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ハニーメルト 01

 金曜の日没直後、糸川は暗くなった外に出て凝り固まった背中を伸ばした。  今日は朝から人材開発会社で研修を受けていて、講義だグループワークだ討論だと、いろいろやらされて非常に疲れた。糸川は管理職など柄ではないと自認していて、出世欲もまるでない。だが会社は幹部候補として育成対象に入れているらしく、受講指示を受けてリーダー研修なるものを受けに来たのだ。  受けてみてよくわかった。管理監督職など、やはり自分には向いていない。そういうのは三島みたいなやりたがりに任せておいて、自分は実務担当としてこのままそっとしておいてほしい。  やれやれ、と首を左右に傾けて、自宅へ直帰しようと電車の時間を検索しようとして、ふと気づく。普段乗り慣れない路線でこの研修施設まで来たが、実はここから糸井宅の最寄り駅までは三駅ほどだ。行こうと思えばすぐ行ける。 (会いに行っちゃ迷惑かな……)  携帯を持つ手が迷う。明日の土曜には会う約束をしているのだから、今日わざわざ行かなくてもいいと言えばいい。  でも、わかっていても会いたくなるし、会えば少しでも長く一緒にいたいと思うのが恋心というもので。 (いや、糸井くん相手にこういう遠慮が一番よくないって学習したとこだろ。無理なら断ってくれればいいんだから)  とりあえず思いのままに行動した方が良いはずだと、糸川は迷いを振り切った。 『今電話できる?』  送ったメッセージにはすぐに既読がつき、まもなく糸井の方から電話がかかってきた。 「あ、もしもし糸井くん?」 『はい、糸井です。どうしました、何かありましたか』  少し慌てた、心配そうな声。普段はメッセージのやり取りばかりで全く電話をしない二人なので、糸井は何事かと思ったらしい。 「ごめんね急に。べつに何もないんだけどさ。今出先で、これから直帰するとこなんだけど、糸井くんちにわりと近いとこにいるの。もし都合が悪くなければ、顔見に寄らせてもらえないかなって思って」 『え、あ……明日、都合悪くなったりしました? 俺、連絡見落としてたかな』 「あーいや、明日は明日で予定通り会うつもりだけど。ちょっとたまたま近くに来たもんだから、会いたいなと」 『……』 「……思ったんだけど……あれ。ごめん、鬱陶しかった?」  さすがに一日を待てないとなると重かったか、と糸川は申し出を撤回しようとした。けれど電話の向こうで、前のめりで糸井が否定の声を上げる。 『いえっ! 全然鬱陶しくないです。すごく嬉しいですし俺も会いたいです。今返事が遅れたのはですね、ちょっと感極まっていたというか、そう言ってもらえて嬉しいなというのを噛み締めていたというか、そんな感じです。以上です』  早口で捲し立てるように言い切った糸井に、糸川は一瞬面食らい、その後吹き出してしまった。  互いを思いやるあまりに気持ちがすれ違って、別れ話にまで拗れてしまったのがほんの一週間前だ。縺れをほどいていく中で、二人でいくつかの決め事をした。  相手の内心を勝手に推し量らないこと。  そして、推し量らせないためにも、素直に心の内を見せること。  どんなに相手のためを思っても、一人で想像して出す結論が本当に相手のためになるとは限らないということを、二人はいやというほど思い知った。互いが想い合って、別れたいなどとは少しも思っていなかったのに、一瞬でも離れることを選んだあの結論は本当に本末転倒だった。  二度とあんなことにならないためにも、口数が多くはない二人は不得手ながらも、言葉にして伝え合う努力を始めていた。  いつもなら飲み込んでしまう“あと一言”を、声にする。それには少しの勇気が必要だけれど、結果的に互いの間に大きな安心を生むことになるのだと、それぞれが学ぼうとしている。  まだかなりぎこちないけれど、少しずつ本心を出せるようになっているそれは、互いに良い変化のように思われた。 「ならよかった。糸井くん、今は家? あと三十分もあればそっち行けると思うけど、大丈夫?」 『三十分ですね、わかりました、お待ちしてます。気をつけて』 「ありがとう、じゃあまた後でね」 『はい、後で』  三十分後の約束をして、通話を切る。  駅までの足取りは疲れているにもかかわらずやけに軽くて、浮き足立つってこういうことかな、などと思いながら、緩みそうな口元を糸川は意識して引き締めた。  糸川が糸井のアパートに着くと、廊下にはそこかしこから夕餉のいい匂いが漂っていた。ちょうどどこも夕食の支度が大詰めの時間なのだろう。  少し顔を見たら帰ろうと思っていたので、夕食のことは頭になかった。しかし嗅覚を刺激され、糸川は自分の空腹を強く意識してしまう。 (あー、何か買ってくればよかったな。糸井くんもう食べたかな。まだだったら何かデリバリーでも一緒に頼もうかな)  そんなことを考えながらインターホンを押し、「はーい」と出てきた糸井の姿を見て、糸川は目を剥いた。 「お疲れ様です」  そう言って糸川を玄関に招き入れた糸井は、風呂上がりなのか濡れ髪で、部屋着の上に黒のエプロンを着けていた。 「えー! エプロンだぁ。なんで?」 「あ、ちょっと今取り込み中で」 「すごい新鮮。かわいい。似合う」 「あの、エプロンはいいんで、糸川さん」  そこじゃない、とエプロンに釘付けになっている糸川の視線を戻させるように、糸井は糸川の頬を両手で挟む。そしてそのくちびるに、ちゅっとキスをした。 「……帰ってきたら、まずコレでお願いします……」  自分から仕掛けたくせに、糸井は耳まで真っ赤になっている。 「……ちょっとシャイすぎない?」  からかうつもりはなく、二十九歳成人男性に対する率直な感想としてぽろりとこぼしてしまうと、糸井はちょっと怒ったように眉を寄せた。 「だって、糸川さんが……」 「僕が?」 「……スーツなんか着てるから」  いつもと違うんだもん、などと糸井はもごもご言っている。  なんだか既視感があるな、と思った糸川は以前のやり取りを思い出し、少し緩めていたネクタイをきっちり締めて見せた。 「惚れた?」  以前はこの問いに、あっさりと否定を返されたのだ。あの頃、糸井はまだ三島のことが好きだった。  ならば今ならどうだと、リベンジのつもりで品まで作って臨んだそれは大成功だったようで、糸井は耐えかねたように糸川の胸に飛び込んできた。 「惚れてます!」 「ははは、やったぁ」  笑いながら、糸井の背をしっかりと抱き返す。細身の糸井の体は、しっくりと糸川の腕に収まった。  と、不意に糸井の部屋にいい匂いが立ち込めていることに気づいた。その瞬間、糸川の腹がぐうぅ、と空腹を主張する。 「あ……糸川さん、お腹減ってます?」  抱擁を解いて、糸井が糸川の腹を見つめた。 「あ、うん。ちょっと顔見たらすぐ帰るつもりで来たから、何も考えてなくて」 「そ……っか、そうだったんですね」  しゅん、と、犬だったら耳でも垂れていそうな糸井の姿にも既視感を覚える。いつぞやもこうして仕事帰りに部屋に寄ったとき、すぐに帰ると言った糸川に寂しそうな顔を見せたのだ。  あのときは糸川が空気を読んで部屋に上がった。けれど今回は、糸井が糸川の手を引いた。 「あ、あのでも、この後用事がなかったら、もう少し一緒にいられませんか。大したものじゃないけど、夕飯も出せるんで」  糸川の都合に配慮しつつも強く引き止めた糸井に、思わず笑みが浮かぶ。 (糸井くん、すごい頑張ってくれてる……)  あの、言いたいことなど何一つ言えなかった、希望を伝えられずに微笑むばかりだった糸井が、対話の努力をしてくれている。かつての姿と比較するとその成長ぶりに感動するばかりで、糸川はきゅっと糸井の手を握り返した。 「……うん、僕ももっと一緒にいたい」  糸川がそう返すと、糸井はほっとしたように笑って、糸川を室内へ促した。  部屋に入ると、居室の手前に設えられた広くはないキッチンで、コトコトと鍋が弱火にかけられていた。糸井が曇ったガラス蓋を開けると、中からこんもりと湯気が上がる。 「わ。シチュー?」  乳白色のその鍋の中身を覗き込むと、糸井がふふ、と笑う。 「みたいなものです。クラムチャウダー、というか、野菜と魚介のごった煮です」 「へえー。ていうか、糸井くん料理するんだね!?」 「いや、料理ってほど大したものは作れないんです。とりあえず独り暮らしだと野菜が不足するんで、大量の野菜を切って煮て、最後に味噌入れるかルー入れるかその他か、みたいなのばっかりで」  お玉で中身をかき混ぜて掬って、小さく刻まれたたくさんの具材を糸川に示す。 「今日のは、玉ねぎ、ニンジン、キャベツ、ジャガイモ、パプリカ、ぶなしめじ、ベーコン、シーフードミックスです。煮込んで嵩は減ったけど、実はすごい量の野菜が入っています」 「すごい美味しそう」 「ほんとですか? じゃあよかったらいっぱい食べてくださいね、冷凍パスタだけよりは栄養あると思うんで」  いたずらっぽく笑う横顔がかわいくて、きゅうっといとおしくなって糸川は糸井を背後から抱き締めた。 「わ……び、っくりした」  一瞬びくりと動きを止めた糸井だったが、お玉を置いて火を止め、そっと糸川の腕に触れてくる。 「……後ろに立ったらダメだった?」 「ふふ。そんなゴルゴ属性ないですけど」  そう言って笑った糸井が、ふと言葉を止めて俯いた。糸川に触れた手が、その布地を強く握る。 「……」  すん、と小さくすすり上げる仕草に、糸川は糸井が泣いていることに気づいた。 「……どうしたの?」  また何か無意識に傷つけることを言ってしまっただろうかと、慌てて糸川は糸井の顔を覗き込む。 「ごめん、僕何か無神経なこと」 「や、違うんです。ほんとに何もなくて」  そう言いながらも、ぽろぽろと糸井の瞼は涙を落とす。 「……ちょっとまだ俺、なんか情緒不安定で。糸川さんと、こんな風に過ごせるようになるなんて思ってなかったから」  どう言ったらいいものかと迷うように、糸井は困惑げに、泣き笑いの顔を上げた。 「――嬉しくて」  はにかんでこぼした糸井の言葉に、糸川の胸が震える。  きっとその一言がなければ、糸川は糸井の涙の理由を変に勘繰ってしまっていた。自分の落ち度を疑って、また勝手に落ち込んで、自信を失ってしまっていた。  けれど糸井の伝えてくれたその一言が、糸川の邪推を阻んで、一瞬揺らいだ心を愛しさで満たしてくれる。 「……うん。ならよかった」  視線を合わせて微笑んで、糸川は糸井の濡れた頬に触れる。糸井も笑みを返して、そっと糸川の肩口に額を寄せた。

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