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きみを想う言葉
デスクの上で携帯が震えて、糸川はPCに向かっていつの間にか強張っていた肩の力を、意識して抜いた。
そういえば終業のチャイムはだいぶ前に鳴ったのに、休憩にも立たずにデスクにかじりつきっぱなしだった。あとちょっと、と思って仕事を続けてしまって気づいたら何時間か経っていた、というのはけっこうざらにある。
残業しない日はほとんどないし、普段の糸川はわりと仕事の虫だ。
ごりごり言う肩を回しながら、携帯を取り上げると、ディスプレイには糸井からのメッセージ通知が表示されている。
『時間があれば、西の空を』
端的な一文。
西? と糸川は背を伸ばして見回してみたが、糸川のいるオフィスの窓は東向きで、全てのブラインドが閉め切られて室内は煌々と蛍光灯が光っている。
休憩所が西向きだったかなと、伸びをしながら立ち上がり、ついでにコーヒーでも飲んでくるかと、糸川は廊下へ出た。
自然光の差さない廊下を歩き、明日納期の作成資料の目途をどうつけようかと算段する。途中の自販機で缶コーヒーを買い、悩みながら無人の休憩所のドアを開けて。
「――うわ」
思わず声が出た。
ビルの十二階にある休憩所の西に大きく開けたその窓は、全面が真っ赤に光っていた。
呆気に取られてしまうほどの、深い茜色の夕焼け。
「はは……すごいな」
なんだか力が抜けるようで、糸川は壁際のソファに腰を下ろして冷えた缶のブルトップを上げた。西日は眩しいし、空調が効いているとはいえ直接当たれば暑いのだけど、その光の中で糸川はゆったりと背を凭れさせた。
糸井のメッセージがなければ、たぶんこの時間に休憩は取らなかった。たとえ取ったとしても、この美しさに気づく余裕もなく、眩しいからとさっさとブラインドを降ろしてしまっていたかもしれない。
『見た。夕日、すごくきれい』
糸井からのメッセージへ、短く返す。二人のやり取りは頻度も文字数も多くはないが、ゆるくコンスタントに続いている。
それからすぐ、糸井からは『お仕事お疲れ様です』の文字が入ったスタンプが送られてきた。スタンプだけの送信のときは返信不要だと、以前糸井が話していた。残業中の糸川への配慮を感じて、口元に笑みが上る。
こちらも『ありがとう』のスタンプを返し、コーヒーを飲み終えたら戻ろうかと思っていたところへ、前触れもなく休憩所のドアが開いた。
「あっ。糸川くん、いたんだ。珍しいねこんな時間にここにいるの」
誰もいないかと思った、とペットボトル片手に入ってきたのは、別部署の先輩女性社員である三条だった。仕事で関わりが深く、姉御肌で面倒見が良い。昨年結婚して姓が変わったはずだが、今も旧姓のまま仕事を続けている。
「そんなとこいて眩しくない? 暑いしー」
「いえ、ちょっと夕焼け見てました」
「え!? なになに、そんなキャラだっけ? どしたの疲れてる?」
「疲れて……ないと思ってたんですけど。実は疲れてたのかもしれないです。こういうのに癒しを感じる程度には」
「あらー。良かったわね、早めに気づけて。メンタル壊してからじゃ遅いから」
糸川の隣に座った三条は、ため息混じりに組んだ膝に頬杖をつく。
「……鈴木さん、長引きそうですか」
他に人はいないが声を潜めて、糸川は問うた。鈴木というのは、三条の部署の年配の男性社員だ。先月から心身を患って、休職している。
元々忙しい上に鈴木の仕事まで割り振られて、もうてんやわんやだという三条の愚痴を聞いたのが先週のことだ。
「そうねー、とりあえず診断書は二ヶ月だって。でももっと延びるかもね。一度ぱきっと折れちゃうとなかなか……真面目で融通の利かない仕事人間となると余計にね」
鈴木は新しい仕事を任されて、不慣れなそれをこなそうと愚直に取り組み、業務のオーバーフローを補うために家に仕事を持ち帰り、寝食を疎かにした結果心身を病んでしまったのだという。独身で一人暮らしだったため、ストッパーとなる人が身近にいなかったのも良くなかったのかもしれない。
独身一人暮らしで持ち帰り仕事も厭わない仕事人間、というあたりがきれいに自分にも当てはまって、糸川は我が身を省みる。
同じことを三条も考えていたようで、糸川を横目で見てクスッと笑った。
「この間愚痴ったときも言ったけどさ、糸川くんのこともちょっと心配だったの。いつだったか、ものすごいミス連発してダメダメだった時期があったじゃない?」
「あぁ……はい」
糸井と音信不通だったときのことだ、と思い当たって糸川は恥じ入った。あれは仕事のストレスとかは全く関係なかったが、それだけに思い返すとかなり情けない。
「その節は主催会議をすっぽかしまして誠に申し訳なく……」
「あはは! 面白かったからいいんだけどさ。でもほんと、糸川くんが無自覚に限界迎えてたらどうしようって思ったの。そのあと何事もなかったかのように復活して安心したよ」
ふふふ、と三条は笑う。
「夕日見て癒されてる糸川くんってのも、意外性があって良いわ」
件の夕日は、もうすぐビルの間に沈んでしまう。入り際の光を受けた雲が発火しているかのように赤くて、糸川は目を眇めた。
「……僕は、今日の夕日をきれいだと気づきもしないような、がさつな精神の持ち主なんですが」
糸川は、視線を手元の携帯に落とす。
「最近、そういうのを教えてくれる人がいまして」
隣の三条は「へえ」と目を丸くして、頬杖から顔を上げた。
「空とか……花とか、風景とか。僕が意識もしないで過ごしてるものを、ほら、って」
糸井から送られてくるメッセージに時折、写真が添えられている。雨上がりの虹だったり、夕立に濡れたアマガエルだったり、はたまた昼食のうどんに載った見事に繋がったネギだったり。
「教えてもらう度に、目から鱗というか、なんか、緩むんですよね。張ってたものが。ああ僕は気づかなかったな、この視点は僕にはなかったな、って。仕事仕事で視野が狭くなってるときに、もっとゆっくり周りを見渡すことも必要なのかな、と思えるというか」
そういう影響を与えてくれる人が、これまでは身近にいなかったような気がする。
他人の影響を受けるなんて、良いことだとは思っていなかった。変わらないことを強さだと考えて、そういう芯を持つことは価値だと思っていた。誰かの傍にいるためには、その価値を持ち続けていなければならないと。
その思い込みはこれまで、自分と周囲の人間を狭い枠の中に押し込めようとしていた。相手が離れていったときに、寂しさと同時にどこかほっとした気持ちがなかったとも言い切れないのは、その関係に大なり小なり無理があった証拠なのだろう。
糸井の隣で、緩んで揺らぐ自分にはまだちっとも慣れないけれど、不快では決してない。糸井が共有してくれる日々の小さな感動を、受け入れて、自分もそういうものに気づける人間になりたいと思っている。
繊細な糸井に見合う自分に、変わりたいと思っている。
「ふぅん……」
三条は足を組み替えて、もう一度頬杖をついた。
「大人になるとさ。ある程度自分と考えが合う人としか深くはつき合わなくなっちゃうから、たまに自分と違う視野の人と接点ができると、すごく新鮮だったりするよね。その人が違った景色を見せてくれるとなったら、それってすごく貴重なことで」
「……そうですね」
確かに糸井は糸川の人生において貴重で、稀有な存在だ。
「彼女?」
出し抜けに問われて、糸川は言葉に詰まる。
「え」
「あ、そんなの訊くとセクハラになっちゃうか」
答えを躊躇した糸川の態度を誤解して、三条は慌てたようにごめんねと両手を合わせた。
そんな気を遣わせるつもりはなかった糸川は、弁解するように片手を振る。
「いえ、そういうことは全然ですけど……」
糸井は彼女ではない。だけど恋人だと言えば自動的に彼女ということにされてしまう。どうでもいいことではあるのだけど、どうもそこがしっくりこなくて、糸川は糸井を表す言葉を探した。
好きな人。
大事な人。
それも確かにそうなんだけど。
あれこれ思考を巡らせていると、不意に三島の言った言葉も脳裏に浮かぶ。
糸井から欠落した記憶の存在。それに糸井自身が囚われていること。
でも、その記憶の有無にかかわらず、自分がこんなにも糸井に惹かれているという事実。
そんなことは些末だと他人が言ってしまうのは軽率かもしれないけれど、自分にとっては今の糸井に何も不足はなく、今ある彼のままが大好きだと伝えたことは紛れもない本心だ。
「……大事にしたい人、ですかね」
一番しっくりくるその言葉を呟いた瞬間、三条が突然膝を叩いて立ち上がった。
「よし! ありがとう糸川くん。なんか思いがけない人から思いがけないノロケ話聞けて元気出たわ」
「え!?」
惚気たつもりなどない糸川は慌てたけれど、三条はペットボトルのドリンクをぐいっと飲み上げて、きりっと糸川に向き直る。
「糸川くんを軟化させてくれてありがとうって、彼女さんにもお礼言っといて!」
じゃあね! と三条は休憩所を出ていった。
「彼女じゃないってば……」
糸川の呟きは届かず、徐々に暗くなる室内に糸川は取り残された。
(軟化、か)
悪くないな、とぬるくなった缶コーヒーの底を上げながら、糸井の顔を思い浮かべて糸川は笑う。
このときの糸川は、翌日の社内の給湯室で、糸川に恋人がいるという噂に女性社員たちが悲鳴を上げることになるとは知る由もなかった。
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