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茜雲 -side S- 02

 翌日、実家への顔出しに向かいながら、糸川はもし糸井が三島に抱かれていなかったら、を想像した。  酒の勢いと三島の無神経さが揃わなければ、もしかしたらずっと、糸井は自分と恋愛は縁遠いものだと考えて、誰とも触れ合うことをしようとしなかったかもしれない。踏み出すことなく諦めて、寂しさを普通のこととして孤独に生きていたかもしれない。  そうならなかったことは、経緯はどうあれ、彼にとってはよかったんじゃないかと思う。そもそも三島とセフレ関係を続けていなければ、糸川と出会うこともなかった。  同じ想いは返されなくとも、好きな人と肌を合わせることを知って。糸川と出会ってからは、愛されることも知ったはず。  糸井は、幸せになれるのではなかったのだろうか。  なのにどうして、糸井はあんなにつらそうなんだろう。  糸井の瞳から寂しさが消えるどころか、その色が深まっていくんだろう。  糸井のこと、殊に彼との距離感のことを考えると、糸川は焦燥感に襲われる。  ――やっぱり自分では、糸井を幸せにできないのではないか。  その思いが頭を占めて、糸川はシャツの胸元を強く握った。  糸井は泣いていた。風呂場で、一人で、声を殺して。理由を糸川に明かすこともできないで、なのに糸川の前では笑って。  過去のことも、糸川には話そうとするそぶりもない。敢えて幼少期の話を振っても、それらしい思い出話を聞かせて終わってしまう。  どうやら糸井にとっての自分は、何かを分かち合えるような相手ではないらしい。  それならば、どうするべきなんだろう。  糸井を幸せにすることのできない自分が、このまま彼の隣に居座り続けることは、果たして正しいことなのだろうか。 (……幸せなのは、僕だけだ)  隠れて泣く糸井を思うと、心臓がきゅうっと萎むようだった。  郊外の大きな日本家屋の門をくぐり、インターホンを押すと、名乗る前に、家の奥からドタドタと騒々しい足音が近づいてきた。 「そーちゃん!?」  大声で叫びながら中から引戸を開けたのは、姉の子どもで長女の紗奈(さな)・小学二年生と、長男の勇士(ゆうし)・年中だ。 「そーちゃんだ! お母さーん、そーちゃん来たぁ!」 「そーちゃん遊ぼ! 今!!」 「元気だなー紗奈も勇士も。ほら、お土産。おばあちゃんとこ持ってって冷やしてもらっておいで」 「やったぁ! おばーちゃん、そーちゃんお土産くれた! そーちゃんコレ何?」 「ちょっといいプリンだよ」 「ちょっといいプリン!? おばーちゃん、ちょっといいプリン冷やしてー!!」  渡したプリンの箱を紗奈が抱えて、奥へ走っていくのをはしゃぎながら勇士が追う。嵐のように去っていった姪と甥を見送って、静かになった玄関で靴を脱いでいたら、階段からひょいと、姉の祥子(さちこ)が顔を出した。 「お帰り。ったく、あの子たちお礼も言わないで。ありがとねお土産。プリンとか最高に勇士が喜ぶよ」 「あ、チョイス大丈夫だった? 勇士の卵アレルギー、良くなったって聞いたから」 「そうそう、今までも完全に卵断ちしてたわけじゃないんだけどね。お医者さんも様子見しながら普通食にしていきましょうって。そしたらとたんに卵料理が大好物よ。毎朝固ゆで玉子、一個丸々食べるのよ。もう極端なんだから」  ふふ、と祥子は少し眉を下げて笑う。この姉と顔がよく似ていると、糸川は頻繁に言われて育った。  糸川よりも七つ年嵩の祥子は、そういえば糸川の歳にはとっくに母親になっていたのだな、と姪の歳を数えてふと思う。  若いときは少しきつい印象の、凛とした美人だった姉。今は角がとれてふんわりとした、優しい美人なお母さん、といった雰囲気だ。 「……なんか、いいね。家族がいるって」  迂闊にこぼれた弱い声に、祥子は整った片眉を上げる。 「何よ。あんたはいないの、一生添い遂げたいと思うような相手」  ここで『結婚したい相手』と言わないところが祥子らしく、同時に恐ろしいところで、糸川は曖昧に笑った。 「僕としては、是非そうしたいと思ってるんだけど」 「……相手の方は遊びってこと?」 「いや、遊びなんてことはないと思うけど。そもそもそんなふうに思ってるなんて、言ったら重たすぎるよね」 「重たい、か……」  荷物を持って自室へ向かって階段を上がる糸川の後ろを、腕組みをした祥子がついてくる。 「いつだったかあんた、またフラれた! って荒れてたときあったよね。また重いって言われた! って」 「え!? そ、そんなことあった?」 「何年か前のお正月よ。親戚連中に所帯持てって囲まれて飲まされたとき。覚えてない?」 「正月は……一年おきくらいで記憶ない夜がある」 「あんた酔っても顔に出ないから、毎回周りも飲ませすぎちゃうのよね。あの年は傑作だったわ。しらっと飲んでたあんたがいきなり親戚連中に切れだして、『続かないもんは仕方ないだろ、傷に塩塗りたくるな!』って喚くもんだから、結婚急かしてた連中が慌ててあんたのこと慰めだしてさぁ。あれ以来、うるさく言われなくなったんじゃない?」 「急に静かになったと思ったのはそれが原因だったの……」 「普段おとなしい子を切れさすとヤバいって学習したんじゃない」  あっはは、と祥子は人の悪い笑い声を上げた。  二階の自室は高校卒業以来、年に数回しか使うことがないが、物置にされるでもなく当時のままきれいに保たれている。  そこに一泊分の荷物を置いて、糸川はベッドに腰を下ろした。 「重いって言われるの、けっこうトラウマなんだよね」  正直なところを、糸川は姉に吐露した。 「子泣き爺になってやろうなんて、思ってわざとやってるわけじゃないんだ。でもそう思われる。笑えるよ、三度が三度、同じ理由でフラれてるんだ。これはもう僕の人間性の問題なんだろうなって」  情けない弱音が漏れるのに、糸川は自嘲する。 「……今度こそはそう思われないようにしなきゃと思ってるんだけど。どう努力すればいいのか、よくわからない」 「……」  黙って聞いた祥子は、糸川の隣に座った。 「……勇士の保育園の友達にね、勇士と同じ卵アレルギーの子がいるの」  そしてこの場にそぐわない話を始める。 「勇士やその子の給食は他の子たちとは別メニューで、お盆の色も変えてあって、取り違えが起きないようにおかずの取り替えっことかも禁止されてて。苦手なおかずが出ても、頑張るしかなかったんだって」 「へぇ……」  話がどこへ向かうかがわからず、糸川はとりあえずの相槌を打った。 「でもその子と同じ班で給食食べるときは、二人で苦手なものを取り替えたりしてるんだって。サラダのキャベツを食べてあげる代わりに、トマトを食べてもらったりね。栄養バランスのこともあるから、少しは自分で頑張ろうねって先生も指導してくれてるみたいだけど、勇士はさ、その子となら分かち合えるってことが嬉しいみたいなの」  祥子はふっと目を細める。 「それ聞いてね。本人の努力じゃどうにもならない、大多数の人とは相容れない部分も、そのままでぴったり合う相手がどこかにはいるんだなって思ったの。パズルのピースみたいに、他とはどうやったって凹凸の形が合わないのに、特定のピース同士は何も考えなくてもすんなり嵌まるみたいな。それを『相性』とか呼ぶのかもしれないなって」  ぽん、と祥子の手が糸川の肩に載せられる。 「三十年も生きて変えられなかったものは、これからだって簡単に変わりゃしないわ。あんたが無理しなくても、そのまんまのあんたを重いと思わない人もきっといるよ。今の相手が、そういう人だといいね」  祥子の笑みを見つめて、糸川は神妙に俯いた。 「破れ鍋に綴じ蓋、的なやつか……」  相性と、言ってしまえばそれまでなのかもしれないけれど。  以前の恋人たちのように、縁がなかったと糸井のことも諦めなければならないかと思うと、それはひどくつらいことだった。  けれど一方で、何かに耐えるように言葉を飲み込む糸井の姿を思い返すと、それにも胸は痛む。 「お互いに無理しないで、一緒にいられたらいいんだけど」  呟きに、視線が遠くなる。  それはどのくらい難しいことなのだろうか。

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