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茜雲 -side S- 03

 盆休みが終わり、休みボケで気だるい平日を経て、久しぶりに糸井と待ち合わせる土曜。  いつものように駅へ迎えに行くと、ちょうど改札を出てきた糸井は随分とすっきりした髪型をしていた。 「あ、い、糸川さん」  早速見つかったのが気まずい様子で、糸井は短くなった前髪を押さえながら歩み寄ってくる。 「髪切ったんだね」 「はい……だいぶ無精して伸びてたので」 「隠さなくていいじゃない、似合うよ。かわいい」 「かわ……。はあ、ありがとうございます」  俯きがちな顔を赤くして、糸井は糸川の横に並んだ。 「夕飯どうしようか」  毎度代わり映えはしないが、近場で食べていくか買って帰るかどうしよう、と思っていたら、糸井がいつもより大きな鞄をポンポンと叩いた。 「あの、実はお盆に帰省してたときに、生そばいっぱい持たされたんです。よかったら一緒に食べようと思って少し持ってきたんですけど、糸川さんそば大丈夫でした?」 「ほんと? そば好き」 「よかった。鍋と器くらいありましたよね」 「何でもよかったらあるよ。でもめんつゆとかないかも」 「大丈夫です、薬味も濃縮つゆも全部セットになってるやつなんで、茹でてしめるだけです」 「ざるとボウルと氷はあるよ」 「完璧です」  にこっと笑って親指を立ててみせるのが、本当にかわいい。髪を切ってまた少し印象が幼くなったので、余計に愛らしくて糸川の頬も緩んでしまう。  なんでこんなに、この子の一挙手一投足が愛しくてならないんだろう。この笑顔のためならある程度なんでもしてしまえるな、と思って、思考の危うさにブレーキを掛ける。  自覚はしているが、仕事人間でありながら、糸川はわりと恋愛体質だ。愛しさが暴走して、いつも重いと言われる結果に繋がってしまう。 (ちょっとほんとにセーブしないと……いくら糸井くんが辛抱強いとはいえ、また同じ轍を踏んでしまうよな……)  自重、と改めて胸に刻んで、糸川は到着した部屋の鍵を開けた。  玄関に入っていつも通りに糸井にキスをしようとして、肩に伸ばしかけたその手が迷う。  前回、ここで事に及ぼうとして、糸井に強く拒絶された。迫られた糸井は、困惑を超えて怯えていた。  たぶん、思い出させるようなことはしない方がいい。糸井はきっと、嫌でも我慢して受け入れてしまうから。 「糸井くんはお盆、地元でどうだった?」  迷った指先を脱いだ靴へ降ろし、糸井に背を向けて下駄箱へしまう。 「……え。あ」  そのまま廊下を歩いてリビングへ向かうと、少し遅れて糸井がついてきた。 「特にこれと言って何も。お墓参りに行ったのと、家族揃って食事をしたくらいで」 「そうなの。地元の友達と会ったりとかはしないの?」 「あぁ……」  言い淀んで、糸井はやや表情を曇らせて視線を俯ける。 「えぇと、俺、中学から県外の中高一貫校で、寮に入ってたんです。小学校までの友達で、連絡取り合うほど続いてる人っていなくて。そもそもあんまり友達多い方じゃないですし」 「へえ」  初耳の事実に驚きつつ、返った答えにしまったと思った。意図せず糸井の地雷付近に踏み込んでいたらしい。  三島からの話を聞いて、不登校のまま小学校卒業を迎えた後はどうしたのだろうかと思っていたが、そうか、糸井は一人で地元を離れたのか。  向かったその先が安寧の地であればと、願いながら糸川は糸井に笑いかけた。 「中高一貫で寮生活とか、すごい人間関係濃厚そうだね。その頃の友達とは?」  話題の目先を変えると、糸井の表情は幾分和らぐ。 「やっぱり同室のやつとは仲良くなりますね。でもお互い遠方から来てたし、お盆とかの帰省時期に会うことはないです。同窓会をやるときに顔を会わせるくらいですね。あとは大学とか就職で東京に出てきてるやつらとたまーに連絡取るくらいかなぁ」  何人かは糸井に親しい友人がいるらしいことがわかって、ひっそりと安堵する。どうやら中高以降の生活は糸井にとって苦ではなかったらしい。  他の男と連絡を取ることがあると聞くと、内心穏やかではなかったが、そこに口を出してはいよいよ過干渉なので糸川は口を噤んだ。 「糸川さんは……どうでしたか、お盆休み」  リビングで荷物を置いて、今度は糸井が顔色を窺うようにしてそろりと訊いてくる。普段から糸川に対して詮索を一切してこない糸井は、たったこれだけを尋ねるのにもひどく遠慮がちだ。  糸川は努めて柔和に応えた。 「僕は実家には一泊しただけだから、あとはだらっとたまってた仕事片付けたり、なんとなく部屋の掃除したりしてたよ。実家でも姪っ子と甥っ子の相手するのがメインで、集まった親戚と飲んだくらいかなー」 「姪っ子と甥っ子?」 「うん、前に話した姉の子。姪が小二で甥が年中。人のことシッターかおもちゃとしか思ってないような暴君たちだよ」 「なつかれてるんですね。ちょっと意外」 「僕も意外。子どもには好かれないたちだと思ってたのに」  辟易と首を竦めた糸川に、ふふっと糸井は小さく笑う。 「なんだかんだ言いながら、糸川さん、ちゃんと相手してあげるんでしょ。子どもは構ってくれる大人が好きだから」 「えー、だって暇なの見破られてたら断れないじゃない。今回も一緒に精霊馬作ろうって言われてつき合ったんだけど。知ってる? 精霊馬」 「あの……ナスとかキュウリで作るやつですか? 知ってはいるけど地元では見たことなかったですね」 「地域によるらしいね。うちは昔から作るんだけど、なんていうか、小二のお姉ちゃんはまあ上手に作るんだけど、年中の弟の作品がね。カオスを具現化するとこうなるかって感じでね」 「カオスの具現化?」 「割り箸で粉砕されたキュウリのかけらを、二本分くらい食べたよ僕……せめて塩がほしかったな……」 「あぁ……素キュウリ二本分はつらいですね……しかも体温高い手で握りしめて人肌に温められたやつ……」 「そう! そうなんだよ人肌温度のぬるいキュウリ! なんだ糸井くん、絶対きみも甥か姪がいるね?」 「甥が二人に、もうすぐ姪も生まれる、伯父歴六年の中堅です」 「そうだった、弟さん妻子持ちだったね! 分かち合えて嬉しいよ」  妙な親近感が芽生えて、二人は笑いながら握手を交わした。  ふと、そのてのひらの熱を、糸川は意識してしまった。そのまま強く引いて抱き締めてしまいたい衝動に駆られて、慎重に指をほどく。 「……お腹、減らない?」  離した手を軽く握りこんで、糸川はキッチンへ向かった。  離れ方が、不自然ではなかっただろうか。欲が溢れそうで、糸井の顔を直視していられなかった。思春期の中学生みたいな堪え性のなさを露呈してしまいそうで。  あれ? 今までどうやって糸井くんと接してたんだっけ?  しゃがんでキッチン下の収納からしまい込まれた鍋を出そうとして、突然迷子になって糸川は目を泳がせた。  どんなふうに触れれば、糸井は拒まずに受け入れてくれるのだったか。そもそも糸井は、糸川に触れられることをよしとしていたのだったか。 「そば、茹でましょうか。大きめのお鍋があれば、貸してもらえますか」  糸井はそばのセットを鞄から出して、キッチンへ持って来た。その顔に浮かぶ淡い笑みからは、彼の感情をうまく読み取ることができない。 「できたら声かけるので、座っててください」 「……そば茹でるくらいなら、僕でも手伝えると思うんだけど」 「手伝ってもらうほどのこともないですから」  笑って、糸井は糸川をキッチンから追い出した。  糸井の言う通り手伝うほどのこともなく、ほどなくでき上がったざるそばはとても美味しかった。口数は多くはないなりに会話を楽しみ、食事のあとは糸川が片付けを担当した。  じゃあそのあとは、と糸井に部屋着を渡し、バスルームへ消える背中を見送る。穏やかな時間を過ごして、きっとお盆前の妙な蟠りも解けたはずだと、糸川は思いたかった。  けれど、念のためにと音をたてずにドアを開けた脱衣所で、聞き耳を立てたその向こうから聞こえたのは、声を殺してすすり泣く糸井の嗚咽だった。  風呂上がりに、何事もなかったように僅かに潤んだ瞳で明るく笑う糸井を、糸川はもう、抱けなくなった。

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