「終電の時間が過ぎてしまいましたが」とかけた糸川の声に、その腕の中ですっかり落ち着いてしまっていた糸井が顔を上げる。 「……帰らないよね？」 　念を押すように訊くと、糸井は少し気まずそうに笑った。 「……泊まってもいいですか」 「っもちろん！」 　思わず意気込んで返してしまって、糸川ははっと我に返った。 「ごめん……なんか、そういう流れに持ち込もうとしてる感が満載だよね。あの、決してそういうつもりはないので、安心して泊まってって」 　慌てて弁解すると、糸井はふと視線を下げ、糸川の服の裾をきゅっと握った。その仕草が可愛いなと思って見ていたら、不意に上目で見上げられて心臓を射抜かれ、糸川は狼狽する。 「……最近、ずっとしてないじゃないですか」 「えっ？　あ、あぁ、うん」 「部屋に帰ってきたときにいつもしてくれてたキスも、しなくなりましたよね」 「うん……糸井くんが無理してるんじゃないかなと、思って。したくないのに嫌なことしてたら悪いなって」 「……したくなくなったんじゃなくて？」 「まさか。僕は……正直、いつでもしたいですけど」 　口ごもった糸川に、ほっとしたように糸井は笑みを漏らす。 「……もう、飽きられたんだと思ってたんです。そうじゃないなら、よかった」 「飽きる？　僕がきみに？　難しいこと言うね。どうしたら飽きるんだか教えてほしいよ」 　嘆息して、糸川は糸井の顎を持ち上げた。そのまま口づけ、くちびるを舌で割って深く探る。久しぶりの深いキスに惑った糸井は、すぐに息を上げた。 　気遣ったつもりで手を出さずにいたことが、糸井を不安にさせていたのだと知る。糸井の寂しい瞳はそれが原因だったのかもしれないと、裏目に出ていた自分の行動が悔しかった。 「ベッド……行く？」 　くちびるを触れ合わせたまま囁くと、頬を染めた糸井が恥ずかしそうに頷く。その手を取って、糸川は寝室へと移動した。 　さっき、糸井が糸川の気を引くためだけに抱かれようとしたベッドに倒れて、二人は今度こそ強く求め合ってキスをした。頬を上気させて瞳を薄く潤ませた糸井は明らかに糸川を欲していて、糸川も糸井を求める腕が急いて止まらなくなる。 　それでも、一ヶ月以上ぶりの情交で糸井の体を傷つけたくはなくて、精一杯のブレーキを踏んだ。 「……久しぶりだし、優しくするから。心配しないで」 　自戒も兼ねて囁くと、糸井はなぜか少し不満げな表情になる。 「……優しく」 「うん、だって、ゆっくりしないときついでしょ？」 「まあ……そうですね」 　少し拗ねたように頷いて、糸井はくちびるを噛んだ。何か言いたいことがあったのだろうが、そのままいつものように飲み込んでしまうのだろうかと思っていたら、糸井は気恥ずかしげに視線を逃がし、目元を隠して呟く。 「じゃあ代わりに……い、いっぱい、してほしい……です」 「っん!?」 　語尾に向かって小さくなっていったその呟きははっきり聞き取れたけれど、聞き間違いかと思って思わず聞き返してしまった。 （何て!?　今何て!?　いっぱいしてほしいって言った!?） 　嬉々とした糸川の反応に羞恥が煽られたのか、糸井は首から耳まで赤くして、両手で顔を覆う。 「あー……いや、なんでもないです。やっぱなしで」 「いやいやいや、やっぱなしはなしだよ。撤回は認めません」 　顔を隠した手を外させて、ゆでダコのような糸井の頬にキスをして、糸川はメガネを外しながらニヤリと笑った。 「糸井くんがギブアップするまでがんばっちゃうから、期待しといて」 「～～～ッ!!　糸川さん、顔が猥褻！」 「え、何それ褒められてる？」 「褒めてな、あっ……」 　首筋にキスをして軽く舌先で触れると、漏れた糸井の声に色が帯びる。そのまま首筋を責めながら服の中に手を忍ばせると、糸井は口を塞いで声を耐えようとする。 　いつもそうするのを黙認してきたけれど、今日は何も我慢してほしくなくて、糸川は糸井の鼻をつまんだ。 「！　っなに……」 「今度から糸井くんが声を我慢しようとしたら鼻つまむことにした」 「な、なんでそんな、授乳時に噛み癖のある赤ちゃんの対処法みたいな……」 「叔父歴長いと余計な知恵がつくんです」 　笑って、糸川は糸井の鼻を放す。 「糸井くんの気持ちいい声、いっぱい聞きたいんだよ。その声だけで勃っちゃうから、聞かせてくれたら何回でもできそう」 　そう言われて糸井は、思わず、といった感じで糸川の下半身に目をやった。そしてズボンの前の膨張にそろっと手を伸ばし、その興奮を確認する。 「糸川さん……」 「ん？　……て、ちょ、ちょっとあんま触んないでくれる？」 「だって……これ早く欲しいです……」 「……だからきみはさぁ……」 　いちいち恥じらうくせに、妙に大胆に煽ってくるから、翻弄される糸川は参ってしまう。 「もう！　服邪魔！　とりあえず全部脱げこれ！」 「え、あ」 　部屋着のような脱がしやすさもない着衣に焦れて、糸川は糸井のシャツを抜き、ズボンも下着ごと剥ぎ取った。自分の服も適当に脱ぎ捨てて、素肌を合わせる。 　糸井を組み敷き、その脚を開かせて膝を入れ、互いの中心で昂ったそれを、糸川は糸井の片手とともに握り込んだ。 「あ、なんで」 「ちょっとごめん、一回出さないと、興奮しすぎて痛い」 「や、待って糸川さん、あ」 　二人分の屹立を糸井に握らせ、さらにそれを握り込んで腰を動かすと、擦れた互いの先端から先走りが溢れる。そのぬめりで摩擦の快楽はさらに高められ、いくらも経たないいうちに先に糸井が高みに押し上げられた。 「あぅ、だめ……、いく、いっちゃう」 　逃げるように伸び上がろうとする糸井の体を押さえて、糸川は二人分の雁首を刺激しながら腰を使う。 「ん、いい、よ。僕も……もたない」 「あっ、あ、あ、出っ……」 　びく、と糸井の脚が爪先まで突っ張り、次いでびゅっびゅっと放出された白濁が糸井の腹を濡らした。扇情的な光景に視覚からやられて、糸川もその白濁を上塗るように射精した。 「……あ、あー、垂れる、タオルタオル」 　互いに触れ合わなかった時間を物語る液量に、糸井が脇腹を伝うそれを手で慌ててキャッチする。 「あ、ごめん、準備してなかった」 　糸川も急いでベッド脇の収納からバスタオルを取り出して敷き、糸井の手と腹をティッシュで拭いた。 「……多くない？」 「そりゃ……してなかったですもん」 「溜まるよね……」 「そうですね……」 　放熱して少し冷静になって、交わしたやけに現実的な会話に、二人は同時に吹き出した。 「何の話してるんだか、こんなときに」 「ね。情緒もへったくれもないですね」 　くすくすと笑いながら並んでベッドに転がり、抱き合ってまた何度もキスを交わす。 　笑いがおさまると、また糸川は糸井を下にして、糸井の首筋にくちびるを落とした。 「……ねえ、糸井くん」 「はい？」 「このへんとか、キスマークつけたら嫌？」 　糸川が指さしたのは、大抵の服なら隠れる、鎖骨より五センチほど下がった位置だった。 「え、なんでキスマーク？」 　問い返されると、どう答えていいものか、糸川は迷ってしまう。 　これまで、糸川は糸井にキスマークをつけようとしたことはなかった。本当はつけてみたかったけれど、そうしてはならないような気がして。 「……つけたら、きみは僕のものだって印みたいで、僕は安心するんだけど」 　けれど、そういうのを、重いと責められたことがあって、糸井にはしないようにしてきた。 　やっぱり重いと思われるのは怖い。 「ごめん、糸井くんが嫌ならしない」 　撤回してから、猛烈に後悔した。 　なんでそう思われかねないようなことを言ってしまったんだろう。別にしなくてもいいことなんだから、わざわざ言わなくたってよかったのに。今なら何でも言い合えるような気がして、つい口が滑ってしまったのだ。 　言わなきゃよかった、を脳内で百回くらい唱えたところで、けれど目の前の糸井は少し恥ずかしそうにはにかんだ。 「嫌じゃないですよ。……というより、ちょっと嬉しい、かも」 「……え」 「俺が糸川さんのものって印なんでしょ？　それって、糸川さんが俺を好きって印でもあるわけでしょ？　そんなの、……ちょっとどころじゃないな、かなり嬉しいです」 　照れて前髪を触りながら、糸井は上目で糸川を見つめる。 「……して？」 　その破壊力に糸川が抗えるわけもなく、一も二もなくくちびるで糸井の肌に触れた。日に焼けていない白い肌を強く吸うと、小さく糸井が身動ぐ。 「あ……意外と、ちょっと痛い」 　呟きにはっとして顔を上げると、糸井は自分の胸に浮いた紅い鬱血を、興味深げに見下ろしていた。 「けっこうはっきり痕つくんですね……初めてされましたけど」 　気恥ずかしそうに、糸井はへへ、と笑う。 「やっぱり……いや、思ったより嬉しいな」 　その笑みに、目の奥がじわっと熱くなって、糸川は慌てた。 　――あんたが無理しなくても、そのまんまのあんたを重いと思わない人もきっといるよ。今の相手が、そういう人だといいね。 　姉にかけられた言葉が耳に返る。あのときは、そうだといいと願いながら、それは叶わないことだと諦めていた。 　でも、今なら信じられるかもしれない。 （……ああ、姉さん。きっとこの人だ） 　いや、信じたいのだ。自分が破れ鍋なら、糸井こそが綴じ蓋だと。互いにこれまで経験してきた悲しい思いも、二人が出会うために必要な道程だったと。 　糸井が好きだ。好きすぎて泣きそうだ。 「……糸川さん？」 　すんでのところで涙をこらえ、糸川は糸井を抱き締めた。 「きみにはかなわないや……」 「……なんですか、それ」 　糸川を抱き止めながら、糸井がおかしそうに笑う。 　この笑顔が、ずっと隣に在ってくれればいい。それだけで、糸川は充分に満たされる。 　であれば、自分の手で守っていかなければ。 　当然、曇る日も涙する日もあるだろう。消せない過去に苛まれる日もあるかもしれない。 　そのときも、ずっと傍にいる。傍で共に考え、支えていく。 　それが糸川の望む、糸井との未来だ。 ＜END＞