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透明人間の独白 03

「おまえ、透明人間みたいだな」  写真サークルの部室で、唐突にそう声をかけられ、糸井はプリントアウトした印画紙から顔を上げた。その瞬間、シャッターを切る音が室内に響く。 「すげえいい写真撮るくせに、なんでおまえ自身はそんなつまんねえの」 「え」  自分を撮られたのだと気づいて、糸井は狼狽えた。どんな間抜けな顔が写っているだろう。  戸惑う糸井を意に介さず、一年先輩の三島はカメラのディスプレイを覗く。 「そーやって誰とも深く関わらないで、表面だけ相手に合わせたイイ人やってくわけ?」  図星を突いた三島の言葉は、やけに鋭く糸井に突き刺さった。  うまくやれていると思っていた。中学から誰も自分のことを知らない環境になって、随分生きやすくなったと思っていた。  過去のことはアルバムである程度補完できている。幼少期の思い出話をそんなに長々と振ってくる人もいないから、補完できた内容で会話の間を繋ぐには十分だ。  適当に辻褄が合うように話を作ることだってできるようになった。知らない相手に話す分には、それが真実になる。時々糸井自身も何が本当で何が作り話だったか見失うこともあるほどだ。  記憶なんてその程度のもの。曖昧で、適当で。大学生にもなって地元を遠く離れれば、小学校までの記憶がなくたって日常生活に何ら支障は来さない。  ……それでも。  埋まらない穴がある。それまでの人生の半分を失って。自分の生い立ち。礎。皆が当たり前に持っているものを自分は持たない。  学力を上げて知識をつけても、外面を磨いて友人を増やしても、礎石のないところに無理矢理建てた継ぎ接ぎだらけのあばら屋は、不安定でちっとも自分の目に魅力的に映らない。  父を、母を、悲しませて。逃げるように実家を出たあと、置き去りにされたと感じた弟は荒れたという。  自分の存在が周りを不幸にする。  友人たちの落胆した顔。望まれているのは今の自分ではないと実感し続けた日々。少しも忘れられない。  自分が何者かがわからないまま、今も糸井は糸井を認められない。 「おまえが自分の内面をどう思ってんだかは知らないけど」  三島はふっと笑って、糸井の手元の印画紙を一枚取り上げ、窓からの太陽光に当てて照らす。 「外はこんなにきれいに見えてんだな」  それは、薄暗い自室の窓辺から、自分で育てた鉢植えのラナンキュラス越しに青空を写した一枚だった。  『透明人間』  言い得て妙だと思った。それが糸井の本質。人格の根幹を持たない、日和見な仮初の人間。それを知られたら皆自分の前から去っていく。  きっと三島も例外ではないと思っていたら、なぜだか三島は糸井から特に離れたりはしなかった。取り立てて近づきもしなかったけれど。 「糸井ー、見てコレいいだろ、中古で掘り出しもんの単焦点レンズ買ったった~」  普通に、サークルの先輩後輩として、カメラ仲間として、底の浅さが露見した自分にも変わらず接してくれる。  糸井にとって三島は他に得難い存在で、特別で、いつしかその彼に、愛されたいと思うようになっていた。  自分の性的指向については、高校の時には自覚していた。異性に関心を持てず、同性に惹かれる質であるとわかったときには、絶望を上塗りする思いだった。  ただでさえ人から愛される要素の少ない自分が、性的にもマイノリティで、同類の誰かと愛し合えるなどとは想像もつかない。両親への引け目も強く、出会いの場へ赴く度胸もないので、きっと一生独り身なのだろうとひっそり覚悟を固めて、そういう方面へのアンテナも閉じていたように思う。  今回も、こんな想いは閉じなければ。  そう考えるほどに、恋い焦がれる気持ちは深さも強さも増していった。  その先に、砂を噛むような七年間があるとも知らずに。  自分の身の程をいやというほど思い知らされた日々と入れ替わりに、忽然と現れたのが糸川だ。この糸川という人は、糸井の人生においてはイレギュラーそのものだった。  糸井のことなど何も知らないのに、好きだと言ってくれる。大事にしてくれる。見た目が好みで、写真に一目惚れしたのだという。糸井は生まれて初めて、この容姿でよかったと感じていた。  糸川のそばにいたい。愛してもらいたい。  でも、そう思う度に、浮かぶ疑問符がある。  ――いつまで?  こんなのは奇蹟みたいなものだ。ずっと続くわけがない。この見てくれに、体に飽きたら、あるいは欠けた中身に気づいて嫌気がさしたなら、きっとすぐに捨てられる。  それは仕方のないことだ。  自分の価値を、糸井は弁えている。糸川みたいな人を、長くは留めておけない。  わかっているからこそ、できるだけ長くと、願ってしまう。分不相応な望みだ。糸川には聞かせられたものではない。伝えられないなら、相手に叶えてもらえないなら、自助努力しかない。  糸井は今日も、全てを我慢する。どれだけ会いたくたって、そうとは決して口にしない。  糸川の愛情を浪費しないために自分にできることは、それくらいしかないから。  そう思っていたら、夜になって糸川から突然、このあと糸井の部屋に寄っていいかとメッセージが届いた。  糸川が糸井の部屋に来たことは今まで一度しかないし、これからも糸井が糸川の部屋に通うことの方が多いと思っていたから、来ること自体が珍しい。しかもまだ今日は週中の水曜だ。  了承の返事を打ちながら、会えて嬉しい気持ちの一方で、どうしても悪い方に考える頭が働いてしまう。急ぎで伝えなければならない用って何だろう。  ――大丈夫だ。今日終わりなんてことはきっとない。  すぐに弱く傾いてしまう自分をなんとか建て直す。そんなふうに不安定な自分が糸井はすごく嫌いだった。  九時を回って、ワイシャツとスラックス姿の糸川が部屋を訪れた。ドアを開けると穏やかな表情で会釈をし、中に入ってドアを閉めると糸井の肩を軽く掴んでちゅっとキスをくれる。  いつもと同じ、変わらない動作がたまらなく嬉しい。 「上がってください。今日はどうしたんですか? 夕飯は?」 「あぁ、いや、すぐおいとまするからお構いなく」  玄関先でいいと、靴を脱ぐ気配のない糸川の様子に糸井は少し気落ちする。平日の夜だし、長居はしないだろうとは思っていたけど、それにしてももう少し一緒にいられると思っていたのだ。  その糸井の表情を見て、気が変わったように糸川が靴を脱ぐ。 「……やっぱりちょっとお邪魔します」 「え、時間大丈夫ですか?」 「ふふ。そんなかわいい顔されたら帰りたくなくなっちゃう」  指の背でさらりと頬を撫でられて、糸井はぼっと赤面した。自分で思うより、顔に出てしまっているのだろうか。 「す、すみません、引き留めるみたいな」 「なんで謝るの? 急に来て糸井くんが迷惑かなって遠慮してたところだったから、寂しがってくれて嬉しいよ」  寂しがって……いるように見えたのか、やっぱり。もう少し気をつけないと。  ばつが悪く眉間を掻いていた糸井に、部屋に上がって荷物を置いた糸川が、紙袋を差し出してきた。 「はいこれ、プレゼント」 「え、あ、うわ、雪晃!」  受け取って中を覗いた糸井は、破顔して歓声を上げた。 「ありがとうございます! すごい、理想のサイズ」 「どういたしまして。ふふ、いいリアクションしてくれるなぁ」 「多肉植物全般が好きなんです。このフォルムがめちゃくちゃかわいくないですか。花もすごくきれいなんですよ」 「春になったら咲くって、お店の人が言ってたよ。楽しみだね。僕にも見せてね」  頷くのが、一呼吸遅れた。 「……はい」  糸川と、先の約束ができた。そのことに胸がいっぱいになってしまって。 「あの、でも、わざわざすみません。週末会うときで良かったのに」 「んー……僕もそのつもりだったんだけど。ちょっと急に、どうしても糸井くんに会いたくなっちゃったんだよね」 「急に、ですか」 「あ、それとこれもあげる。はい」  思い出したように、糸川はスラックスのポケットから無造作に小さなビニールの小袋を取り出して、糸井の手のひらにのせた。 「……え、これ」  その中の銀色に光る金属片に、糸井は目を瞠る。 「さっき駅前で作ってきたの。僕んちの合鍵」 「え? いや、あげるって?」 「あげる。持ってて。いつ抜き打ちで来てくれてもいいから」  そう言われてもわけがわからず、糸井の視線は自分の手と糸川の顔とを何度も往復した。  その小さな袋を握り込むこともできないまま、両手でおしいただくようにしている糸井の反応を楽しむように、糸川は飄々と笑っている。 「や、こんな大事なもの、俺なんかに簡単に」 「糸井くんはなんかじゃないし、簡単に渡してるつもりもないよ。人に合鍵渡すのは初めてだし、糸井くんだから持っててほしいんだよ」 「い、とかわさん……」  まだ合鍵を握ることができず、糸井は手のひらに視線を落とす。どうしたものかと逡巡したまま黙って見つめていたら、不意に糸川に強く抱き締められた。 「……ごめんね、重かったら。でも僕、糸井くんに僕のこと全部持っててほしい。全部あげるから、なくさないでね」  腕を緩め、瞳を覗かれる。 「今ここにいるきみのことが、大好きだよ」  ぶわ、と熱風に煽られたかと思った。  糸川はどうしてこんなに、ほしい言葉をくれるんだろう。  糸井は自分を糸川に委ねるつもりでいた。持つも捨てるも糸川の自由で、だから捨てられたくないならそれなりに努力するのが糸井の務めだと。  その糸井に、糸川の全部をくれると、糸川は言ってくれた。一方的な持つ捨てるの関係ではないのだと教えるように。  そして何より、糸井自身がどうしても認められずにいる今の糸井を、全肯定してくれた。  こんな幸せは、きっと糸川の他に与えてくれる人はいない。 「俺も……大好きです」  すぐ目の前で、糸川が微笑む。そのくちびるが近づいてくる気配に、糸井は目を閉じた。  暗い瞼の中で、砂時計がすごい勢いで砂を落としている。残りはどれだけなんだろう。わからないけれど、きっとそう多くはない。  こんな贅沢を望んだつもりはない。ましてこれ以上なんて望むべくもない。もう充分だ。  だから、どうか、落ちる砂を止めてほしい。  終わりたくない。  終わりが怖い。 「……糸井くん?」  涙が浮かびそうになって、奥歯を噛み締める。  気遣わしげな糸川の視線に、糸井はただ、渾身の笑みを返した。 <END>

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