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茜雲 -side F- 01
「ありがとうございましたー」
愛想の良い声に見送られて、行きつけの美容室を出た糸井は、短くなった襟足に片手で触れた。
どうせ盆には切るのだからと、しばらく無精して伸びた髪を切ったので、かなりすっきりして視界も良い。けれど気分は晴れなかった。
午後には新幹線で実家へ帰省する。盆暮れの帰省を、社会人になってからの糸井は欠かしたことがない。寮生活だった中高の頃は意識的に帰らず、大学生の頃はカメラとレンズへの出費で単純に金がなくて帰れなかった。
幼い頃に家族へ心配をかけたという自覚はあって、社会人になってからは意識して『ちゃんとしている自分』を親に見せるよう心がけている。帰省の直前に髪を切り、首元まできっちりとボタンのしまるシャツを着ているのもその一環だった。
甘えた記憶がなく、そのまま離れて暮らすことになった両親のことは、大切だけれど、会うと少し緊張する存在だ。それでも年に数日は親孝行せねばと、糸井は義務のように帰省の予定を入れる。
新幹線と在来線を乗り継ぎ、バスで実家の近くまで移動した糸井は、いつものように帽子を目深にかぶった。
小五で姿を消した人間を昔の級友の誰が覚えているとも思わないが、万が一自分を知る誰かに見られて声をかけられようものなら頗る厄介だ。あの頃クラス写真を見て頭に叩き込んだ級友のことを、今の糸井は誰一人として覚えていない。
地元は、糸井にとってはつらい思い出が多すぎた。
「ただいまー」
住宅地の中の少し古びた一軒家の玄関を開けると、奥のキッチンから「おかえりー」と母の声が返った。出迎えがないということは、台所仕事が立て込んでいるのだろう。
「帰ったよー」
改めて声をかけながらキッチンに行くと、テーブルにたくさんの食材を並べて、糸井の母は揚げ物と格闘していた。
「あ、文明。お疲れ様。元気にしてた?」
「うん。……宴会でもするの」
「そうなのよ、今夜ね、明信 のところも一家で来てくれることになってるの」
明信、というのは糸井の二つ下の弟だ。若くで所帯を持って、実家から車で十五分ほどの場所に住んでいる。
「そうなんだ。一家ってことは四人で来るの? 去年の夏以来だから、光太 も海斗 も大きくなってるんだろうな」
「ふふ。半分五人で来るのよ」
「え? もしかして麗奈 ちゃん三人目?」
「そうなのよー。もう八ヶ月よ。三人目にして女の子予定ですって」
「へえー! それはおめでたいね」
歓声をあげながら、糸井は腕まくりをしてキッチンの母に並んだ。
「手伝うよ」
「えぇ? いいわよ、長距離移動して疲れてるでしょ」
「大丈夫だよ。寝てきたから」
そう言って糸井は、フライになる予定の海老の背わたを取り始めた。その手元を見て、母が嬉しそうに頬を緩める。
「ちゃんと自炊してる人の手つきねぇ」
ひとつ母を安心させられたような気がして、糸井も笑った。
糸井は、独り暮らしの部屋では基本的に自炊している。ベランダのプランターでは趣味と実益を兼ねて季節の野菜も育てているし、糸川の部屋から帰ってきた日曜の夜は、作りおきのおかずを作ったりもしている。
本当は、外食や冷凍食品ばかりの糸川の食生活がけっこう心配だったりはする。深夜の冷凍パスタが異様に美味しいことに異論はないし、糸川はそれなりに鍛えているらしく肥満の心配もなさそうではあるが、できればもう少し食生活を見直してもらえると心配が減る。
でも、そんな心配をすること自体が差し出がましいようで、まして手料理を振る舞おうなど、おこがましくてとても言い出せたものではなかった。
(女子力アピールして評価が上がるような可愛い彼女なわけでもなし……)
恋人にはなったけれど、期間限定のその関係を少しでも長持ちさせるためには、面倒な存在になるわけにはいかない。
糸川を、煩わせたくない。
夕方近くなって弟家族がやって来ると、六歳と四歳の兄弟は久々に会う伯父と遊びたがり、糸井は家事手伝いから一転シッター役となった。
体力無尽蔵な兄弟は、狭い家の中を駆け回り、新聞紙の刀で糸井に斬りかかる。うあぁ、と呻きながら倒れた糸井の倒れ方がなっていないと兄の指摘が入れば、弟の謎な演技指導が入る。
「ふみあき、○○○○ジャーの敵が倒されるときに何て言うか知らねえの!?」
そうは言われても二十九歳独身男性は、もはや『レンジャー』が名にも入らない戦隊モノに詳しいわけもなく、ヘロヘロになりながら退治される敵を演じ続けた。
「お義兄さん、そんなガチで相手してやんなくていいよぉ」
大きなお腹を抱えた弟嫁の麗奈は、立ち上がっては斬り倒される糸井を気の毒そうに眺めながら苦笑している。痩せぎすなその体は腹の膨らみが余計に目立ち、そんな身重の体で日々この兄弟の相手をしているのかと思うと、畏敬すら覚えて糸井は頭が下がる思いだった。
「大丈夫、俺なんかたまのことだもん。相手させていただくよ」
「えー、もう超優しい。ありがとねお義兄さん、マジ助かる」
言いながら麗奈は、隣で早々に缶ビールの底を上げている夫の肩を強めにどついた。
「って、あんだよ!」
「アンタ弱いくせにペース早いんだよ! 明日も朝から現場だっつってたじゃん!」
「口うるせえなー、っとに。実家で子守してもらえてるときくらいゆっくり呑ませてくれよ」
「妊婦の隣でよく呑めるよね!」
はー、と麗奈が怒りのため息を吐き出したところで、キッチンから唐揚げの皿を持った母がやって来た。
「ほら光ちゃん海ちゃん、ごはんできたから食べなさい。手洗っておいで」
「わー! 唐揚げめっちゃいっぱい!」
「おばあちゃん、何個食べていい!?」
「食べられるだけ食べなさいな、たくさんあるから」
「やったー!!」
普段は食べられる数に制限があるのか、大量の唐揚げに歓喜した兄弟は我先にと洗面所へ向かった。
「お義母さんごめんね、手伝えなくて」
申し訳なさそうに手を合わせる麗奈に、母はからっと笑う。
「いいのよー、やっとつわり治まったところなんでしょう。普段休めないんだから座ってなさいな。支度は文明も手伝ってくれたし、お父さんも最近家事できるようになってきたのよ」
そう言った母の後ろから、煮しめの皿を持った父がやって来た。
去年母が体調を崩して数日入院した際に、自分が何一つ家事をこなせないことに危機感を覚えたという父は、それ以来少しずつ母から家事を習っているのだという。母の入院自体は心配だったが、結果論としてその後の夫婦の仲睦まじさは怪我の功名だった。
手洗いから戻ってきた兄弟は飯台に並んだご馳走に夢中で、解放された糸井はやれやれと腰を伸ばす。
「お義兄さんもどう、少し」
食卓についた糸井に麗奈はビールの缶を掲げて見せるが、糸井は苦笑して目の前のグラスに手で蓋をした。
「相変わらず全然ダメなんだよ、酒」
その隣で父も同じ角度で眉を下げて笑う。
「うちは家系的に酒はダメなんだよな。まともに飲めるの、明信くらいだろ」
そう言う父のグラスの中身も烏龍茶だ。
「職人の中にいたら、酒無理じゃやってけないんだよ。俺だって麗奈に相当鍛えてもらってやっと中ジョッキ三杯だからな」
「あたしがのんべえみたいな言い方やめろっつーの」
高校を中退してしばらく遊んでいた明信だったが、左官として働き出してからは長く真面目に勤めている。若くで結婚した麗奈はやんちゃしていた頃からのつき合いだそうだが、夫の手綱をしっかりと握って、いろいろなことによく気のつく良い子だ。嫁姑の仲も至って良好だと聞く。
「酒なんか呑めなくたっていいよぉ。酒代に金かかんないし。お義兄さんタバコもパチンコもしないんでしょ? 呑まない吸わない打たない遊ばない、ほんで優しくて気が利くって、超優良物件じゃん。めっちゃモテるでしょ?」
間接的に夫と比較して糸井を持ち上げた麗奈へ否定の声をあげようとしたところへ、明信がへっ、と悪態をつく。
「俺、兄貴がモテてるなんて話、聞いたこともねえぞ。彼女いたことあんの?」
「え」
思わぬ流れ弾に、糸井は笑顔のまま固まった。
「ばっか、弟にそんな話するわけないじゃん。言わないだけでいなかったわけがないっしょ」
「あー、いや……」
恋人と呼べる相手は最近までできたことがなかったし、その相手も女性ではないので彼女ではない。麗奈は明信をどやして糸井の肩を持ってくれているが、実は明信の方が正しいのだ。
と、じゃれ合う子どもたちをにこにこと眺めていた母が、ここで口を開いた。
「文明ももう三十路が見えてきたじゃない。そろそろ誰かいい人いないの?」
話の流れで水を向けられて、糸井は思わず視線を俯けた。
そういう対象の人を紹介できることは、たぶんこの先もない。
「……今は仕事が忙しいから」
無難な理由で逃げた糸井の言い訳を、「あぁ仕事一辺倒だと女の子は寂しいかもねー」と麗奈が拾ってくれる。その後は麗奈の勤め先の独身男性の話に矛先は移り、糸井はなるべく影を消して夕飯をつまんだ。
夜の十時を過ぎて、眠ってしまった光太と海斗をミニバンのチャイルドシートに乗せ、少々呑みすぎて足元が覚束ない弟の腕を糸井は支えた。
先に運転席に乗った麗奈がエンジンをかけたところで、その腕を明信が掴む。
「なあ、さっきの話じゃねえけどさ」
低い声に、糸井はドキッとした。
「……昔から、兄貴は親に心配かけてきてんだからさ。いい加減、安心させてやれよ」
所帯を持つことや孫の顔を見せてやることが一番の親孝行だろうと、暗に諭すように明信は糸井の肩をひとつ、強く叩く。
そのまま助手席に乗り込んでいく弟に、糸井は何も言うことができなかった。
兄のせいで幼い頃から色々と割りを食ってきた明信だ。本当はもっと、兄に対して言いたいことが腹に積もっているはずなのだ。それをぶつけることはしないで、きっと半分は本気で兄の人生を案じてくれている。
申し訳なさと情けなさで、糸井の気持ちは暗く沈んだ。
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