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茜雲 -side F- 03

「どうしたらいいんだろ……」  怒濤の勢いでキータイプを続けている糸井が呟くのを、斜向かいの席の同僚は半ば呆れ顔で見やった。 「俺もお前が何かを仕事にぶつけてるのをどうしてやればいいんだかわからんわ……」  斜向かいからのため息に、糸井ははっとして手を止めた。 「え、俺今なんか漏れてた?」 「駄々漏れでしたねぇ。何よ、色っぽい悩み?」  ここしばらく休憩も取らずに作業を続け、納期がかなり先の仕事まで片っ端から片付けていく糸井を、同期の芳田(よしだ)は少し心配してもいた。  普段から仕事に対しては至極真面目な糸井だが、最近の糸井の没頭ぶりは鬼気迫るものがあり、何か手伝うことはないかと作業をねだられること数回にして手伝ってもらうネタもそろそろ尽きかけている。 「いや、別に悩んでない」 「嘘つくの下手かよ! 今まさに言ってたわ、は~んどうしたらいいんだろ~う、って」 「それはこの画像のエッジ処理をどうしようかと」 「嘘過ぎるじゃん! いつも見事に処理できてますけど!?」 「んー。今無事解決した。終わっちゃったな、なんか他にやることない?」 「もう帰れ!!」  邪険にしっしと追い払われ、糸井は口を尖らせて席を立った。  休憩所のコーヒーを買い、窓際のスツールに座る。携帯を開き、糸川とのメッセージのやり取りを見返して、糸井は深く肩を落とした。 『今週末の都合はどう?』  いつもの問いに糸井はすぐに『大丈夫です』と返したけれど、予定は空いているが心境的にはあまり大丈夫ではなかった。  もう、ここ一ヶ月セックスをしていない。  それどころか、キスも、ハグすらほとんどなくなった。  この状況をどうしたらいいのか、糸井には皆目見当もつかなかった。  糸川は普通に接してくれている。メッセージにはちゃんと返信をくれるし、会えば会話もしてくれる。  だけど、性的なこと、恋人とするようなことは、何も求めてもらえなくなった。  需要がなくなった。魅力を感じてもらえなくなった。抱きたくもなくなった。そういうことなんだろう。ちゃんとそれは理解しているつもりだ。  だったらなぜ、糸川は毎週部屋に呼んでくれるのだろう。性欲の解消くらいしか役に立てないのに、それを求められないで、なぜ呼んでもらえるのかがわからない。  毎週呼ばれては、今日こそ別れを告げられるのだろうかと戦々恐々で。けれど糸川の態度は以前と変わらず好意的で、つい糸井は、まだ望みがあるのではないかと期待してしまう。  今日はもしかしたら、いや今日もダメかもしれない、と揺らぎながら糸井は浴室で身を清める。果たしてその体は使われない。  気持ちの乱高下についていけない。心が不安でズタズタになっていく。 (……本当にもう、ダメかもしれない)  抱きもせず、それでいて毎週律儀に呼んでくれる糸川の意図は読めないけれど、いずれにしても今のままでは近いうちに終わってしまう。 (その前に……せめてもう一度)  切られる前にもう一度、抱いてもらいたい。  少しは役に立てると、傍に置くメリットを感じてもらえたら、僅かでも猶予を延ばしてもらえるかもしれない。  一縷の望みをかけて、糸井は次の週末に自分から誘ってみることを心に決めた。  その土曜、糸井は朝から緊張していた。  どんなふうに誘えば、どんな奉仕をすれば、糸川はその気になってくれるだろう。手を尽くして、それでもダメだったら。  ずっとそんなことを考えて、悪い想像しかできなくてもう吐きそうだった。 「顔色悪いけど、大丈夫?」  待ち合わせた駅で心配げに顔を覗き込まれて、糸井は慌てて笑顔を取り繕った。 「大丈夫ですよ。空がきれいだったんで、ちょっとぼーっとしただけです」  歩きながら夕焼けに染まった空を指して言うと、糸川もその空を見上げた。 「ちょっと前に、僕の残業中に西の空がきれいだって教えてくれたことがあったよね」  そんなことを糸川が覚えていたことに、糸井は動揺して両手を強く握り合わせた。 「あ……はい。すみません、なんだか差し出がましいことを」  握った手が小さく震える。ちょっと息抜きに窓の外でも眺めてもらえたら、くらいのつもりで送ったメッセージはとうに忘れられているかと思ったのに、もしかしてあれが糸川の仕事をひどく邪魔してしまったのでは。  申し訳なくて、自己満足な駄文を送りつけたことが悔やまれた。  謝罪した糸井を、やや機嫌を損ねた顔で糸川が振り返る。 「どうして謝るの。僕は気づいてなかったから、教えてくれてありがとうって話だよ」 「や、でも仕事の手を止めてしまったかなと」 「休憩するいいきっかけになったんだって」  いちいちフォローを入れてくれる糸川の優しさが申し訳なくなって、これ以上気を遣わせたくなくて糸井は言葉を飲み込んだ。本当は邪魔だったとしても、きっと糸川はそうは言わないのだろう。 「……それなら、はい」  黙った糸井を、糸川が見つめる。 「あのさ……糸井くん」  糸川が改まった声を聞かせるのに、思わず糸井は視線を逸らして俯いた。  何を言われるんだろう。決定的なことは、まだ言わないでほしい。もう少し待って。今は、まだ。  嫌な具合に高まった鼓動が、自分の耳にどくどくと篭って届く。  身を固くした糸井の前で、糸川が小さく息をついた。 「……いや。行こうか」  向き直ってまた歩き出した糸川の背中が見えて、どっと全身の力が抜ける。息さえ詰めていたことに気づいて、糸井は慎重に息を吐いた。  馴染みの店で食事をとり、糸川の部屋へ向かう。もう期待もしなくなったけれど、やはり帰宅直後のキスはなかった。  会話が途切れてもベッドへ行く雰囲気にはならず、リビングのテレビはさして興味もない映画を流した。  一本目の映画が終わって風呂へ行き、今日こそは無駄にさせないと意気込んで準備をしたけれど、リビングに戻ると相変わらず糸川は糸井に見向きもせず、二本目の映画を眺めていた。  いつ誘いをかければいいだろうかとタイミングを計っていると、映画の途中で糸川が風呂に立った。 「先に寝てていいから」  そう言われ、今日も糸川には自分を抱く気がないのだということを悟る。  テレビを消して、一人で寝室へ行く。布団に入って、このあとのことを必死でシミュレーションした。  週末は必ず糸井を招いているし、平日は夜遅くまで働いているようだから、他に発散させられる相手がいるとは考えにくい。一人で抜いてはいるかもしれないけど、きっと自分で手淫するだけよりは挿入した方が気持ちいいだろうから、そこに糸川のデメリットはないはずだ。自慰の延長程度に考えてもらえればそれでいい。役に立てることを示したい。  緊張して糸川を待っていたら、しばらくして寝室のドアが開いた。糸川は糸井に触れないようそっとベッドに入ってきたので、糸井は糸川へ手を伸ばした。 「……あ、ごめん、起こした?」  手が触れ合って、謝った糸川に糸井は首を振る。 「いえ、起きてました」  待っていたのだと伝えようとした糸井を労るように見つめ、糸川は指の背で糸井の頬に触れた。 「寝ててくれてよかったのに。体調、ほんとはあんまり良くなかったんでしょ。無理に来てくれなくてもいいんだよ」  そう言われて糸井は初めて、毎週糸川が誘ってくれていたこと自体が社交辞令だった可能性に思い当たった。  本当は呼びたくもなかったのかもしれない。真に受けて毎回のこのこ来てしまっていたけれど。 「……来ない方が、よかったですか」  血の気が引く思いで問うと、糸川は心外そうに眉をひそめる。 「なんでそうなるの」 「だって……」  会えて嬉しかったのは自分だけだ。糸川には何の利もなかったのに、この一ヶ月、ただただ糸川の時間を邪魔しにだけ来ていたんじゃないのか。 「来てくれて嬉しいに決まってるじゃない。きみの体調が心配なだけだよ」  本当に? やれもしない男が来て何が嬉しいの?  投げられない問いが頭をぐるぐる回る。もう糸井には糸川の言葉が何一つまっすぐ伝わらなくなっていた。 「大丈夫だって俺言いました。体調、悪くなんかないですから」  ただ必死で、糸井は糸川に縋る。 「……してくれませんか」  口から出た瞬間に後悔した。こんな色気のない、誘い文句にもなり損なった懇願。糸川をその気にさせられるはずもない。  その証拠に、困惑に眉を寄せた糸川は、あからさまに気の進まない様子で、仕方なさそうに触れるだけのキスをしてくる。  ――ああ、もうだめだ。  もう、砂時計の砂は落ちきってしまっていたんだ。  絶望に覆われ、目の前が暗くなった。と思ったら、不意に息ができなくなった。  吸っても吸っても、空気が入ってくる気がしない。これまでも時々呼吸しづらくなる感覚に襲われることはあったけれど、それとは明らかに違う苦しさだった。 「糸井くん!」  わんわんと耳鳴りがして、糸川の声が遠くに聞こえる。陸にいるのに溺れているようで、闇雲に伸ばした手に触れた布地を掴んだ。  糸川が何か……吐け、ゆっくり息を吐け、と言っている。従わなければ。彼の言うことにはすべて。  吸えない息を吐くのはとても難しくて、視界が白く曇っていくなかで懸命に呼気を長く延ばす。最初はうまくできなかったそれを繰り返すうち、徐々に息ができる感覚が戻ってきて、やがて正常に呼吸できるようになり、糸川が強く抱き締めてくれていることに気づいた。  人助けのためだとはわかっていても、その腕の強さが恋しかった。  続きを乞うたけれど、できないと拒まれた。落胆したけれど、そりゃそうか、と同時に納得もしていた。  不要の烙印を押されたのが明白なのに、そこに居座るほど無神経ではない。帰ると言った糸井を、糸川は引き留めなかった。 「駅まで送るよ」  こんなことになってさえそう申し出てくれた糸川の優しさに、感動さえ覚えた。  服を着替え、帰り支度を済ませる。糸川と一緒に部屋を出て、夜の廊下に施錠音が固く響く。 「あのさ……」  言い出しにくそうな、糸川の声。続く言葉が何かを、糸井はずっと前から知っていた気がする。 「もう、会うのやめようか」  遅かれ早かれ、そうなることは覚悟していた。それがたまたま、昨日までのことではなかっただけで。 「……今日だった……」  それだけのことだ。

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