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人見知り猫との恋 02

 翌朝、糸川が目を覚ますと、隣でヘッドボードに凭れて座っていた糸井がにっこりと覗き込んできた。 「おはようございます」  寝起きに天使を見た糸川は、ぼんやりといい気分でまばたきをした。 「おはよう……今何時?」 「もうすぐ九時半です」 「もうちょっと寝たかった……」  糸川の中で、日曜の朝は十時半まではなんとなく寝ていてもいい時間という線引きがされている。十一時になると勿体ない感が強くなり、正午を越えるとやらかした感になる。  ただしこれはあくまで糸川の感覚で、糸井はいつももう少し早く目覚めて、携帯で何かしたり、糸川と一緒に二度寝したりしているらしい。  今日も先に起きて、携帯でネットニュースを見ていたようだ。 「今日は曇りで、多少涼しいみたいですよ」 「んー? そう……」  甘えるように糸井の腰に抱きついた糸川の髪を、笑いながら糸井が撫でる。 「まだ寝ます?」  思いがけずその手が心地よくて、糸川はふふっと笑みをこぼした。 「寝ない。こうしとく」  ぐりぐりと額を腹に押し付けてくる糸川に、糸井は目を細める。そうしてぽつりと呟いた。 「……幸せすぎるな」  糸井がそんなふうにひとりごちるのが意外で、何の気なしに糸川は見上げる。すると目が合った糸井が、動揺したように「あ」と声を上げた。 「すみません」 「? 何が?」 「いえ、俺ばっかりなんか勝手に、浸っちゃったりして」 「なんで? 糸井くんだけなわけないじゃん。僕もすごい幸せだよ」  当然のこととして伝えると、糸井は驚いたように目を瞠った。その真ん中で、黒目が揺れる。 「……俺、需要ありますか」  探るような自信のない声は、糸川の耳に、価値があるのかを確認するように聞こえた。  ないわけがないのに、糸井自身がそれを認めていないのだ。 「むしろ需要しかないよね」  だから糸川は声を張った。 「糸井くんなんかさ、存在してくれてるだけで僕は幸せになるからね。その上僕を好きって言ってくれて、つき合ってくれてるわけじゃない。前世の僕、どんだけ徳積んだんだって思うよね」  普段から思っているところを素直に伝えてみるが、糸井は顔を赤くして困ったように眉を下げる。 「……それはおだてすぎです」 (あ、ほらまた)  謙虚さで躱されてしまって、糸川はまた内心で肩を落とした。  これだけの口説き文句を並べたのだから、少しくらいまともに受け取って、甘い空気を醸してくれてもいいんじゃないだろうか。  何か、突破口はないものか。  うーん、と考えて、糸川はこの糸井との距離感の出所に思い当たる。 「そうだ糸井くん。敬語をやめてみよう」 「はい?」 「敬語がなくなればもっと打ち解けられそうな気がするんだよ。なんかさ、まだ他人行儀感が強いんだよね糸井くん。三島とだってもう少し砕けて接してたでしょ?」 「いや、三島さんとも七年がかりであの程度で……社会人になって、年上の人とタメ口きくことってまずないですし。……あ、でも」  糸川の提案に難色を示した糸井だったが、ふと思い立ったように眉を上げた。 「もしかして今は同い年かもしれませんね」 「え?」 「この間、俺も二十九になったので」 「えぇ!?」  糸川は愕然として糸井の腹から顔を上げた。恋人が知らない間に年を重ねていた、その事実は途轍もない衝撃だった。 「い、糸井くん誕生日いつ?」 「七月四日でした」 「……三週間、前……」  それはちょうど、糸井が糸川から離れていた時期のこと。  糸井が、糸川は同情で自分と一緒にいるのだと思い込んで、失意の中で糸川の手を離そうとしたあの期間に、彼はその特別な日を過ごした。 「……ねえ、誰かに祝ってもらったりした?」  独りで過ごしたのではなければいいと、願う糸川の気持ちは届かず、糸井は苦笑する。 「平日でしたしね、普段と変わらずです。母と弟からおめでとうメールは来ましたよ」  寂しくなかったのかと、問えばきっと糸井は笑い飛ばすのだろう。いい歳こいて、とか言って。寂しかったに違いないのに、糸井はそうとは口にしない。  糸井は糸川に甘えない。内側を見せない。そうあることを己に課しているかのように、頑なに。  そのことが、糸川は寂しかった。 「何か欲しいものはないの」  糸川は糸井の腕を掴んだ。 「誕生日プレゼントを贈りたいよ。何かない?」  掴まれた糸井は、困惑して笑う。 「そんな……つき合い始める前に済んだことですし。申し訳ないです」  どうせ遠慮するだろうことは想定していた。この遠慮を糸川は崩したいのだ。 「違うよ糸井くん、申し訳ないとかじゃないんだよ。プレゼントなんて贈る側が満足するためのものなんだから。僕に恋人らしいことをさせてほしいって頼んでるの」  きみのため、と言えば必ず固辞するのだから、ならば僕のためと言えば聞き入れてくれるだろうか。きみは僕の願いを叶えてくれるだろうか。  きっときみは、僕の意に逆らわない。 (――あれ?)  けれどそんなふうにきみが、結局自分のことではなく僕のことを優先してしまうことを、僕は望んではいないんだ。 「……糸川さんが、そう言ってくれるなら、じゃあ」  困り顔のまま、糸井はためらいがちに頷く。 (あ、……失敗したかも)  その糸井の表情に失策を悟り、糸川は糸井の腕を放した。  要求を飲ませてしまっただけなことを自覚する。糸井との距離は変わらない。 「えっと……そしたら……」  糸井は困惑した様子で、脇に置いていた携帯を手に取った。  いそいそとネット検索を始めた糸井の表情が、少なくとも迷惑そうではないことに糸川はほっとする。重荷に感じさせたりしては本末転倒だ。 「いつでも構わないから、考えておいてくれたらいいよ」  急かすつもりはないことを伝えると、糸井はふふっと笑った。柔らかい、本心からの笑みに見えた。 「ありがとうございます。嬉しいです」  結局糸井との間から敬語は消える気配すらなく、糸川は縮まらない恋人との距離に焦れながら、今は、とその苦さを受け入れた。  焦らずともきっと、共にいるこれからの時間が溶かすものもあるだろうから。  糸井は後日、プレゼントのリクエストとして一枚の画像を送ってきた。  そこにはこんもりと丸いフォルムのサボテンが写っていて、『雪晃』という名前のそのサボテンがほしいと、糸井はメッセージを寄越した。 『鉢はもう増やさないつもりなんじゃなかったっけ?』  大量の植物で生活空間が圧迫されていた糸井の部屋を思い出してまぜっ返してやると、糸井からは『この間鉢三つ分寄せ植えにして一つになったから、鉢の数はマイナスなのでセーフです!』というどこか得意気な返信が来た。こういうところが本当にかわいい。  会社帰りに閉店間際のフラワーショップを覗くと、大小さまざまな大きさの雪晃が揃っていて、糸川は小振りの鉢を選んで購入した。それも、小さいところから育てたいのだという糸井のリクエストだ。  有料のラッピングを頼んでも、小さなサボテンは大した額にはならない。もしかして気を遣わせているのだろうか。高額な貴金属をねだられたいわけではないが、使うあてもない独身貴族なので、それなりに蓄えはある。 (いや……植物が好きなのは本当だろうけど。これは遠慮だよなぁ)  ふぅ、と糸川は小さくため息をついた。  きれいにラッピングされた鉢を入れてもらった紙袋を受け取る際、店員が育て方のコツを教えてくれる。  水をやり過ぎず、かといって切らしすぎず、日に当てながら暖かい室内で管理すれば、春にはオレンジ色の花をつけますよ、と。  きっと糸井はそのあたりはよくわかった上で上手に育てるだろう。春には一緒にその花を見たい。一緒に楽しみに待てるものができたことが嬉しい。  こんな気持ちを、どうにかうまく糸井に伝えられないだろうか。糸井がもて余すことのないよう、適正な愛し方ができないだろうか。  謙遜も遠慮もなしに、ただ受け取ってほしいだけなのだけれど。  週末に渡すときのリアクションを想像しながら自宅への帰り道を歩いていたら、会社の携帯が鳴った。メールではなく電話の着信音だったので慌てて取り出すが、ディスプレイに表示された相手の名前に辟易と目を据わらせる。 「お掛けになった電話番号はもう使われてないでーす」 『うっわ雑!』  電話の向こうで笑っているのは三島だ。 「何の用だ」 『もー、毎回態度酷すぎるー。糸井紹介してやった恩忘れてなーい?』 「それは感謝してる。お陰で今糸井くんとおつき合いしてる」 『え。……うっそ、もうつき合ってんの。まじか。超意外』  なぜか三島は妙に驚いている様子で、糸川はそのことが不思議だった。 「で、ほんとに何の用だよ? 国際電話で長話するな」 『あー、お盆に一時帰国するから飯でも食わないってお誘い。メールだと無視されそうだったから』 「却下ー」 『えー、でもつき合ってるって聞いたらよけい会いたくなった! 話聞かせろよー』 「おまえに話すことなんかないよ」 『えー! じゃあさじゃあさ、あの話はおまえ聞いた?』  興味津々の様子の三島が、これだけは、と意気込むように訊いてくる。 『糸井の、記憶喪失の話』 「――は?」  記憶喪失?  耳慣れない漢字四文字が脳内を占めて、糸川の足が止まった。プレゼントの入った紙袋を持つ手が動揺に震える。  どうやら自分は、まだまだ糸井のことを教えてもらえてはいないらしい。 <END>

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