烈己…………」  その声は鼓膜へ染みわたり、魔法にかけられみたいに烈己の体はやさしい眠りへと(いざな)われる。  温かな腕の中でゆっくりと息をつくと肌伝いに彼の心臓の音を感じた。    そこはまるでふたり以外何も存在しない、とてもしずかで穏やかなる場所にいるようだった──。  烈己は大澄の背中へと手を回し、やすらぎの世界ですべてを解放するように意識を手放した──。  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ──烈己。  それは幼くて可愛くて、どうしようもない愛しい生きもの。  自分の世界でいつも降り注いでいる雨の中、それは一粒だけ混じった雹のように、痛みを伴い頭の上へと突如落ちて来た。  腹が立って地面へ落ちたそれを拾い上げると、その正体は決して攻撃的で冷たい雹などではなかった。   ──それは、虹色をしたちいさな飴玉だった──。  口に入れるまでどんな味なのかはわからない。甘くてとろけるのか、酸っぱくて刺激的なのか、見た目に惑わされて簡単に味わおうなどと思ってはいけない。  それこそ、自分の命を脅かす猛毒なのかもしれない。  手のひらにそれを乗せたままマジマジと見つめ、思考を張り巡らせていると、突然横から現れた指に攫われた。  奪った犯人の顔を見やると、よく知った顔がそこにはあった。 「花月(かづき)……」 「相変わらず慎重だな。いや、そういうの臆病って言うんだっけ?」  花月は自身の顔の横でわざと飴玉を左右に揺らした。 「返せよ」 「珍しい。お前が何かに執着するなんて。そういうの馬鹿にするタイプだったろ?」 「──違う……、馬鹿になんかしてない。俺はただ……」大澄は思わず視線を下げた。 「失くすのが怖かったんだろ? お前をそうさせたのは俺のせいだよな」 「花月、それは……」 「ごめんな、天地。ずっとお前を苦しめて、愛してる人が目の前にいるのに、お前から奪って、お前をなによりも苦しめた」 「違う、花月」 「違わない。でも、もう大丈夫──。俺はもう泣いたりしてないから、もう心配するな」  そう言って微笑んだ花月のそばには、いつの間にか見知らぬ男の子が立っていた。  その子はかなり幼く、一人で立つにはまだまだ頼りなげな体をしていた。小さな手で隣に立つ花月のズボンをぎゅっと握りしめ、その顔だけを見つめている。  その大きく強い瞳は目の前の花月と生き写しだった。 「天地。俺はずっとお前の幸せを願ってる。ずっと俺が、ここから見守ってるから」  その言葉でようやく大澄はその子と目が合った。その子は微笑むわけでもなく、隣に立つ花月とよく似た大澄の顔を不思議そうな瞳で見つめるだけだった。 「そうか……お前はもう一人じゃないんだな……」  その子へ向けた大澄の瞳からは自然と笑みが浮かんだ。 「そうだよ。それにね、ずっと俺は一人じゃなかったよ。お前やあの人、たくさんの愛しい人たちがいつだってそばにいた。愚か者の俺はそれに目を向けることを長い間忘れてしまっていたんだ」  花月はよく似た弟の頬へと手を寄せ、優しく指でそっと撫でた。 「ありがとう、天地。今までずっとありがとう。挫けずにちゃんと生きててくれてありがとう」 「──花月……」 「これは返す。お前の大切なものだ」  そういって虹色の飴玉は再び大澄の手のひらへと返された。 「綺麗だな。が大切に育てたんだから当然か」 「…………そうだな」  大澄の口元がふわりと緩んだ。 「うんと大切にしてあげて。俺が奪ったあの子の幸せの分まで、何倍も何倍もお前が幸せにしてあげて欲しい」 「俺なりに頑張るよ」 「うん、任せた」  花月は笑って大澄の鼻をつまむと、隣に立つ子の手を取り大澄へとゆっくり背を向けた。 「花月。……また会いに来てくれるか?」 「──気が向いたらな」  花月は振り返ることなく手を軽く振って、これが最後になるであろう弟との別れを終わらせた。 ──大澄の上へ降り続いていた雨はいつの間にか止んでいた。  もうすぐ黒く厚い雲を割って鮮烈な太陽が姿を現し、大きく綺麗な虹が空へと掛かるだろう。  なぜだか大澄には不思議とその景色が見えていたのだ──。  ぺちりと何かに頬を殴られて、大澄は目を瞬かせた。  カーテンの間から差し込む太陽の光に目が驚いて、大澄はさっきまで見ていた世界が夢だったのを理解する。  未だぼやけた視界に見慣れない天井があって、そこが烈己の部屋だと気付くのに少々のタイムラグが生じた。  自分を目覚めさせた手癖の悪い指がすぐそばにあって、大澄はそれをそっと握りしめ、顔から退ける。  腕の中で規則正しい寝息とともに、烈己が深い眠りについている。  その穏やかな寝顔に不釣り合いな首元の朱い痕たちに、大澄は思わず眉を寄せた。  その中で一際強い朱色の噛み跡を見つけ、性懲りも無く再び唇を這わせる。 「ん…………」  くすぐったかったのか、烈己がピクリと身じろいだ。敏感な肌に思わず性癖を刺激され、大澄は再び舌を這わせた。 「ん……、痛ぃ………。〜〜いやっ!」  掴んであった手が逃げ出して、再び大澄の顔を押さえつけるようにして重く降ってきた。 「んぐっ!」  思いの外強かったそれに大澄からは潰れたような声が漏れ、烈己は驚いて目を開けた。 「ふえっ? えっ、ああっ! 大澄さんっ、ごめんなさいっ!」  痛みに鼻を抑えた大澄が、責めるに責められない烈己の顔をジトリと見つめている。 「大澄さん? 大丈夫? ごめんねっ」 「…………大丈夫。烈己こそ、体大丈夫?」  寝癖がぴょんと跳ねた烈己がなんだか新鮮で、可愛くて、大澄の視線はその跳ねた後ろ毛へとうっかり流れる。 「体? …………あ、えっと? あっ! あああっ!!」 「ええっ なにっ、どうしたの?!」 「あっ、あっ、あっ、か、か、噛まれた……」  烈己は痛みの残る首筋に触れたまま、ただ呆然としていた。 「はい。えっ? ──ああっ! ごめん! 許可を得ていませんでした!」  呑気にお花畑を漂っていた大澄は一気に顔を青くした。 「えっ、あ、ううん……いいの、俺、大澄さんの番になりたかったから……。ただ、その、一生に一回のことなのに俺……あんまり覚えてなくて…………」 「なんだ〜」と、安堵の言葉が口をついて出そうになるのを大澄は直前でどうにか飲み込んだ。  勝手に噛んだことで強い叱責を受けるのかと怯えていた大澄の妙な緊張が思わず緩んで、うっかり口から漏らすところだった。 「じゃあ、もう一回噛んであげようか?」 「やだよ! 単に痛いだけじゃんっ」 「──そういうとこは冷静なんだね」  小さな頭をそっと撫でると、烈己はいつもの穏やかな笑顔をすぐに取り戻した。 「改めてまして。これからもよろしくね、烈己」 「こちらこそ。よろしくお願いします」  昨夜のことが嘘みたいに、可憐なキスが返事と一緒に頬を掠めた。  うっかりときめいてしまう自分に、お姫様は一体どっちだったっけなと、大澄は肩をすくめた。 ──ああ、幸福だ。  ここが自分にとっての安息の場所。  筆を折ってもなんとか生きていられたのは、ここへ行き着くためだった。 「…………烈己」 「なあに……?」 「呼んだだけ」 「なにそれ」  桜色の頰をした烈己がくすくすと小さく笑う。 「大澄さん」 「なあに」 「愛してる」 「──ありがとう」  大澄の瞳からは、長く降り続けた雨の忘れものみたいな一粒の涙がしずかにこぼれ落ちた──。

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