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茜雲 -side S- 06
リビングに戻り、ソファで隣り合って座った糸井は、俯いて懸命に涙を止めようとしていた。糸川が背中をさすって宥めると、恐縮して頭を下げる。
「すみません、こんな……鬱陶しく泣いたりして」
「……鬱陶しくなんかないよ」
「でも、前に泣くなって言われてるのに」
「え? ……そりゃ泣かないでほしいけど、それは糸井くんが悲しむようなことがなければいいなってことであって……」
言いかけて、糸川の中でひとつ繋がる。
「……そういうことか。だからきみ、僕の前で泣けなくなったんだね」
以前、泣いている糸井を慰めるために、泣かないでと言ったことは確かにある。それを『言い付け』のように、律儀に守ってきたのか。
「糸井くんの悲しいのが、なくなればいいなって思ったんだ。それで泣かなくてもよくなれば、僕も嬉しい。でも、僕の前で悲しいの我慢して笑わなくていい」
気づかれていたことを知りたくはないだろうな、と思いつつ、糸川は糸井の顔を覗く。
「……お風呂で一人で、隠れて泣かなくてもいいんだよ」
「! ……なんで」
案の定糸井はひどく狼狽して、驚きに目を見開いた。
「たまたま。花火の日にね。すごく……嫌な思いをさせてしまったよね。反省したつもりだったけど、その日からずっと泣いてるみたいだったから……もう僕のこと、嫌になったんだと思ってた」
泣いていたことがばれていて、その上糸川に気を遣わせていたと知って、糸井は強くかぶりを振る。
「嫌な思いなんて、全然してないです俺は。……でも、あのときは何の準備もしてなくて、……俺、汚かったから。糸川さんに、不快な思いをさせるんじゃないかって思って……」
「汚いなんて言わないでよ。いつも自分で準備してくれてるけど、そういうのも僕がしたいって、言ったことなかった?」
「そうは言ってくれたけど……抱いてもらうのに、そんなことさせられないし」
「糸井くん、その考え方がもうおかしいよ。抱いてもらうって何なの。どうしてきみは僕ときみとの立場に優劣をつけようとするの?」
糸井との間を隔てるものが、糸井の過剰な卑屈さに起因している気がして、不必要なそれを糸川は取り除きたかった。
「……十一年分、きみの記憶が足りなくたって、それできみが自分を卑下する必要はどこにもないよ」
「――!!」
本当は、糸井が自分から話してくれる気になるまで、糸川はそれを知っていることを明かすつもりはなかった。
けれどそのことで糸井が自身と糸川とを隔て続けるなら、きっといくら待っていても糸井が自ら語るときは来ない。来ないまま、糸井は糸川との関係をいつか諦めてしまう。
そんなことは少しも望んでいないから、糸川は敢えて糸井の傷に触れることにした。
「……ごめんね。三島から勝手に聞き出した」
「え……? 三島さん? が、知ってた?」
「あぁ、やっぱり三島に話したことも覚えてないんだね……三島と最初に関係した日に、酔って話したんだそうだよ」
触れられた傷は、きっと痛むだろう。でも触れなければ、手当てもできないから。
糸川は、自分の手で糸井を癒したいと思っているから。
「知ってて、言うんだよ。糸井くんが嫌じゃないなら、僕は絶対別れたくない。糸井くんが好きだ。この先もずっと一緒にいたい」
強く訴えると、糸井は困惑して眉を寄せ、項垂れて黙り込んでしまった。
しばらくその背をゆっくりとさすりながら糸井の言葉を待っていると、ぽつりと、糸井が声を落とす。
「……何も覚えてないから、余計に、怖いと思うことがあって」
小さな声は掠れて震え、糸川は聞き逃さないように耳を寄せた。
「……うん」
「俺はあの日、公園の中の人目につきづらい茂みの中で倒れてた。普通、子ども一人であんなところ行かない。当時はあまりよくわかってなかったけど……大きくなって、その不自然さを、考えるようになって」
つらい話を、糸井がしようとしているのだと、糸川は察した。
「誰かに、何かされたんじゃないか。精神的なショックを受けるような、何か、……もしかしたら、性的な何か」
さする背が震えて、糸川は包むようにその背を抱く。
「もう何もわからない。そういう検査は病院では受けなかった。証拠も残ってない。調べようがない。でも時々あの公園の近くで不審者情報は流れてた。しかもふたを開けてみれば俺はゲイで」
抱いた糸川の腕に、糸井が強くしがみついた。
「俺自身が、原因を作ったんじゃないかって」
しゃくり上げるように、糸井の声が高くなる。
「俺が何か誘うようなことを……そのせいで何かが誘発されて、俺のせいで、俺が記憶をなくして、家族を巻き込んで、悲しませて迷惑かけて、普通の幸せを壊して」
「糸井くん、やめよう。そんなの想像の域を出ないよ。ありもしないことで自分を責めないで」
「なかったって確信できないんです」
糸井の膝に、また涙が染みを作った。
「俺自身が一番、自分を疑ってる。許せないんです。そういう自分が、いつまでもあなたの傍にいられるとは、どうしても思えない。なのに……さっき、ちゃんと離れられなかった。糸川さんには俺じゃない方がいいってわかってるのに、どうしても……糸川さんが、好きで」
目元を拭って、糸井が顔を上げる。その面 には、またいつもの笑みが貼り付けられていた。
「……言ってること、滅茶苦茶ですよね。矛盾してるって自分でもわかってるんです」
疲れたように息をつく、その横顔が切なくて、糸川はたまらなくなる。
「矛盾とか、そんなのどうでもいいよ」
どうでもいいと、両断した糸川を、糸井は驚いた顔で見返した。
本当は、糸井の思いは全て尊重したい。どうでもいいなどと、些末に扱いたくはない。けれどそれが糸井を苦しめて遠ざけるなら、今は一旦置いて、その抱えた矛盾ごと愛したいと思った。
もう一度、糸井を胸に抱き寄せて、その背を強く抱く。その腕を、糸井はもう拒まない。
「僕がきみを好きで、きみが僕を好きでいてくれるなら、まずは一緒にいようよ。その後のことは、二人で一緒に考えよう」
説くように、糸川は糸井の耳に囁いた。
「一朝一夕で答えが出ないなら、何年かかったっていいじゃない。別の問題が出てきたっていい。一生、僕が傍で一緒に考えるよ」
届け、届けと、祈りながら言葉を綴る。それしかできない。別個の人間だから、分かり合うには会話しかない。もどかしいけれど、それを積み上げていくしかないのだ。
庶 う糸川の背に、そろそろと、糸井の腕が回されて抱き返す。
最初は、弱く自信なさげな手だった。けれどその手が、徐々に強い力を帯びていく。
その力強さに、糸川はひどく安堵した。
「……ほんとに、俺でいいの」
涙声の小さな問いに、糸川はふっと笑う。
「糸井くんがいい」
即答した糸川の腕の中で、糸井は深く息をついた。
「……そっか」
そしてようやく、強張った体の力を抜き、その腕に身を預ける。
「そっかぁ……」
小さな子どもが心底安堵したような、無防備な声を、糸川は確かに聞いた。
初めて糸井の内側に触れられたような気がして、糸川は寄りかかる糸井の髪を、何度も梳いて撫でた。
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