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achever
烈己は母親の墓石へ線香をたむけ、ゆっくり目を瞑ると静かに合掌した。先に目を開いた烈己は、同じ仕草で隣に佇む夫をしずかに見守る。
「じゃあね、お母さん。また来るからね」
立ち上がった烈己が伸ばした手より先に、夫が手桶を持ち上げ、伸ばした手はそのまま彼の手へと繋がれた。
普段なら平気なお寺にある下り階段も、烈己はゆっくり慎重に足を進める。
足元が見えないというのは不自由極まりない上、こんなにも恐ろしい。
慎重な歩みをする体を夫がしっかりと支えてやる。
以前は背の高いクロスオーバーSUVに乗っていた夫は、烈己と未来のために低床のミニバンへあっさり乗り換えた。
自分が好きだと思う車に乗って欲しいという烈己の言葉に、今の自分が一番好きだと思うのがこれだと彼は迷いなく答えた。
彼の隣に座りたい反面、広々とした後部座席で寛ぐのを夫に勧められると、結局毎回甘えてだらりと広いシートへ溶けていってしまう。
「今日はちょっと暑かったね、早く帰ろうか」
ルームミラー越しに夫が後部座席の烈己を見た。
「えー、やだ。言ってたカフェに行く」
「行くの? バテてない? 大丈夫?」
「大丈夫、あそこのフルーツパフェ食べたら元気になるから」
「どこの小さい子なの、あなたは」
呆れながらも夫はカフェに向かうべく、帰路とは逆へウインカーを出した。
烈己は少しだけ窓を開けて、髪を風にすかした。
朝少しだけ降った雨に濡れた土の香りがうっすらと鼻腔を抜けていく。憂鬱な梅雨はもうすぐ明けるだろう。
「あっ、天地さん見てっ、虹!」
烈己の抜けるように明るい声が車内で響く。
「ほんとだー、久しぶりに見た」
大きく窓を開いてはしゃぐ烈己を、夫は遠足に来た子供を叱る教員のようにたしなめる。
「もうすぐお母さんになるのに、そんなんじゃすぐ子供とどっか走って行っちゃいそうでお父さんは不安だよ」
「小さいの二人も抱えて走るなんて無理!」
「いや、そこは"そんなことするわけないだろ!" が模範解答ね」
「あれ? おかしいな」
真剣に首を傾げた烈己に夫は突然吹き出した。
「な、なにっ?」
「いや、あはははっ! ふふっ、腹がっ……! もうホント、烈己は出会った時から変わんないな、ふふっ」
「変わんないことないからね! 俺21歳になったんだよ! 苗字だって変わったし、背も伸びた!」
「背? ぷっ、ふふふっ」
「もうっ、そんな笑わないでよ! 天地さんの意地悪! 明日からお弁当作ってやんない!」
「えー、やだあっ、烈己ちゃん作ってよー!」
「自分で作れば? 天地さんのが料理うまいんだし!」
「違うの、烈己ちゃんだから良いのぉ!」
「知らない知らないっ」
ほっぺを膨らました烈己が再び窓の外へ視線をやると、一つだと思っていた虹の外側にはうっすらと、もう一つ虹が掛かってるのが見えた。
「天地さん……虹、二つ」
「え……?」
ポツリと烈己がつぶやいた言葉をかろうじて拾った夫は、ミラー越しに映る烈己の視線を追った。
そこには大きな虹を後ろから包むようにして、もう一つの虹が広がっていた。
────まるで……
「……花月さんと天地さんみたい」
「えっ?」
赤信号で停止した車内で、夫は目を大きくして烈己を振り返った。
「なんか、そう思ったの。なんでかな?」
烈己は自分でも不思議だったらしく、首を傾げながら夫を眺めた。さっきまでなにに怒っていたのかも、すでに忘れた様子だ。
「んっ」と烈己がビクリと体を揺らし、小さく唸った。
「また蹴られたの?」
夫の視線は自然と烈己の大きなお腹へと下がる。
「うん、この子たち俺たちが喧嘩するとすぐ暴れるから。うるせぇ! ってなってる、多分」
小さな体に不釣り合いな大きなお腹を烈己はやさしく、ゆっくり撫でた。一人でも大変だというのに、烈己の体には二人分の命が宿っていた。
「ごめんなさい。怒んないでね」と夫は優しく二人へ話しかける。
「ねぇ、先に俺に謝って!」
「はいっ、ごめんなさい!」
再び烈己が火を吹く前にどうか早くと、夫は祈りながら安全運転でカフェへと急いだ。
心地よい風に、いつしか烈己は夢の世界へと落ちていた。
見たこともない景色の中に烈己は立っていた──。
そこには絵本に出てくるような大きな西洋の城が建っており、城を囲う高い門や柄には中に入るなと言わんばかりに、恐ろしいほどの荊たちで一面覆われていた。
手を触れようものならその鋭い棘で怪我を負いかねない。烈己は怖くなって思わず後ずさる。
すぐ背中に温もりを感じて振り返ると、愛しい夫が自分を守るようにして立っていた。
彼は穏やかに微笑んだまま烈己を見つめ、一言も発するとことなく突然その手を荊へと伸ばした。
「ダメッ!」
慌ててその腕を止めたが、彼の長い腕はすでに荊へと触れていて、烈己はその手を急いで荊から取り上げた。
怪我を負ったであろう手のひらを開いて覗くが、そこには棘はおろか、傷一つ付いていなかった。
「怪我は? 痛くない? 大丈夫??」
烈己は青い顔をしながら必死に夫の身を案じた。
「大丈夫──見て、烈己」
背を向けていた城へ再び視線を戻すと、そこにはさっきまであったはずの物々しい荊がすべて消えていた。
「え……? なんで……」
城本来の色もわからないほどに覆い尽くされた深緑色の闇がそこからはすっかり消えていて、代わりに新緑色の中で美しいピンク色の薔薇たちが踊るようにして乱れ咲いていた。
「──行こう」
「えっ?」
夫に手を取られ、烈己は驚きながらも開く門の中へと足を進めた。
「ねぇ、この向こうは怖くない?」
「さあ、どうかな?」
「怖いのは嫌」
「でも、立ち止まるなんて君にはできない。君はいつだってどんな困難からも逃げ出さない。常に戦うことを選ぶ。ずっとそうやって生きてきた」
「それは…………」
「それに、今は俺もいる。君の心強い宝物たちも、ね」
夫の視線の先は、間もなくこの世界に生まれ出そうしている命たちへと向けられていた。
「天地さん、俺……本当は自信ない。こんな俺に親なんて本当に務まるのかな?」
烈己は突然襲ってくる不安に足がすくんだ。
「みんなきっと、はじめは自信なんてないよ。それに誰かが言ってた。親はなるもんじゃくて子にしてもらうもんだって」
「どこ情報?」
「んー? どこだったったけ?」
気の抜けた声で夫は首をかしげた。
「も〜」
「俺だっておんなじ。親一年生。一緒に新人同士頑張ろうよ。きっと二人いれはどんな呪いも苦しみも追い払えるから」
「──それ、前にも……」
「ん? なあに?」
「ううん、なんでもない。……そうだね、一緒に100年幸せに生きよう!」
「100年っ? ええっ、そう〜、それは壮大だ〜」
「孫の結婚式を二人で見るの! 絶対!」
烈己は満面の笑みで夫の手を強く握り直し、思い切り高く振り上げた。
「痛ァッ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
「──ん?」
伸ばした握り拳の先に何かがめり込んだ。
正しくは夫の頬へ握り拳がめり込んでいた。
あまりの痛みに声すら出せずに夫は車のシートへ沈んで行った。
「やだっ! ごめんなさいっ、大丈夫っ?! 救急車呼ぶっ?!」
「……それ、は救命士さん……が、パニックなりそうだから……やめておく、よ……」
「死んじゃやだ! 天地さんっ!」
「烈己ちゃん、落ち着いて……周りの人がびっくりしてる」
「えっ?」
本気で泣きそうになっている烈己がふと車外を見ると、カフェで食事を終えた人たちが数名遠巻きにではあるが、不安そうにこちらを覗き込んでいた。
「あれ……ここ、どこ?」
「どこって、フルーツパフェ食べるんでしょお〜??」
夫はどうにか体を起こした。
「あっ、そっち! そっちの方か!」
「んん? どっち??」
「夢の中でも俺天地さんと話してたから、ごちゃ混ぜになってた。ごめんねっ」
「ほぉ……夢の中まで俺といたいんだね、烈己は」
夫は赤くなった頬をさすりながらも不敵な笑みを浮かべた。
「違うよ、天地さんが夢の中まで着いてくるんだよ」
「おや? ストーカーです? 俺、烈己のこと好き過ぎだな」
「ふふ、否定しないの?」
「しないよ、今度家のトイレの中まで着いていくから」
「やだ! 絶対やめて!!」
烈己の本気の拒絶に大爆笑してから夫は先に車外に出た。
「ホラ行くよ。フルーツパフェ食べてうんと元気になってもらわないと」
夫が外から手を伸ばす。
まるで夢の中の夫が現実世界に飛び出してきたようだ。
「うん!」
烈己は夫の手を取り、今、外の世界へと一歩踏み出した。
•*¨*•.¸¸☆*・゚fin
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