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来年の花火は 01

 八月。  お盆を翌週に控え、いつも通り糸川の家に向かっていた糸井は、駅の構内に貼られたポスターの前で足を止めた。 (今夜十九時半から……花火大会か)  そういえば電車の中でも、何人か浴衣姿の乗客を見かけた。今日は糸川宅の最寄り駅近くの大きな神社が会場のようだが、この時期は毎週どこかしらで花火が上がる。  もう何年もわざわざ会場へ足を運ぶことはしていないが、時々見かける夜空を照らす光はきれいだなと糸井も思う。世の恋人同士が宵闇に紛れて手を繋ぎ、寄り添って時を過ごすには絶好の機会だ。 (……俺も、糸川さんと一緒に行けたら)  そう思いかけて、糸井は足元に視線を落とした。  そんなこと、言えるわけがない。  こうして通い妻よろしく糸川の自宅へ赴き、誰の目にも触れない場所で情を交わすのが関の山。二人で外出なんて、外食がせいぜいで、デートまがいのことはしたことがない。これからもしない。  それでいい。それでも充分だと思っている。そばにいられるだけで。 「花火?」  そう思っていたのに、突然背後から聞き慣れた低音で話しかけられて、糸井は心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。 「い、糸川さん!」  いつから近くにいたのか、飄々と糸川はポスターを眺めている。 「……今夜だね」 「そう、ですね」  ポスターに書かれた開催日時を指でなぞって、糸川は糸井を振り返った。いつも冷たそうな目の奥の色が、ほんのりあたたかい。 「行きたい?」 「えっ、いや」 「行こうよ」 「え!?」  誘う言葉に驚いた糸井に、今度こそ糸川ははっきりと笑う。 「気になってたから見てたんでしょ? なら行こうよ。僕も好きだよ、花火」 「俺と糸川さんでですか?」 「他の誰と行くのよ」 「でも、二人でなんて、……誰に会うかわからないのに」 「会っちゃまずい? 花火大会くらい、会社の同僚とだって行くでしょ。男同士の見物客なんてたくさんいるよ」 「でも……」 「ずいぶん渋るねぇ」  眉を下げてクスクスと笑った糸川が、いつもの道を歩き始める。その少し後ろを、糸井は追った。 「嫌ならもちろん無理にとは言わないよ。でもせっかくだから糸井くんと一緒に行けたらなと思ったんだけど、どう? 僕は行きたいよ」  そんな糸川の言葉にふわりと胸が浮くようで、糸井は考える前に口を開いていた。 「俺も行きたいです」  言ってしまってから、はっと口元を抑える。  言えるわけがないと思っていたことなのに、糸川の優しい言葉に浮かれて、ついうっかり口を滑らせてしまった。  どうしよう。気を遣わせた。どうしよう。どうしよう。  蒼白した糸井だったが、対する糸川は目を細めて破顔した。 「本当? じゃあどうせなら二人して浴衣着て行ってみようか」  はしゃいだ糸川に、当惑しながら糸井は口元を拭う。 「お、俺浴衣なんか持ってないです」 「大丈夫、僕が二着ぐらい持ってる」 「えぇ? 浴衣を?」 「なんなら女性の和服も着付けできるよ」 「えぇ……何その特技……」 「ちょっと、引かないでよ」 「いえ引いてませんけど、本気です?」 「ふふ、本気です」  糸川は楽しそうに笑い、糸井は戸惑ったまま、今夜は二人で浴衣着用で花火大会に行くことが決まったらしかった。  部屋に着いて玄関ドアを閉めると、いつものように糸川がちゅっとキスをしてくる。今日はすぐにはくちびるを離さず、触れ合わせたまま鼻先をくっつけて糸川が笑った。 「楽しみだね」 「はい……」 「浮かれててごめんね。デートみたいで嬉しいんだもん」 「!」 「みたい、じゃないか。デートだよね」  上機嫌で体を離し、下駄箱を開ける糸川の背中を、糸井は思わずまじまじと見つめる。  この人は他人の頭の中を読めでもするんだろうか。さっきから、言えないと思っていたことが言えてしまったり、あとにも先にもできないと思っていたデートができることになったり、なんだか思考を読まれているかのように都合の良い展開へ誘導されている気がする。 (俺、そんなにわかりやすく顔に出てるのかな……)  糸川は優しいから、きっと考えを察して先回りしてくれているのだ。そんな労力を払わせているのが申し訳ない。  気をつけないと、と思っていたところへ、糸川が糸井の足元に一足の雪駄を置いた。 「あったあった。足のサイズなんか僕とたいして変わらないよね? こっち履きなよ。浴衣にスニーカーってわけにもいかないしさ」 「あ、ありがとうございます。糸川さんは?」 「僕はビーサンでいいやー。たぶんこっちの方が色味が合うから」 「そうなんですか……」 「よし、じゃあ次は浴衣だね。おいで」  いそいそと部屋に上がり、糸川は糸井を寝室のウォークインクローゼットへ招く。いつも借りる部屋着はそこから出してくれるが、糸井は入ったことがなく、初めて踏み入れたその中に場違いにも見える和箪笥があることに糸井は目を丸くした。 「え、何ですかこの箪笥、中全部着物ですか?」 「全部じゃないよ、羽織や袴も入れて五、六着かな。成人式と親族の結婚式で着たくらいで、最近はほとんど着ないけどね」 「えー、すごい。俺和服なんか一着も持ってないです。浴衣すら出張先のビジホで着る程度で」 「普通はそうだよね。うちは実家がお茶の先生やっててね、今は姉が継いでるんだけど。僕もやらされてたし、なんか正月は普通に晴れ着着たりしてたもんだから、わりと和服には縁があったんだよね」 「へぇー! そうなんですか。なんか世界が違うって感じ」 「一緒に冷凍パスタ食ってる世界線だけど?」 「……ご実家とこの部屋との間に時空の歪みがあるんですね」 「ぶっ。ふふっ。そうか、そうだったんだね」  可笑しそうに笑いながら、糸川は箪笥の抽斗を開ける。その中から取り出した二着の浴衣は濃鼠色と錆浅葱色で、それぞれを糸井の両肩にかけて見比べて、糸川は錆浅葱の方をポンと撫でた。 「やっぱり糸井くんにはこっちが似合うね」 「……お借りしていいんですか?」 「もちろん。高いものじゃないから気兼ねしないで。既製品だし、汚したって普通に洗濯できるから」 「や、汚さないようには気をつけます」  浴衣と角帯を恭しく受け取って、早速服を脱ぎ始めた糸川に倣って糸井も服を脱ぐ。寝室でパン一になるのは若干の照れ臭さがあったが、糸川が何も気にしていない様子なので、羞じらうことが逆に恥ずかしく思えてさっさと衣服を脱ぎ去った。 「浴衣って……いつもどっちが上になるように着たらいいんだかわからなくなるんですよね……右前? ってどっち?」  羽織った浴衣の衿を持って思案していると、こちらも素肌に浴衣を羽織っただけの糸川が、笑いながら糸井の向かいにやって来てその衿を握る。 「糸井くん右利きでしょう。利き手が懐に入りやすいように、って覚えるといいよ」 「……あ、なるほど」  頷きながら、糸井は視線を泳がせた。はだけた浴衣の間から糸川の引き締まった裸体が覗いていて、正直とても目のやり場に困る。 「帯取って。締めてあげるね」 「あ、はい、お願いします」  言われるままに帯を渡すと、着付けてくれる糸川が糸井の背中に腕を回す。糸川に他意はないだろうに、抱きしめられているようでドキドキしてしまう自分がなんだか後ろめたかった。 「糸井くん細いなぁ。ちゃんと食べてる?」 「……食べてるじゃないですか、いつも、高カロリーなクリームパスタを夜食に」 「はは、そうだ。糸井くんクリーム系好きだよね。あ、この前新しい味のやつ見かけたから買っといたよ。何だっけ、カニだったかな。甲殻類平気だったよね?」 「大好きです」 「そりゃ良かった。はい、できたよ」  背中を軽く叩かれて、帯の巻かれた腰をさする。後ろに手を回して結び目に触れると、きっちりと端を折り込んできれいに仕上げてあるようだった。 「すごい……」 「回数こなせば誰でもできるよ」  何でもないことのように言って、糸川は自分の浴衣をさっさと着付けていく。慣れた手つきは、本当に今まで数をこなしてきたのだろうと思わせた。  どうして、と何度でも糸井は不思議に思う。  糸川の育ちのよさは感じていた。普段の生活、箸の上げ下げひとつとってみても、糸川の所作はきれいで上品だ。実家がお茶の先生をしていると聞いて納得した。  とても素敵な人だ。糸川を知る度にそう思う。そして、知るほどに引け目を感じる。こんな人がどうして自分を、と。  自分でそう思うような不釣り合いな恋はきっと、やっぱりそう長くは続かないのだろう。 「よしできた、行こうか」  自分の着付けを終えた糸川が、糸井へ向かって手を差し出す。他へは向けられない優しい眼差しが自分へ向けられているのを確認して、Xデーはたぶん今日ではないのだろうと、糸井は後ろ向きに安堵する。  そんな風に考えるのを止められないことが悲しい。自分は卑屈で矮小な人間だ。

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