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来年の花火は 03

 帰りのバスは混み合っていて、すし詰め状態の車内で糸井は自分の肌が汗ばむのを自覚した。  糸川の部屋に戻ったら、まずは糸川と順番に風呂を使って汗を流して、きちんと身支度も済ませて、それからの時間を二人でゆっくり過ごすのだと思っていた。糸川と一緒にきれいな花火を見て、嬉しい言葉をもらって、糸井は少々浮かれていた。  玄関ドアを開けて中に入り、いつものように軽く肩を引かれて口づけを交わす。いつもなら軽い接触ですぐに離れるそのくちびるが、ぐっと深まるのに糸井は慌てた。 「い、と……」  声を塞がれ、背を壁に押し付けられる。衿元のあわせからじかに肌に触れた手が胸元を探ろうとするのに、何より困惑が先に立った。 「待って……糸川さん、ここで?」  もう後ろに下がれないところでそれでもなんとか後ずさろうと身じろぐと、摺った雪駄の裏が金属音を上げる。そうだ、まだ履き物を脱いでもいないのに。  ともかく話は部屋に上がってからではないかと、説くように糸川の胸を押すと、逆に強く抱き寄せられた。 「糸井くん」  熱のある瞳に覗き込まれて、糸井の困惑は深まる。 「糸川さん……部屋に、シャワーしてから」 「いいよ」 「い、いいって」 「大丈夫だから」 「大丈夫じゃな……っあ」  懐に入り込んだ手に探り当てられた乳首をつねられて、思わず声が漏れて糸井は糸川の肩に顔を伏せた。  耳元に荒い糸川の呼気がかかる。 「……糸井くんの浴衣姿、可愛いんだもん」  常にない性急な興奮の理由を明かされて、糸井は糸川の腕を拒めなくなった。  マンネリ、の四文字が頭をよぎる。要するに普段の自分にはもう、糸川は飽きてきているのだ。 『つまんねぇやつ』  三島から浴びせられ続けたあの言葉を、糸川からも聞かされることになるのだろうか。あるいは口にしないまでも、糸川に不満を抱かせたまま、我慢を強いることになるのだろうか。 (それは嫌だ……だけど、でも)  何の準備もしていない、あまつさえ人いきれで汗にまみれた体を、糸川に晒すことなどできない。  そう思うのに、糸川は汗でべたついているはずの糸井の首筋にためらいもなくくちびるを寄せてくる。それどころか、鎖骨に沿って舐められて、糸井は首を竦めてなんとか逃げようとした。 「糸川さん、汚いからっ」 「汚くないよ」 「お願いだから……」  早く諦めてほしい。風呂に入ってからでいいと言ってほしい。自分からは拒めないから。  けれど願いとは裏腹に、拒まない糸井の様子を了承と取ったのか、糸井の肌を探る糸川の手は深まっていく。  ついにあわせを割って腿を這った指先が、下着の裾をくぐってその奥へ進もうとする。その瞬間、糸井は思わず力任せに糸川を押し退けていた。 「やめッ……!」  配慮のない拒絶の叫びに、双方が我に返る。糸川は大きく一歩後退して、糸井から距離を取った。 「……ごめんなさい」  顔色を真っ青にして口元を手で塞ぎ、先に謝ったのは糸井の方だった。 「ごめんなさい、違うんです、嫌だったわけじゃなくて」 「いや、ごめん、僕の方こそ……がっつきすぎた」  気まずく目を逸らし、糸川はサンダルを脱ぎ捨てて、しまいもせずに部屋の奥へ歩いていく。 「糸川さん、待って」  糸井も急いで雪駄を脱いで、糸川の後を追う。呼んでも振り返らない糸川は、寝室へ向かってそのままクローゼットを開けた。 「無理強いしてごめんね。お風呂入ってきて」  そう言って糸川が部屋着を差し出してくるのを、糸井は受け取ることしかできない。 「無理強いなんて……思ってないです」  糸川は視線を逸らしたままで、糸井も顔を俯け、はだけた胸元に部屋着を抱いて言われた通りに風呂に向かった。  脱衣所で、帯を解いて浴衣を脱ぐ。すべて脱いで風呂場に入れば、姿見の鏡に映るのはいつもの自分で、糸井はがっかりした。 (そりゃ……飽きるよな)  無理もない。糸川だって、コスプレに走りたくもなるだろう。  それなのに、せっかく浴衣プレイに乗り気になってくれた糸川を拒んだりして。  何をしているんだろう。  汚してしまったなら自分で始末すればいいことだし、それで幻滅されたらそれまでのことで、糸川のやりたがることを阻む理由になんかならないのに。  糸川のためになら、何でもできるつもりだった。だけど、嫌われるのが怖くて、結果的に糸川の需要を満たせなくなっている。  こんな役立たずに、誰も用はない。 「……っふ」  シャワーを出して水音が室内に響いたとたん、堪えていた涙が込み上げて嗚咽が漏れた。  涙を、糸川に知られてはならない。煩わせたくない。泣く理由なんかないはずなのだ。糸井は糸川との関係に、これ以上望むことなど何もないのだから。  だから、この涙は水音に隠さなければ。  深く息をついて呼吸を整え、顔も冷たい水で洗って、身支度を済ませて風呂を出る。  テレビを見ていた糸川が入れ替わりで風呂へ行ってしまうと、室内にはバラエティ番組の笑い声が、どこか場違いに響いていた。  結局その夜、糸川は糸井を抱かなかった。  同じベッドに横たわり、優しく後ろから抱き締められたときには期待してしまった糸井だったが、耳元で小さく「ごめん」と謝られて、自分の厚かましさに嫌気がさした。 (なんで抱いてもらえると思ったんだろ……俺が拒んだのに。俺のせいで、気が削がれてしまったのに)  そもそも、普段通りの自分にはもう飽きられているのだから、糸川が求めてくれる道理もないのだ。  自分の底の浅さは弁えていたつもりだけれど、それにしてもまさかこれほど早く飽きられてしまうとは。  いや、まさかなどと思うこと自体が思い上がりだったのかもしれない。三島など、ほとんど初対面から糸井をつまらないと評していた。最初から見抜かれていたではないか。  糸川の優しさを真に受けて、自分にも何かの価値があるんじゃないかと、勘違いしてしまっていた。  そのあたり、正しく認識し直さねばならない。  ――毎年来ようよ。こうやって二人で浴衣着て。  糸川の言葉を思い返して、糸井は目を伏せた。 (……大丈夫。ちゃんとわかってる)  二人で浴衣を着て一緒に見る『来年の花火』は、どこにも存在しないということ。 <END>

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