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茜雲 -side S- 05

 行きつけになった定食屋で夕食をとり、二人で糸川の部屋へ行く。ドアを閉めてすぐのキスの習慣は、あの花火の日以来、すっかり消えていた。  とりとめもない、当たり障りのない会話。それも途切れてしまうと、間持たせにつけた録画の映画に二人で見入った。  一本目を見終わったところで糸井が風呂に行ったけれど、糸川は脱衣所へは確認に行かなかった。もしかしたら今日も泣いているのかもしれない。そうだったとして、糸川にできることはない。  風呂から戻ってきた糸井は、二本目の映画を途中から眺めていた。途中からでストーリーはわかるのだろうか、と思ったけれど、視線も外さずに画面を見続けていた。なぜ録画したのかも覚えていない、退屈な恋愛映画で、糸川は途中で風呂に立った。 「先に寝てていいから」  言い置いた糸川に糸井は頷いて、糸川が風呂から上がると無人のリビングはテレビが消されていた。まだ映画が終わる時間ではないはずだから、糸井もさして興味があって見ていたわけではなかったのだろう。  リビングの明かりを消して寝室をそっと覗くと、間接照明だけの薄暗い部屋で糸井がベッドに横たわっていた。  体調があまり良さそうではなかったから、もう眠ったのだろうか。起こさないよう慎重にその隣へ潜り込むと、遠慮がちに糸井の手が糸川の手に触れた。 「……あ、ごめん、起こした?」 「いえ、起きてました」 「寝ててくれてよかったのに」  薄明かりの中で見上げてくる糸井の頬に、糸川は指の背で触れる。 「体調、ほんとはあんまり良くなかったんでしょ。無理に来てくれなくてもいいんだよ」  気遣った糸川の言葉に、糸井がきゅっと眉を寄せた。 「……来ない方が、よかったですか」  思いがけない物言いに、糸川は怒るよりも驚いて、その驚きはやるせなさへ変わる。 「なんでそうなるの」 「だって……」 「来てくれて嬉しいに決まってるじゃない。きみの体調が心配なだけだよ」 「大丈夫だって俺言いました。体調、悪くなんかないですから」  縋るような視線が糸川の視線を捉え、随分久しぶりにまともに目が合ったような気がして、糸川はその必死な目の色を覗いた。 「……してくれませんか」  請うた声は不自然に張って、糸井の手が強く糸川の手を取る。その熱と、思い詰めた瞳の揺らぎに、糸川は当惑した。  欲情などかけらも湛えてはいないのに、糸川の手を肌へ呼ぶ性急さは焦燥に駆り立てられているようで。  本当に、糸井は糸川を求めているか?  糸井を好きな糸川の気持ちを汲んで、それにつき合わなければならないと思わせてしまってはいないか?  疑心暗鬼のまま片手で頬を抱き、乾いたくちびるにくちびるで触れる。軽い接触だけのキスを解くと、間近で開いた糸井の瞳が不安げに泳いでいた。  そのとき、糸井の喉が、ひゅ、と妙な音をたてた。 「……は、……はぁ、は、」  見れば糸井の手は小刻みに震えている。 「……糸井くん?」  突然呼吸を乱した糸井が、自分の部屋着の首元を強く掴んだ。口を大きく開け、顎を引いて苦しげに喘ぎ始める。 「はぁっ、はっ、あ、あ」 「糸井くん!」  過呼吸だ、と糸川は咄嗟に思った。高校の時にクラスに過呼吸を起こしやすい女子がいて、級友全員が対処法を教えられ、糸川も一度発作の現場に居合わせたことがある。  パニックになったのか、闇雲に何かに縋りつこうとした糸井の手が糸川の肩口を掴んだ。その手を、糸川は強く握る。 「大丈夫だよ、落ち着いて。吸おうとするより、息をゆっくり吐こうとしてみて。ゆっくり、ふー、って」  声は一応聞こえているようで、糸川の声に合わせて、糸井は懸命に息を吐こうとする。初めはうまくいかなかった深い呼気が、徐々に長い吐息になって呼吸が整っていく。  しばらくすると、糸井の呼吸は正常に戻った。苦悶に歪んだ表情も、ほっと緩んで落ち着きを取り戻す。 「……すみません、急に」 「大丈夫? 過呼吸は初めてだった?」 「はい……びっくりしました、息が吸えなくなったと思って」 「逆に吸いすぎちゃうんだってね、過呼吸って」  落ち着いてよかった、と糸川は糸井の頬を撫でる。初めてだったらきっと怖い思いをしたことだろう。今夜はゆっくり休んでほしいと、糸井の背をさする。  その糸川を、糸井は心細げに見つめた。 「……じゃあ、続き……?」  そう請われ、糸川は驚きのあまりに絶句し、同時に、激しい失望感に襲われた。  強い不安やストレスを感じて、糸井は過呼吸を起こしたのだろう。間違いなく原因は自分だ。その発作が落ち着いたばかりなのに、こんなときにさえまだ糸井は糸川のために無理をしようとする。  そんなに自分の存在が、無意識のうちに糸井に無理を強いているのだろうか。望まないことを、しなければならないと思わせているのだろうか。  それなら、もうだめだ。  もう、傍にいてはだめだ。 「……できないよ」  首を振って伝えた糸川を、糸井は透き通った瞳でしばらく見つめ、その目を伏せた。 「……帰ります」  床に向けて呟く糸井に、何も言えることが見つからなくて。 「駅まで送るよ」  まだ終電に間に合う時間なのを確認して、そう申し出るのが精一杯だった。  糸井が服を着替え、帰り支度を終えるまでの短い時間で、糸川はいろんなことを考えていた。  初めて写真の糸井を見たときのこと。三島に紹介してほしいとことあるごとに頼んだ期間。初めて会えた日のこと。初めて抱き合ったときのこと。気持ちは通わないまま、体だけ繋いで過ごした時間。  思い返すと、それすらどれも今より幸せだった気がして、何のために糸井とつき合ったのかが分からなくなった。  このまま一緒にいても、糸井は糸川のために無理を重ねていくんだろう。つらい思いをして、そのつらさを明かすこともできないで、一人で泣いて。そうしていくうちに、糸川を好きだと言った、その気持ちも薄れていくんだろう。  やっぱりだめだった、という結果しか残らない。自分では、誰のことも幸せにできない。  その現実を思い知っただけだった。  帰り支度を済ませた糸井と、玄関を出る。ドアの鍵を閉めたところで、糸川は糸井と向き合った。 「あのさ……」  語りかけても、視線は合わない。彼の伏せられた睫毛を見つめ、浅く、息を吸う。 「もう、会うのやめようか」  その提案は全く糸川の本意ではなくて、口に出すその瞬間まで、喉から出ていきたがらなかったけれど。  それでも、言わなければと、糸川は握った拳に自身の爪を食い込ませた。  これ以上糸井につらい思いをさせたくない。せめて糸井を疲弊させ切る前に、自分から離れてやらなければ。 「……った」  そのとき、小さな声で糸井が何事か呟いた。 「え?」  聞き取れなくて聞き返すと、糸井は「いえ」と取り繕うように首を振り、そして、どこかほっとしたように笑った。 「わかりました」  清々しささえ感じるほどあっさりと受け入れられて、糸川も思わず笑ってしまった。今まで、こんなふうに終わったことはなかったので。 「……あ、じゃあこれ、お返ししないと」  思い出したように、糸井が鞄を開け、中を探る。取り出したのは、渡したときのままに小さな袋に入った、糸川の部屋の合鍵だった。 「結局一度も使わなかったね」 「そうですね、いつも糸川さんが駅まで迎えに来てくれてたから」  差し出したてのひらに、合鍵が載せられる。別れ話をしたところだというのに、糸井の表情はとても穏やかだった。  ――悲しくはないの?  ――それとも清々してる?  どちらも訊けずに、糸川は合鍵を握った手をポケットに入れた。 (……泣こう。あとで部屋に帰ってきたら、とりあえず泣こう)  そう決めて、糸川は「行こうか」と声をかけて糸井に背を向ける。エレベーターホールへ向けて、ゆっくり歩く。  けれど、いつもは少し後ろをついてくるはずの糸井の足音が続かない。  どうしたのかと、振り返った先の糸井は、糸川の部屋の前に立ち尽くしたまま一歩も動いていなかった。 「糸井くん?」  呼んでも、俯いた糸井は反応がない。少し急がないと、終電を逃してしまう。 「どうしたの」  糸川が糸井の傍まで戻ると、不意に、糸井の手が糸川の服の裾を掴んだ。 「どうしても……」  小さな声で糸井が呟くのに、俯いたその顔を下から覗き込んで、糸川は驚いた。  表情をなくして見開いたその目は床の一点を見つめ、その表面にいっぱいの涙をためていた。 「どうしても、もうだめですか。……もう会ってもらえませんか」  落とすまいと糸井はギリギリまで瞼を開いているけれど、表面張力の限界を越えた大粒の水滴が、ぽたりと糸井の爪先に落ちる。 「セフレでもいいです。俺から連絡なんかしません。呼んでもらえたときにだけ、俺が出向くから。帰れって言われたらすぐ帰るし、煩わせないように、絶対、絶対するから」  震えた声が言い募って、一度落ちた涙は堰を切ったように続けざまに落ちて廊下のタイルにいくつも染みを作っていく。 「え……?」  状況が飲み込めず、思わず呆然と漏らした糸川の声に、糸井がはっと顔を上げた。 「……すみません、こんなこと、言うこと自体が迷惑ですよね」  涙を腕で拭った糸井は、瞬時にいつもの淡い笑みを(おもて)に貼りつけて、糸川の横を通り抜けようとする。 「すみません、帰ります。送り、いらないです」  その腕を、糸川は咄嗟に掴んで引き留めた。 「待って……糸井くん、待って」  ここに至って、糸川はようやく、自分の読み違いに気づいた。  自分といても幸せそうに見えない糸井のことを、無理をして一緒にいてくれているのだと思っていた。無理をし尽くしたその果てには、過去の恋人たちのように自分から去っていくのだろうと。  でも、ならばと自ら離れた糸川を、糸井は追ってきた。明らかに糸川への強い情を残している。一緒にいたいと望んでくれている。  それなのに一向に糸川の方へ踏み込んでこようとしなかったのは、ただただ、疎まれることにずっと怯え続けていたのではないか。  三島に捨てられて、それでも恨み言ひとつ言わない糸井は、どこかで自分は捨てられて当然だと思っている。需要も価値もない人間だと思っている。その思考には、おそらく少年期の不幸な事故が深く関わっている。  そうではないと、糸川は糸井に教えたかった。好きだと、何も不足はないと、きみの傍にいられて幸せだと、何度も言葉にして伝えてきた。  いつもそんな愛の言葉は照れ隠しに受け流されてきたけれど、そのうちの何割かでも、届いていればいいなと願っていた。  その祈りの横で、糸井は、三島と同じように糸川が彼を捨てるときを、怯えながら待っていた。疎まれまいと、距離を測って。  何一つ伝わっていなかったのだ、尽くしたつもりだった糸川の言葉は。 「糸川さん……?」  不安げに濡れた瞳が見つめてくるのに、糸川はポケットから鍵を取り出して解錠すると、糸井の腕を強く引いて、そのドアの中へ引き入れた。  もっと、糸井の声を聞き出すべきだった。伝えるだけの自己満足で終わっていてはいけなかった。過去の失敗に囚われて、糸井の作る距離を是認していたのは情けない己の恐懦だ。踏み越えなければならなかったのだ。 「ごめん」  ドアが閉まりきる前に、糸川は糸井を強く抱き締めた。糸井はされるまま棒立ちになっている。  どんなに傷つけただろう、思いやったつもりの的外れな別れの言葉は。 「ごめんね、糸井くん。好きだ。好きだよ」  背と髪を抱いて、わかってほしくて何度も伝える。けれど糸井は、糸川の胸を押しやるようにして離れようとする。 「……すみません、俺が変なこと言ったから。気を遣わせるつもりはなかったんです」  そう言ってまた目に涙を溢れさせる糸井を、糸川は離さなかった。 「気を遣わせるって何? 僕がきみに気を遣って、好きだって嘘ついてるって言ってる?」 「だって……本当はもう俺と会いたくないんでしょう? 会うのやめようって」 「だからそれは、糸井くんが無理して僕に会いに来てくれてるならって話で。それが思い違いなら、僕は絶対きみと別れたくなんかないよ!」  伝わらないもどかしさについ語気が荒くなり、糸川は息をついて糸井の両手を握った。 「どうしたら信じてもらえるのかがわからないけど……でもさ、話すしかないよね。話がしたいよ」  糸井の手を握ったまま、糸川は靴を脱ぎ、糸井を中へ促す。 「上がって」  手を引かれた糸井は迷いながら、さっき降りたその段差を上がった。

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