40 / 62
茜雲 -side F- 04
「え?」
糸井の呟きが聞き取れなかったのか、糸川が聞き返してくる。聞こえなくていいことなので、「いえ」と糸井は首を振った。
そうして、どこか安堵している自分に気づく。
一ヶ月、もしかしたらそれ以上、糸川は別れを告げるのを我慢してくれていたのだ。その優しさに感謝し、申し訳なく思い、糸川が切り出せて良かったと思った。
どうせ自分を恋人にしていても、糸川は幸せにはなれない。正しく糸井を捨てる選択をしてくれて良かった。
「わかりました」
きちんと現実を咀嚼して納得して、物分かりよく笑みを浮かべた糸井に、糸川も笑ってくれた。
一度も使うことがなかった合鍵も返して、後腐れなく、次の誰かのもとへ糸川を送り出す。我ながら上出来ではないか。
糸川に教えてもらった幸せは、これから一人でいつだって食み返せる。もらった雪晃はきっと返せなんて言われないから、思い出と一緒に大事に育てていこう。それでいい。充分だ。
心底、そう思ったのに。
「行こうか」
エレベーターへ向かって歩き出した糸川の背中を、追うことができなかった。
靴底が、廊下のタイルにくっついてしまったみたいで。一歩も、その足を上げることができない。
今ここを動けば、もうここに戻ることは二度とない。糸川が、一緒に帰ろうと言ってくれた場所。何度も抱き締めてくれた部屋。
糸川に会うことも、もう二度と。
「糸井くん?」
ついてこない糸井を、糸川が振り返る気配がした。全身が凍りついたみたいに、俯いたままそちらを向くこともできない。
「どうしたの」
心配げに、糸川が戻ってくる。その足元が、糸井の視界にも入る。
そちらに向けて伸ばした手が、糸川の服の裾を掴んでしまった。
「どうしても……」
勝手に動くくちびるを、意識の端で止めようとする声がある。やめろと叫んでいる。これ以上糸川に疎まれるような真似はするなと。
「どうしても、もうだめですか。……もう会ってもらえませんか」
泣くな。泣くな。泣くな。
けれど瞼に収まらなくなった水滴は重力に従って落ちてしまう。
「セフレでもいいです。俺から連絡なんかしません。呼んでもらえたときにだけ、俺が出向くから。帰れって言われたらすぐ帰るし、煩わせないように、絶対、絶対するから」
惨めに縋りついている自覚はあった。三島の時と同じ轍を踏もうとしていることも。
それでもただ必死で言葉を連ねた糸井に、糸川が呆然と、「え……?」と声を上げる。それで我に返った。
何を馬鹿なことを。
「……すみません、こんなこと、言うこと自体が迷惑ですよね」
ここから逃げ出したい、と思ったら嘘みたいに足が動いた。
「すみません、帰ります。送り、いらないです」
せっかくきれいに終われそうだったのに、後腐れを残すだけになってしまった自分の行いを悔いて、糸井はその場を立ち去ろうとした。
糸川の横をすり抜けようとした、その腕を掴まれる。
「待って……糸井くん、待って」
その力の強さに驚いて振り返ると、きつく眉を寄せた糸川に見つめられた。何かを言おうとしているのか、考えているのか、そのくちびるは開きかけては閉じられる。
「糸川さん……?」
なぜ引き留められたのかがわからずに呼び掛けると、糸川は下くちびるを噛み、今閉めたばかりのドアを解錠した。そのドアを開けるなり、強く糸井の腕を引く。
玄関の中に引き入れられ、ドアが閉まりきるよりも前に、抱き締められた。
「ごめん」
謝罪の声の後ろで、静かにドアが閉まる。
「ごめんね、糸井くん。好きだ。好きだよ」
背と髪を抱かれ、糸川の重みと体温を感じる。
欲しかった腕の中で、失敗した、と糸井は己に失望した。
糸川の優しさは自分が一番よくわかっていたはずではないか。あんなふうに袖を引かれたら、放っておけなくなるに決まっているのに。
糸井はそっと糸川の胸を押した。
「……すみません、俺が変なこと言ったから。気を遣わせるつもりはなかったんです」
申し訳なさに涙が込み上げる。それを拭いながら離れようとした糸井を、けれど糸川の腕は放さなかった。
「気を遣わせるって何? 僕がきみに気を遣って、好きだって嘘ついてるって言ってる?」
怒気を孕んだ声に、糸井は戸惑う。
「だって……本当はもう俺と会いたくないんでしょう? 会うのやめようって」
「だからそれは、糸井くんが無理して僕に会いに来てくれてるならって話で。それが思い違いなら、僕は絶対きみと別れたくなんかないよ!」
もどかしげに半ば怒鳴って、糸川は糸井の両手を握った。その手を惑ったまま糸井は見下ろす。
別れたくないと、糸川は言ってくれている。それを、真に受けてはいけないと糸井は思った。これは施しみたいなもの。気持ちのない相手を繋ぎ止めても空しいだけだ。
黙り込んだ糸井が返答できずにいると、その手を握る糸川の手に力がこもる。
「どうしたら信じてもらえるのかがわからないけど……でもさ、話すしかないよね。話がしたいよ」
そう言って糸川は糸井の手を引いて、部屋へと上がる。
「上がって」
糸井は気が進まないながら、促されるまま靴を脱いだ。
リビングのソファで向き合うと、糸川は一つ一つ糸の縺れを手繰りながら、根気強くそれをほどきにかかった。
泣かないで、という慰めを曲解した糸井が隠れて一人で泣いていたのを、糸川が知っていたこと。
そして、糸川には今後も話すつもりはなかった、糸井の記憶喪失のことを、実は知られていたこと。
互いに遠慮して触れられずにいたところで知らぬ間に拗れていたことを、一つずつつまびらかにして再度縒り合わせていく作業を、糸川は厭わなかった。
知られてはならないと思っていたことを、知られていたことに驚いた。けれどそれ以上に驚いたのは、それでも糸川が、糸井を好きだと言ってくれたことだった。
「知ってて、言うんだよ。糸井くんが嫌じゃないなら、僕は絶対別れたくない。糸井くんが好きだ。この先もずっと一緒にいたい」
真摯な声に、糸井の内の何かが融け出す。
ずっと、自分のことが気持ち悪くて、信用できなくて、誰にも、親にも言えなかったことがあった。
得体の知れない厭悪だ。確証はどこにもない。誰の記憶にもそれはない。だけど、だからこそ否定する材料もない。だからずっと、糸井はその可能性の影に怯えていた。
「……何も覚えてないから、余計に、怖いと思うことがあって」
どうしてそれを糸川に話そうと思ったのかは、よくわからない。そういう自分から、糸川が離れてくれた方がいいと思っていたからかもしれない。離れないでほしいと思うその一方で、糸井は自分みたいな人間から糸川を守りたいとも思っていた。
ゲイの自分が、自分に触れてくれる誰かを、故意に誘ったのではないかということ。
自業自得の行いで、何らかの行為を強いられることになって、それが原因で記憶を失うことになったのではないかということ。
薄汚い、軽率な欲で、そういうことをしかねない自分が、おぞけがたつほど厭わしかった。
「俺自身が一番、自分を疑ってる。許せないんです。そういう自分が、いつまでもあなたの傍にいられるとは、どうしても思えない。なのに……さっき、ちゃんと離れられなかった。糸川さんには俺じゃない方がいいってわかってるのに、どうしても……糸川さんが、好きで」
どうにもならない自己矛盾に勝手に悩んで、糸川に迷惑をかけている。それがつらかった。
けれど糸川は、その矛盾を「どうでもいい」と一蹴してくれた。
「僕がきみを好きで、きみが僕を好きでいてくれるなら、まずは一緒にいようよ。その後のことは、二人で一緒に考えよう」
正直、衝撃だった。
糸井が、糸川と一緒にいられない理由を一生懸命並べているその目の前で、それらを全部切って捨てて、そんなことはどうでもいいからとにかく一緒にいようと糸川は言うのだ。
「一朝一夕で答えが出ないなら、何年かかったっていいじゃない。別の問題が出てきたっていい。一生、僕が傍で一緒に考えるよ」
そうしてようやく、糸井は、糸川が自分を好きだと言うその意味を理解した気がした。
何があっても、糸井が糸川を好きでいる限りは、この人は離れるつもりがないのだ。糸井が忘れた糸井が何者であろうと、傍にいてくれると言うのだ。
そんなふうに言ってくれる人が、この人を除いて他に、いったいどこを探せばいるのだろう。
(信じたい……)
そう、強く思う。
たとえ自分自身を信用できなくても。糸川が糸井を好きだと言ってくれるなら、それを信じていたい。
「……ほんとに、俺でいいの」
最後のつもりで、ひとつ問う。
「糸井くんがいい」
すぐに返ったその応えを、糸井は深く胸に落とした。
ともだちにシェアしよう!