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茜雲 -side S- 04

 週末に糸井が泊まりに来ても、同じベッドでただ一緒に眠るだけになって、一ヶ月が経った。九月も下旬となり、日中は汗ばむ陽気の日もあるが、朝晩は人肌恋しくなるほど涼しくなってきた。  キスもハグもしなくなった理由を、糸井は尋ねてはこない。以前にも増して感情を読ませない笑みを貼りつけて、むしろ以前より明るくなったようにさえ感じられる。  日に一度はメッセージを送り合い、他愛もない会話を交わす。週末に会えば、一週間の出来事をつぶさに話して聞かせてもくれる。信頼した姿を見せてくれるのが、とても嬉しかった。  けれど時折、ひどく緊張した表情で体をこわばらせる。玄関ドアを入った瞬間に。彼の方へ向けて腕を伸ばした瞬間に。  そして、風呂で隠れて泣いている。  どうしてと、訊くことはできたかもしれない。でもきっと糸井は本音では答えないし、風呂で泣いていることがばれたと知ったら今度は泣くのを我慢するだけだろう。吐き出せる場所を奪うことになるだけなら、得策ではないように思われた。  何か悩んでいることがあれば話してほしいと、親身に心配すればするほど、糸井は何もないと湿りのない声を聞かせる。どこか別のところに仕舞われているのだろう本心を、分厚く覆い隠してしまう。  何が糸井を傷つけるのかがわからないから、糸川は彼に触れられない。不用意な愛情表現が、彼に涙を落とさせる原因になっている可能性。糸川は糸井との始まり方に既に問題があったのだと考えていた。  三島から引き継いだセフレ関係だったから、糸井と会うこと、イコール、セックスをすることだった。体調不良などの例外はあったけれど、その等式は恋人関係になってからもほぼ変わらずにここまで来た。  それを、糸井は望んでいただろうか。  三島との繋がりはセックスを通してしか維持できなかったから、糸井は手段を選べなかった。その状況は、相手が糸川になっても変わらなかった。でも、そもそも糸井は会うたびにセックスしなければならない状況を好んでいただろうか。  性欲が取り立てて強いわけでもない。手練手管は三島との関係で身につけただけ。自分の意思でしたいと思ったことなど、これまであったのだろうか。  糸川はそこについて、糸井に確認してこなかった。睡眠前のルーティンのように糸井を抱いてきた。もちろん糸川には糸井への愛があったし、抱きたくて抱いた。糸井も、してもいいかと訊けば頷いてくれていた。  でもそれは当然だ。糸井の根底には、つき合っている以上は相手の要求に応えなければならないという義務感があるのだから。  糸井の望まないことを強いるような真似はしたくない。無理に合わせてくれているのなら、いつかそこには綻びを来す。  涙を隠す糸井が、本当に自分との関係の継続を望んでいるのか、糸川にはよくわからなくなっていた。  その日、いつものように駅で待ち合わせた糸井の表情は冴えなかった。気象病を疑うも、日中の天気は夏日の快晴。きれいな夕焼けの中、大丈夫かと問えば予想通り、笑いながら大丈夫だと返された。 「空がきれいだったんで、ちょっとぼーっとしただけです」  そう言って糸井が憂い顔を仕舞ってしまったので、それ以上は追及できず、糸川は仕方なく糸井の言い訳に乗る。 「ちょっと前に、僕の残業中に西の空がきれいだって教えてくれたことがあったよね」  そのときも見事な夕焼けだったと、茜色に染まったすじ雲を見上げた。あのときより少し日の入りが早くなって、着実に季節が移ろっているのを感じる。 「あ……はい。すみません、なんだか差し出がましいことを」  斜め後ろを歩きながら伏し目がちに詫びた糸井を、驚いて糸川は振り返った。 「どうして謝るの。僕は気づいてなかったから、教えてくれてありがとうって話だよ」 「や、でも仕事の手を止めてしまったかなと」 「休憩するいいきっかけになったんだって」 「……それなら、はい」  何か言葉を飲み込んで、糸井は目元を隠すように前髪に触れて俯く。  焦りのようなものが、糸川の胸に爪を立てた。  なぜだか糸井と気持ちが噛み合わない。意識しないようにしていたが、盆休みからこっち、ずっとそうだったような気もする。  笑顔にも、同意する声にも、常に何かの無理が覗いていて。その正体を見通そうにも、糸井との間に降りた仕切りはじっとそこに鎮座している。糸井の気持ちを推して意に沿うように動いたつもりでも、苦い笑みで申し訳なさそうに、すみませんと謝られてしまう。  どうしてだろう。どうしたらいいのだろう。誘えば会いに来てくれるのに、隣にいる糸井は、ちっとも幸せそうではないのだ。 「あのさ……糸井くん」  ちゃんと向き合って話をする時間を取らなければいけないんじゃないか。  そう思って切り出した糸川を、糸井は直視しない。硬い表情で俯いて、対話を拒むようにくちびるを結ぶ。  その喉の奥に凝った言葉を聞きたいと思うのは、彼にとってはただ迷惑なだけの、身勝手な欲求なのだろうか。それを求めたら、彼の負担になるのだろうか。 「……いや。行こうか」  逡巡して、糸川も問いを飲み込んだ。  もし糸井が本音を明かしてくれたとして、一緒にいるのがつらいと言われたら糸川はそれを受け取る自信がない。 (……ダサ……)  内心でため息をつく。こんな恐懦は糸井には悟られたくなかった。

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