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茜雲 -side S- 01
糸川がつき合ったのは、糸井を除いてこれまで三人。その三人ともが、異口同音に糸川を『重い』と評して去っていった。
一人目は、高校の終わりからつき合い始め、大学進学と同時に遠距離恋愛になった。
タチだったその相手と、糸川は長く続いていきたいと思っていたのだが、何度目かに相手の下宿を訪れたときに、相手にとっては自分が唯一ではなかったことを知った。
知らないところで自分ではない誰かを抱いていた相手を糸川は責め、口論の末に相手は糸川を切り捨てた。
『学生のうちに遊ばないでいつ遊ぶんだよ』
そう言われ、要するに彼にとって自分は遊びだったのだと理解した。であれば、初めてを捧げた相手に対して真剣だった糸川の姿勢が重いというのも納得できる。
縋ることに意味はないと察して、それきり糸川はその男とは会っていない。
二人目は、大学のゼミで一緒になった学友だった。
ゼミの飲み会でいつも席が隣になり、偶然だろうと思いつつ親しくなったら、ある日口説かれた。大事にすると言われ、今度こそ幸せになれるかもしれないと期待してしまった。
けれど結局、糸川とは感覚がすれ違った。
一度目に懲りて猜疑心が強くなった糸川は、つい過剰に愛情確認をしてしまう。今となればこのときの試し行動には反省しかないのだが、当時の糸川は自分なりに必死で、鬱陶しく相手の私生活の詮索を繰り返した。
もう無理だ、と言われたときには遅かった。相手はとても疲弊していた。いい奴だっただけに、たぶん別れを切り出すのも随分葛藤したのだろう。謝るべきはこちらだっただろうに、ごめんと、泣かれた。
手を離してやらなければと、糸川は思った。
その彼とはただの友人に戻り、今でもゼミの同窓会では顔を会わせる。社会人になって長くつき合っている恋人がいるようで、幸せそうだ。
三人目は、社会人になって間もなく出会った相手で、一回り近く年上のネコだった。タチとしての手ほどきを受け、大人のおつき合いをいろいろと教えてくれた人だ。
若い糸川には、軽やかに生きている人に見えた。飄々と、何にも執着しないように。だから、糸川からも簡単に離れていってしまうように感じていた。繋ぎ留めることに、糸川は心血を注いだ。
『宗吾はさ、一生懸命なところがかわいくて好きだよ』
でもね、と彼は続けた。
自分の気持ちにばかり一生懸命じゃ、相手の気持ちが置いてきぼりになっちゃうよ。
二年ほどのつき合いの末、彼は他に好きな人ができたと言って離れていった。同年代の恋人ができたのだと、のちに風の噂で聞いた。
糸川が愛した人たちは、相手が糸川ではダメな人ばかりだった。糸川が共に幸せになりたいと願っても、糸川では満たすことのできない人たちだった。
どうしていたら、あの恋を終わらせずに済んだのだろう。ああしておけば、こう言わなければ、と後悔するのはいつも終わった後だ。
重いと、皆が言った。
糸川には、適正量の愛情がわからない。
もう既に糸井に対して重たい言動をいくつもしてきたような気がする。糸井にも、重いと思われてしまうんだろうか。
彼も、いつか疲れた顔で去っていくんだろうか。
糸井の重荷になることが、心底怖い。
盆休みに入り、翌日には実家に顔を出しに行く予定にしていたその夜、糸川は行きつけのカウンターバーにいた。
「よう」
先に来ていた三島が店の奥で軽く手を上げるのに、不機嫌に眉を寄せて糸川は歩み寄る。
「この店でおまえとは飲みたくないよ」
三島の一時帰国を、糸川は糸井には教えていない。今日から糸井は新幹線の距離の実家へ帰省していて、万が一にも出くわすことのないタイミングを見計らっての今日この場だ。
「なんでー。ここで運命的に出会えたから、俺らお仲間だって知ることができたんじゃん?」
「俺はお仲間とか思ってない」
「よく言う。俺とここで会ってなきゃ、糸井とつき合えてなかったのにさ」
「……」
「ハイ都合が悪くなるとすぐ黙るー」
茶化す三島をぎろりと睨んで、糸川はジンライムを注文して三島の横に腰かけた。いかにも渋々といった糸川の表情を横目で見て、三島はビアグラスを揺らす。
「俺のことが大嫌いな糸川くんが、それでもここまで足を運んでくれたってことはですよ。よっぽど俺の持ってる糸井情報がほしかったわけよね」
「……」
「んで、せっかく俺が重大キーワード教えてやったのに、その詳細を俺に訊いてくるってことは、糸井本人からは聞けてないわけだ。訊けない程度に、おまえらうまくいってないってことだ?」
「……なんか面白いかよ」
低く噛みつく糸川に、三島は喉奥で笑う。
「予想通りすぎて何も面白くねえな」
面白くないと言うわりににやつきながら、三島はカウンターに肘枕をついた。
「どうせお互い遠慮の塊みたいなことになってんだろ? 糸井は絶対に自分から踏み出したりしないし。そういうあいつとおまえの思慮深さは、すげえ相性悪いと俺は最初から踏んでたね」
紙コースターの上に置かれたジンライムのグラスを手に取り、糸川はそれを一口飲み下す。
悔しいが、三島の言う通りでぐうの音もでない。糸井と糸川の関係は、つき合い始めてからずっと膠着状態だ。
一定の距離を置いてそこにいる糸井と、その間合いに踏み込むことを躊躇している自分。その間の空気は、もはや居心地のいいものではなくなってきている。
何も主張せずに飲み込むばかりの糸井の希望を汲みたくて、先週は花火デートに連れ出した。二人で過ごした非日常な時間は存外楽しくて、糸川は糸井との関係が近しくなったように錯覚してしまった。
玄関先で理性をなくして、はっきりと拒絶されて。浴衣のはだけた艶姿を直視できずに寝室へ逃げて、そのあとシャワーを浴びている糸井に改めて謝罪しようと脱衣所のドアを開けたところで、浴室内で糸井が一人で泣いているのを知った。
なんというか、ひたすらショックだった。
つき合い始めてから、糸川は糸井の涙を見ていない。泣かせたりするつもりはなかったから、その気持ちの通りに大事にできているのだと思っていた。
もしそうじゃなかったら?
糸川の見えないところで、ずっと一人で泣いていたのだとしたら?
どうして? いつから? 言えないでいるということは、糸川のせいで?
そうなら、これまでのような踏み込み方をしてはいけないんじゃないのか。
すとんと、糸井との間に半透明の仕切りが降りたように感じた。糸川はもう糸井の側をはっきり見通すこともできない。
「……三島は、どういう経緯でその、糸井くんの記憶喪失を知ったんだ?」
本人にはもう問うこともできなくなったので、仕方なく糸川は切り出した。
三島からは電話で、糸井が小学校五年生のときに記憶喪失になった、というところまでを聞いている。自分もそれほど詳しく知っているわけではないと言った三島に、一時帰国するときに話を聞かせろと迫ったのは糸川の方だ。
「経緯……っても、偶然みたいなもんだぞ。あいつが酔って記憶飛ばした夜のことだから、俺に話したこと自体覚えてないかもしれねえし。俺と糸井の馴れ初めみたいな話になるけど、おまえ聞きたいか?」
うろんげに訊かれ、糸川はうっと詰まった。馴れ初めなどと言われると聞く気は一気に地を這うほどに萎える。
けれど今ここで聞かなければ一生糸井の過去に触れることはできなくなりそうな気がして、歯噛みする思いで糸川は顎を引いた。
「……聞く」
露骨に嫌な顔をする糸川に、三島は苦笑してグラスに口をつけた。
「んーと。大学時代、糸井は一個下のサークルの後輩で、酒がダメなやつでな。飲み会のときは乾杯の酒にも口つけないで、ずっとソフトドリンク飲んでたんだ。酔っ払い相手に当たり障りのない会話して、上っ面だけ周りに合わせて。俺は糸井の撮る写真は好きだったけど、正直糸井自身のことは全く興味がなかった。好かれてたのも気づいてたけど、相手にする気もなかったんだ。つまんなすぎて関心ゼロ」
「……おまえ、言い方」
「だってほんとのことだ。けど、その他大勢と同じ扱いで接してたら、なぜかあいつの方は妙になついてきて。それも気にしないで過ごして、何もないまま俺の卒業ってなって。そしたらサークルの追い出しコンパで、いつも飲まないやつがしくしく泣きながら隅っこで飲んだくれてんだよ」
つっても大した量じゃなかったけどな、と三島は頬を掻く。
「俺も優しいからさ、最後くらいこいつと語らってやろうかと、座敷の隅で二人で飲んでたわけ。でもやっぱりつまんねえから、なんか面白い話しろよっつったら」
空いたビアグラスを、三島は音も立てずにカウンターへ置いた。
「『俺は、生まれてから十一年間の記憶がないんです』って」
糸川も、黙ってグラスを置いた。
「原因はわかんねえらしいけど、十一の夏に突然だってよ。詳しいことは聞かなかったけど、小学校卒業までの期間は不登校になったらしいから、まあ、あんま良くないことが色々あったんだろ。いじめとか……わかんねえけど。ガキんときって、なんか一つ人と違うとこがあるってだけでもけっこうなハンデだったりするだろ。集団生活」
「……うん」
「その頃のことがトラウマになってんだろうな。誰とも深く関わろうとしなかったとことか。それでも、あーこいつは俺のこと好きになったんだな、俺には深入りしてもいいと思えたんだな、とかなんか柄にもないこと考えちゃってさ」
――俺は、三島さんの言う通りつまらない人間です。人生半分、持ってないんです。
三島の耳に、糸井の寂しい声が返る。
だから糸井は、自分が他人から好かれるなんて思っていない。せめて疎まれまいと、適切な距離を保ってきた。
それでも、どうしても三島を好きになってしまった。
その気持ちを、糸井は、三島に伝えようとも思っていない。こうして飲めない酒を呷って、自分の中にひっそりと仕舞おうとしている。
「……なんか、可哀想になったんだよ」
糸井との始まりは同情心だったと、三島は明かした。
神妙な面持ちで回顧するその表情に、一瞬三島を実はいい奴なのかと見直しそうになる。が、糸川は三島を大嫌いな理由を決して見失わない。
「そのわりにその後七年も、糸井くんを可哀想な目に遭わせ続けたのは当のおまえだけどな」
低く釘を刺すと、三島は斜め上に視線を逃がした。
「あはっ。それについては若干反省するところもあるというか、いや、あいつがあらゆる意味で都合が良すぎたんだよー」
先程までの表情はどこへやら、すっかり三島はいつもの人でなしの顔だ。
「おまえそれ、何かの言い訳でもしてるつもりか?」
「怖い怖い! だから俺も、反省込めておまえに糸井を紹介したんじゃん。おまえが糸井を幸せにしてやるんだろ?」
「!」
痛いところを突かれて、言葉に詰まったところで肩を叩かれた。
「あいつとの関係を恋愛にしたっていいことないって、俺は先に忠告したからな。間違いなく超面倒くさいけど、まあ頑張れよ」
へらっと笑う三島の顔はやはり憎たらしく、糸川はカウンターの下で軽く拳を握った。
何度でも思うが、糸井は一体こいつの何が良かったんだろう。
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