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ひらいて、むすんで。 -sideF- 01
三月の終わり。
いつものシティーホテルの程近く、普段は前を素通りするばかりで入ったこともないおしゃれカフェのテーブル席。
ただでさえ慣れない場所で、混乱のあまりに貧血を起こしそうになりながらも、糸井は姿勢を正して一人掛けのソファに座っていた。
丸テーブルを四方から囲む配置になっている席で、糸井の右隣には大学時代からつき合いのある三島 が、向かいには今日初めて顔を合わせる黒縁メガネの無愛想な男が座っている。
三島はその男の方を向き、糸井をてのひらで指し示した。
「こちらが俺の大学の後輩で、ずっとセフレやってる糸井 文明 、俺の一個下で二十八歳。で、こちらが俺の会社の同僚で、俺と同い年の糸川 宗吾 」
あっけらかんと、それぞれを向きながら三島は二人を紹介する。同性の糸井を『セフレ』と紹介されたにも拘わらず動揺するそぶりもない糸川は、眉ひとつ動かさない冷静さで糸井へ目礼した。
「てことで糸井、俺は来月から香港だから、すべては糸川に引き継ぎます。まあ名前も似た者同士、仲良くやれや!」
からっとした、何も悪びれない、糸井の大好きだった笑顔で三島は笑う。
血の気の引いた頭では何も考えられず、ただ三島につられて、糸井はぎこちない愛想笑いを浮かべた。
(引き継ぎ……引き継ぎ? そんなもんあるの? セフレに?)
そんな話は聞いたこともないし、常識的に言ってあり得ないと思う。
けれど何やら聞こえのいいことを言いながら、要するに三島は自分との関係を切るつもりなのだと理解して、糸井の目の前は真っ暗になった。
糸井と三島のセフレ関係は、糸井が大学三年、三島が大学四年の終わりからで、もう丸七年になる。
同じ写真サークルに所属していて、三島が卒業する直前の追い出しコンパで、酔った勢いで関係を持ったのが発端だった。
糸井はそれ以前から三島に片想いをしていて、その日はもう三島に会えなくなると思うと寂しくてつらくて、飲めもしない酒をいくらか飲んだ。人から見れば大した酒量ではなかっただろうが、体質的に本当に弱くて普段は一滴も口にしない糸井にとっては、記憶をなくすのに十分な量だった。
翌朝、見覚えのないラブホの一室で目を覚ました糸井は、隣で自分と同様に全裸で寝ていた三島から、こう問われる。
「俺、誰ともつき合ったりとかする気ないんだけど、セフレとしてならこれからも会うよ。どうする?」
長く片想いしていた相手と、どうやら初めてのセックスをして、この機を逃せば二度と会うこともないかもしれないその想い人が、今後も会ってもいいと言う。
糸井には、セフレという決して本意ではない立場を受け入れる以外の選択肢がなかった。
誰ともつき合う気がないと言った三島は、言葉通り恋人はいないようだったが、糸井の他に既にセフレが二人いた。
七年の間に面子の入れ替わりは何度もあったらしいが、糸井の序列は常に三番手。他の二人ともの都合がつかないときの穴埋め要員的なポジションだった。
傍にいて身を捧げ尽くせば、いつか序列が上がって、恋人に昇格できる日が来るのではないかと夢想したこともある。けれどそんな甘い期待は、叶う気配すらなかった。
声がかかるのは月に一度か二度。数ヶ月何の音沙汰もない時期もあったし、呼ばれても三島の好奇心の捌け口のような扱いを受けることも多かった。二人の間に甘い雰囲気など微塵も存在しない。
それでも七年にも亘って不毛な関係が続いたのは、ひとえに糸井が三島を好きだったからだ。
糸井は三島が初めての相手だった。貞操を守るというのでもないけれど、自分にとっての特定の相手が自分を抱いてくれるのに、余所見をするような倫理観も持ち合わせていなかった。
そして、恋心を伴って何をしても離れない糸井は、三島にとってこの上なく都合が良かった。
二人の七年間は、ある意味二人の利害一致の賜物だったのだ。
けれど今、その年月が何の愛着も生まずにあっさりと切り捨てられようとしている現実に、糸井は打ちのめされていた。
土曜の昼過ぎに一ヶ月ぶりに呼び出しが来て、夕方にいつものホテルの最寄り駅に集合と言われ、いそいそと準備をして向かってみれば。
改札近くにいた三島の隣には知らない男が立っていて、二人は親しげに会話していた。たまたま知り合いと出くわしただけかと思っていたら、三島はその男と糸井を連れだって、カフェへ移動を開始した。
「四月から海外赴任が決まったんだ」
栄転なのだというその赴任を、上昇志向の強い三島は喜んでいて、糸井は戸惑いながらおめでとうと祝福した。
おめでたい話だけど……え、何年? いつ帰ってくるの? いつまで会えないの?
訊きたいことはいくつもあったけれど、知らない男の前でそんな話題を出すことは憚られて、糸井は言葉を飲み込んだ。その態度を物分かりの良さと受け取ったのか、三島はにっこりと糸井に笑いかける。
「まあ、なんだかんだおまえとは長かったけどな。ちょうどいい機会だし、セフレももう、ここらで終わりだろ」
「え」
短く発して、糸井は頭が真っ白になって動きを止めた。
二人の関係を、この人に話して大丈夫だったの? ていうか……ちょうどいいって。もう終わりって。終わり、って――
動揺して目ばかりを泳がせている糸井の前で、ただただ明るく三島は笑む。
「それでもいきなり一人じゃ寂しいだろうし、こいつがセフレ引き継いでやってもいいって言うから。じゃあ改めて紹介するな!」
そして無邪気に糸井にとどめを刺して、冒頭の他者紹介を行ったのだった。
「……糸井くん、大丈夫?」
案じるような声に、奈落の底にいた糸井ははっと我に返って顔を上げた。
テーブル席には向かい合った糸井と糸川しかいない。三島はさっき、「あとは二人でごゆっくり!」と爽やかに退店していった。
何も惜しんでくれなかった。七年の関係の終焉が、そんな清々とした一言なんて。
じわ、と視界が滲んだ。まずい、と慌てたときにはもう膝上で握りしめていた拳に涙が落ちていた。
「……っ」
奥歯を噛み締めて堪えようとするけれど、そうすればするほど却って涙は止めどなく溢れ出し、糸井の蒼白した頬を濡らす。
こんな悲しい、惨めなことがあるだろうか。
こんな仕打ちを受けてなお、三島が恋しくてならないなんて。
俯いて声もなく泣いている糸井の前で、糸川はしばらく黙ったまま泣き止むのを待っていた。しかしなかなか埒が明かないと察したのか、不意に自分のジャケットのポケットを探り、折り畳まれた小振りのハンドタオルを差し出してくる。
「……どうぞ」
声をかけられて顔を上げて、糸井は糸川の表情を窺った。しかし黒縁メガネの奥の目は据わっていて、表情筋は働いている様子もなく、糸川が何を思うのかはまったく読み取れない。
「すみません……」
ハンドタオルを受け取り、目元に押し当てる。吸水性の良いそれは、糸井の涙を吸い取って、柔軟剤の優しい香りをほんのりと漂わせた。
その香りに毛羽立った心が宥められて、深く息をつくと、ようやく糸井の涙は止まる。と同時に頭が冷えた。
「すみません、これ洗って返します」
糸井が恥じ入って頭を下げながら額の前にかざしたハンドタオルを、糸川はひょいと取り上げてしまう。
「いいよそんなの。洗濯機でいっしょくたに回すだけなんだから」
無愛想というか、無感情というか、ハンドタオルを差し出す気遣いを見せた人とは思えないような冷たい声で言って、糸川はソファから立ち上がった。
「行こうか」
行くってどこに。何しに。
戸惑って立ち上がるのが遅れた糸井を振り返ることもしないで、糸川は店の出口へ歩いていく。糸井は慌ててそのあとを追いかけた。
「あの、お会計は」
「さっき三島が伝票持ってった」
「あぁ……そうですか」
「今日このあとは空いてるんだよね?」
店の外に出たところで、糸川が振り返ってやにわに訊いた。
「三島に呼び出されて来たくらいだから」
値踏みするような視線に、じわ、と羞恥が湧く。
セックスするつもりで来たんだよね、と言外に言われたような気がした。
図星すぎて、否定できない。
「……はい」
俯いて頷いた糸井を、糸川は無表情に見つめる。
「じゃあ、今日の今日で悪いけど。僕んちでいい? 路線違いだけど、ここからわりと近いんだ」
「えっ?」
歩道から乗り出してタクシーを探す糸川に、驚いて糸井は声を上げた。
「何か都合悪い?」
平然と、糸川は糸井を振り返る。
このあとの予定を聞かれたときから、そういう誘いであることは理解していた。けれど初対面で、いきなりお宅訪問するとは夢にも思っていなかった。
三島は一度も糸井を自宅に招いたことはないし、場所はいつもホテルで、宿泊することもほとんどない。
「あの……素性も知れない人間を家に上げていいんですか。ホテルとかじゃなくて……」
警戒心が薄すぎるのではないかと心配になっての忠告だったが、糸川は関心もなさそうに小さく首を傾げる。
「ホテルって嫌いなんだよね。それに大丈夫だよ、きみが不審な行動に出たら三島に通報するから」
さらりと釘を刺されて、糸井はうっと詰まった。
わずかな時間で糸川は糸井の一番痛いところをよく見抜いている。今の糸井には、警察に突き出されるより三島に言いつけられる方がきついかもしれない。
糸川は止まったタクシーがドアを開くと先に糸井へ乗るよう促し、無言の二人を乗せたタクシーは薄暮の街を走り出した。
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