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来年の花火は 02
糸川に借りた雪駄をチャリチャリと鳴らしながら、糸井は花火大会の会場を訪れた。
打ち上げ開始の時間にはまだ早いが、歩行者天国になっている道の両側にたくさんの屋台が軒を連ね、大勢の見物客がひしめいている。人いきれの熱気と、ソース臭と醤油バター臭とカラメル臭の入り交じった空気に、なぜだか不思議と高揚を誘われた。
こんな縁日みたいなところに来たこと自体が何年ぶりだろう。大学の頃、サークル仲間の何人かで花火を撮りに行ったのが最後だろうか。
ふと隣を窺うと、辺りを見渡している糸川も口元に笑みを浮かべていた。
「普段それほど粉物食べたいとか、イカ焼き食べたいとか思わないのに、こういうとこ来ると無性に食べたくなるの、なんでなんだろうね」
楽しそうな糸川の声に、糸井はほっと強張らせていた頬を緩める。少なくとも見た目には、嫌々付き合わされている様子はない。
むしろ外でこんなに笑顔を振り撒く糸川も珍しい。お陰でさっきからちらちらと、浴衣女子たちが糸川の横顔を窺っている。
「糸井くん、焼きそばととんぺい焼きと焼鳥と焼きもろこし買おう」
その視線に気づく素振りもなく、少年みたいなきらきらした笑顔でそんなことを言うものだから、糸井は思わず吹き出してしまった。隣の浴衣女子たちも、くすくす笑いながら「超かわいいんだけどー」と囁き合っている。全く同感だ。
「糸川さん、だいぶお腹減ってました?」
「そうなの、すごい減ってた。今朝変な時間に起きちゃって、朝昼兼用で食べてからタイミング逸してさ」
「よし。じゃあ全部二人前買っちゃいましょうか!」
「お! 景気いいね」
夕飯を屋台飯で済ませることに決めて、二人は支払いは僕が俺がと言い合いながら食べたいものを買っていく。
そして二人ともが袋を両手に、ほくほく顔で車止めの柵に移動して腰かけた。
「こういうとき、大人になってよかったと思うよね」
ゲットした焼きそばを袋から取り出しながら糸川が感慨深げに呟くのに、糸井は小首を傾げる。
「なんでですか?」
「こう、屋台で好きなものを好きなだけ大人買いできる感じがさ。昔、小学生の頃とか、五百円玉握らされて、好きに使っていいのはそれだけ、とかじゃなかった? 金魚もスーパーボールも掬いたいし、射的もしたいし、でもそしたらたこ焼きかかき氷は諦めなきゃいけない、みたいな」
同意を求められて、糸井は口元に柔らかい笑みを浮かべた。
「そうでしたね。使えるお金がなくなって、でもどうしても綿菓子が食べたい、って泣きついて暴れたことがあります。小学校二年生の頃かな、地元の夏祭りで」
その出来事自体は糸井の記憶にはないけれど、父母がアルバムを見ながら話してくれたからよく覚えている。弟と揃いの甚平を着て、泣き止んだばかりの赤い目をして、綿菓子にかじりついている笑顔の自分の姿が写真に収まっていた。
「……駄々をこねて暴れる糸井くんなんて、想像できないなぁ」
糸川は箸を止めて目を細め、糸井の笑みを見つめる。
「はは。今の俺から想像できちゃっても複雑ですよ?」
その視線から目を逸らし、糸井は笑った。
本当は覚えてもいないことを、まるでいい思い出みたいに語る自分に、負い目が募っていく。
騙しているんじゃないだろうか、糸川のことを。中身のない、都合の悪い自分を隠して。
だけど、隠さないと、この人の傍にはいられないから。
――ドン。
口元に装った笑みが崩れそうになった瞬間、頭上の夜空がパッと明るくなって轟音が響いた。そして周囲から上がる歓声。
糸井と糸川も、同じく空を見上げた。
「始まったね」
大きな一発から始まった花火の打ち上げは、大小色とりどりの後続が連なって夜空を鮮やかに照らしていく。
「すごい、きれいですね」
花火の合間に隣を見やると、糸川は空を見上げながら焼きそばを食べている。よほどお腹が減っていたのだろうが、それにしてもこの人の食事の麺率は高過ぎやしないだろうか。
「ん? 何?」
思わず笑っていたら、気づいた糸川が耳を寄せてきた。近いところで打ち上げられる花火の音が大きくて、会話する二人の距離も自然に近づく。
「なんでもないです。冷めないうちに食べましょう」
「うん、糸井くんもこっち食べなね」
「あ、ありがとうございます」
屋台飯に舌鼓を打ちながら、散発的に打ち上がる花火を二人で見上げる。今のは蝶かな? あれは朝顔かな? などと、型物花火の柄を当てるのも楽しい。
「糸井くん、ほっぺにとうもろこしついてる」
「え、うそ、どこっ」
「ふふ。取れた取れた」
そんな風に過ごす時間はあっという間で、花火の打ち上げ間隔は、フィナーレへ向けて徐々に狭まっていく。
明るい夜空を見上げながら、だんだん終わりに向かっているのがわかって、糸井は寂しくなってしまった。
「カメラと三脚……持ってくればよかった」
ぽつりと呟いた糸井に、糸川が耳を寄せる。
「仕事の素材集め?」
「あ、いえ……思い出に、ですね」
好きな人が隣にいて、一緒に浴衣を着て出掛けて、出店の食べ物を一緒に食べて、きれいな花火を一緒に見上げた。
こんなことは、たぶんもう二度と経験できない。最初で最後の幸せな時間を、カメラで切り取って残すことができればよかったのだけど。
写真に収められない分、今夜のことはしっかり記憶に留めておこう、と糸井は強く思った。
「思い出、か」
そのとき、隣で糸川が低く呟いて、糸井はびくりと肩を震わせた。
二人の体の間で、糸川が糸井の手を取ったのだ。
「い、糸川さん」
焦って手を引こうとした糸井を、糸川の手が引き留める。やや強引に、その手は恋人繋ぎで握られてしまった。
「外で……」
「大丈夫だよ、暗いし誰も見てないよ」
辺りを窺うと、確かに他の見物客は皆夜空の花火に夢中で、こちらを気にする者などいない。それでも内心に沸き上がる疚しさに、糸井は顔を上げられなくなってしまった。
糸川のような人と、自分なんかが。そうでなくても、男同士で。
万が一にも見られてはいけないと、糸井は浴衣の袂で手元を隠そうと身じろいだ。
「……写真はさ」
その糸井の狼狽を知ってか知らずか、夜空を見上げたまま糸川はのんびりと話しかけてくる。
「撮りたいなら、また来年があるよ。きっと祭は来年も十年二十年後もずっと続くんだろうから、毎年来ようよ。こうやって二人で浴衣着て」
糸川の横顔を、糸井は凝視した。発言の意図がよくわからなくて。
「毎年……」
食み返すようにそう口にした一瞬後、暗闇と沈黙を挟んで、バシュッという音とともに夜空に閃光が走った。
――ドンドンドンドン……
息つく間もなく立て続けに打ち上げられる花火と、大きく響く破裂音。数十秒間続く連打に、学生とおぼしき集団が戯れに「たーまやー」と叫んだ。
昼と見紛うばかりに光の玉が広がった夜空で破裂音が止む。次いでパラパラと名残を惜しむように光の欠片が闇へ落ちてゆき、白煙が風に流されるのを見送るように拍手が起きた。
「最後すごかったねぇ」
少し興奮気味に糸川は笑い、糸井も笑みを返す。
「……帰りましょうか」
他の見物客が腰を上げる気配に、糸井は繋いだ手を解いた。
祭の終わりは、糸井の胸にどうしようもない寂寥を運ぶ。流れる風に、ほんのり火薬の香りが乗っていて、その匂いに糸井は泣きそうになった。
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