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透明人間の独白 02

 一番古い記憶は、算数ノートの表紙。あまりきれいでない字で書かれた『糸井文明』という名前は、自分のものだと確信を持つにはぼんやりしすぎていたけれど、表紙いっぱいのラナンキュラスの鮮やかな色は強烈に印象に残った。  薄暗い夕刻の公園、その隅の茂みで、糸井は倒れていた。意識を失っている間に虫が刺し回ったのだろう、体の至るところが痒くてたまらなかった。汗でべたつく肌。蝉の鳴き声がわんわんと耳に響く。  すぐそばにランドセルが転がっていた。たぶん自分のもので、その中の算数ノートで自分の名前はわかったけれど、何をどうすればいいのか見当もつかない。  帰らなければ。  でもどこに?  ここがどこかも、自分の帰る場所もわからないのに。  十一歳になったばかりの少年を、途方もない不安が襲った。  ランドセルを背負い、とりあえず茂みから出て、公園の遊具の方へ歩く。水道で水を飲んで顔を洗い、大きな滑り台の下のトンネルの中に糸井は座った。  長いはずの夏の日が暮れていく。じきに日は沈んでここも暗くなる。どうしたらいいんだろう。  わからないまま、日没を迎えて辺りは真っ暗になった。暗闇が怖くて、灯りを求めて街灯の下に移動する。  会社帰りと思われる大人が数人、近道なのか公園の中を横切っていくが、ちらちらと視線を寄越すのみで何も話しかけてはこなかった。  心細さの中で、どれほどそこに立ち尽くしていただろう。 「文明!!」  女性の叫び声が響き、ぶつかるようにして駆け寄ってきたその両腕に掻き抱かれたとき、 糸井は衝撃のあまり呆然とした。 「心配したのよ文明、いつまで経っても帰ってこないから! こんなところでこんな時間まで何してたの!」  涙声での叱責は、耳には届いたけれど。 「……誰……?」  記憶をくすぐりもしないその相手に、抱擁されながらも安堵の欠片も覚えなかったことが、何よりもショックだった。  病院で糸井を診察した医師は、全生活史健忘と診断した。いわゆる記憶喪失だ。  原因は不明。大きな怪我はなく、頭を打った様子もなかったので、外傷性ではなさそうとのことだった。しかし心因性だとしても、当の糸井に記憶がないので、真相は闇の中だった。  失った記憶は戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。戻るとしてもいつになるかはわからない。  母は泣き、父は沈鬱に顔を歪め、弟はただ戸惑っていた。その三人に、糸井は家族としての感情を持つことができなかった。 「どうして文明が……」 「本当に何も覚えてないのか?」 「お兄ちゃん、なんで……」  数日の入院の後、帰宅した知らない自宅で、知らない家族からの視線が怖くて、知らない自室に閉じ籠る。その中でさえ、たくさんあるゲームや玩具にまるで覚えがなくて、本当に自分の部屋なのだろうかと不安になる。  自分を取り巻く痛ましげな視線。糸井が何も覚えていないことへの落胆。自分のことをよく知っているらしい相手への罪悪感。鏡の中の自分が本当に『自分』なのだろうかという懐疑。  毎時毎秒すり減らされて、糸井は気の休まる暇もなく憔悴していく。世界から閉め出されて、どこにも居場所がないように感じられた。  学校を休んだまま夏休みに突入した。  毎日無為に自室で過ごしていた糸井だったが、ある日から糸井の母が半ば強引に糸井を車に乗せ、少し遠くへ連れ出すようになった。 「思い出せないなら教えてあげるし、覚えてないなら覚え直せばいいのよ!」  開き直ったら強いのがこの母だった。勤めていた会社に休業申請を出して、毎日糸井に付きっきりになった。  糸井が遠慮する前にあれこれと世話を焼き、無理矢理に甘えさせ、知り合いのいない場所へ連れていってくれる。つき合わされて連れ出される弟は、純粋にその外出を楽しんでいた。  長く一緒に過ごすうちに、少しずつ家族への警戒感は解けていく。  この頃、父親も会社から帰宅した夕飯後の時間を、家族四人でアルバムを見て過ごすことが多かった。長子の糸井は写真が多く、保育園や学校行事の写真も豊富にあったので、一枚一枚見返していくとけっこうな時間がかかる。  年少の運動会。ポンポンを持って踊ったのはその年の流行歌。隣で踊っているのは小学校も一緒のカナコちゃん。その隣で棒立ちになっているのは二軒隣のリョウジくん。  生活発表会は大きなかぶの劇。糸井は猫を引っ張るネズミ役。『チュウ』の台詞がやたら大きくて、会場の笑いを誘ったとか。  父母の口から語られる思い出は一つも記憶にないけれど、自分の顔をして笑ったり泣いたり、その表情豊かな姿が確かにその中に存在していて、今も父母を笑顔にしている。  写真ってすごい、と初めて思ったのはその時だった。思い出も情景も、美しいままそこに収めて残しておけるのだから。  その後の糸井がカメラを趣味にするきっかけはここにあったように思う。  穏やかにゆっくりと時間の流れた夏休みが終わる。  新学期早々に試練は訪れた。担任教師も級友だった子どもたちも皆、糸井にとっては知らない人だった。 「糸井くんは事情があって今までのことを覚えていなくて、学校のことに慣れるまで大変なので、みんなで助けてあげましょう」  担任の簡潔な説明に、三十余名の好奇の双眸がぎょろりと光った。  いっそ転校であれば良かったのだろう。互いに知らず、新たに結ぶ関係ならば、記憶を失った糸井にも築きやすかったのかもしれない。 「えぇえ、ほんとにこんなことも覚えてないの?」 「嘘つけ、こんなの忘れるわけないじゃん」 「キオクソーシツとか言ってりゃかっこいいとでも思ってんの?」 「やなこととかめんどくさいこと、覚えてないって言ってるだけなんじゃないの? あはは、いいなぁ便利ー」  教室は無邪気な悪意に満ちていて、糸井はすぐに足場を失った。名前もわからない相手から至近距離で受ける攻撃はただただ恐怖で、糸井は言葉なく口元を半笑いの形にひきつらせることしかできなかった。  けれど、悪意よりももっと痛かったのは、善意が失望に変わる瞬間だった。 「え、糸井くん、私のことも忘れちゃったの……?」 「前は糸井くん、そんなこと言ってなかったじゃん」 「糸井くんが好きだって言ってたからあげようと思ったのに……」 「そんな人じゃなかったよね」 「今の糸井くんは糸井くんじゃない」  好意的に近寄ってきた人たちが、がっかりした顔で離れていく。  違うと。求めていたのはおまえではないと。今のおまえに用はないと。  アイツ記憶喪失なんだって、と物珍しさに集まってきた人だかりがあっという間に捌けていく。呼び止める言葉を糸井は持っていなかった。呼び掛ける名前がわからない。  糸井は必死だった。去られることが怖くて、つらくて。  担任に、引き伸ばしたクラス写真に全員の名前を書いてもらって、夜通しそれを見て名前と顔を頭に叩き込んだ。特に仲が良かったという子の話を聞かせてもらって、好きな遊びや得意教科も覚えた。記憶をなくす前の自分の話も聞いて、そうあるように心がけた。できることは何でもしたかった。  それでも、前と同じようには振る舞えない糸井に、級友たちは表情を曇らせる。 「もういいよ」  糸井を切り捨てて、他の子のところへ行ってしまう。  糸井はひとりになった。  周りの子どもたちが悪かったわけではない。配慮というのは、ある程度自身も人生経験を積んだ人間が、その経験と想像力を以て他者の置かれた状況を推し量るという高度な芸当だ。それができなかった小学生に罪はない。  けれど、冬を迎える前に、糸井の心は壊れてしまった。  誰かの望む自分であろうと、どれほど努力しても、受け入れてもらえない。以前の自分との差異を、その綻びを埋めることができない。  もう何が自分かも、どうしていいかもわからない。自分の在りようを何一つ肯定できない。  十一歳の少年は、抉れた心がひしゃげる音を聞いた。  下校後にぽつりと「死にたい」と呟いた息子を、母は目を真っ赤にして抱き締めた。そのまま、糸井は学校へ行けなくなった。  不登校にはなったけれど、糸井は家族を愛していた。  父は糸井に世の中のいろいろなことをたくさん話して楽しませてくれたし、母はいつでも明るく厳しく優しい。弟は幼いながらも何か悟るところはあるようで、人が変わってしまった兄を、それでも以前と変わらず慕ってくれている。  自分を愛してくれる家族が、自分の愛する彼らが、いつか自分が立ち直ることを望んでくれている。  そうあらねばと、糸井は思った。  幸い、学力的なものは失われていなかったので、自宅での学習で十分に補うことができた。そして糸井は自分が望まれている姿になる術を懸命に探った。  結論として、糸井は寮のある遠方の中高一貫校への進学を決めた。  夜中に夫婦が、沈痛な面持ちで糸井の扱いを話し合っていることを知っている。家では明るい弟が、学校で記憶喪失の不登校児の弟と後ろ指をさされていることを知っている。  愛しているから、離れることを決めた。  愛する人たちが苦しむ姿も、いつか自分に失望する姿も、見たくはなかった。

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