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むすんだその手を 04

 糸井の嗚咽が少し落ち着いて、抱きしめた腕を緩めて顔を覗くと、泣き腫らして赤く潤んだ瞳と目が合った。そのまま顔を近づけると、少し顎を上げて瞼を閉じたので、それを了承と受け取ってそっと口づける。  一年半――いや、別れ際はもめていた期間もあったのでもっとか――ぶりに触れた糸井のくちびるは相変わらず柔らかくて、離れがたくなってしまう。何度も確かめるように啄むと、きゅっと噤んでいた合わせ目がちょっとずつ綻んで、薄く開いた歯列が糸川の舌を迎え入れた。 「ん、ぅ」  熱くて濡れた舌を、吸い合うように絡ませる。鼻から甘えたような息を漏らす糸井もいつになく能動的で、一方的な想いではないという実感が湧いて糸川の情動も強くなる。 「……あ~……」  一度くちびるを離し、とろんと潤んだ目をして頬を上気させた糸井に見つめられ、糸川はこもった熱を吐き出すように低く唸った。 「……だめだ。さすがに今日はがっつくつもりなかったのに」 「……?」  きょとんと首をかしげる様までかわいくて仕方がない。自分はこんなに堪え性がなかっただろうか。 「……触っちゃだめ? 糸井くんに触りたい」  直截な言葉に、糸井はかっと赤面して、狼狽した様子で目を泳がせた。 「あ……えと、だめじゃない、けど……」 「けど?」 「あの……、今日は、その、は……入らないかもしれないです」 「え」 「ずっと、一人でも、後ろ……してなくて……」  すぐに役に立てなくて申し訳ない、とでも思っているのだろう、糸井は声を落としながら下を向いてしまう。  いやはや、人の思考はやはりなかなか変わらないらしい。そんなことを後ろめたく思う必要などないことは、これまで散々伝えてきたはずなのだけど。 「無理なら挿れなくたって全然いいし、もちろん嫌なら何もしない。でも嫌じゃないなら……僕が馴らしてもいい?」  問うと、糸井は気後れがちに上目で糸川を窺う。 「……時間かかっちゃうかも」 「時間かけていっぱい触っていいならむしろ好都合だな」 「……ん」  頷いて、糸井は糸川から体を離した。 「……じゃあ、洗ってくるので、しばらくお待ちください」  気恥ずかしげにそう言って、糸井はバスルームへと向かった。  思い返せば、糸川は数えるほどしか糸井の体をじっくり解した経験がない。いつも糸井は会いに来る前に自身で準備してきていたし、時にはアナルプラグを仕込んでくることもあった。早く抱かれたいという糸井自身の欲求もあっただろうが、半分は相手に手間をかけさせないようにという配慮だったのだろうと糸川は思っている。  糸井のシャワーを待って、その後糸川もシャワーを借りて、Tシャツと下着だけの二人は久々にベッドで向き合って座った。 「そういえば、どうして今日はスーツだったの? 土曜だし、今は会社勤めもしてないんだよね?」  あぐらの糸川に対して糸井は膝まで閉じた正座で、その緊張を解すために他愛もない話題を持ち出してみる。 「ああ、今日は元同僚の結婚式っていうか、フォトウェディングだったんです。俺の同期と、後輩の女の子が結婚することになって、そのカメラマンを頼まれてて」 「へえ、それはおめでたいね。あ、だから大きいバッグ持ってたんだ。なに、そういう仕事もやってるの?」 「いえ、本業でやってるわけではないんですけど。後輩の子が俺の撮る素材写真を気に入ってくれてたので、それで。せっかく引き受けたので、フォトアルバムのデザインと制作まではやろうと思ってるんです」 「へえー、すごいね。糸井くんの仕事、後輩さんはよく見ててくれたんだね」 「そうですね。ありがたい話です」  へへ、と照れて後ろ首を掻いた糸井が、少し緩んで正座の膝を開く。 「糸川さんは? 会社は休みですよね」 「僕はねぇ、出張からの帰りだよ。昨日の夜は懇親会で飲んで泊まって、今日帰ろうと思ったら天候不順でバスが止まったとかでなかなか駅に出られなくてね。予定の新幹線にも乗れないし、もう散々だったんだけど」 「わぁ……大変でしたね。やっぱりこっち戻ってきてからも忙しいんですね」 「まぁね。……ふふ、でも結果オーライだよ。予定通りの便で帰ってこれてたら、糸井くんには会えなかったんだから」 「ああ……」  もし会えていなかったら、を想像することは難しくない。出張後の疲れた体で家に帰り、無為に日曜を過ごして、また月曜からいつも通りに働いていたのだろう。この一年半続けてきた日常が、これからもまだ続いていくだけ。  そうはならなかった僥倖に、改めて糸川は感謝する。今ここに、手の届く距離に、糸井がいる。それが何より嬉しかった。 「髪、伸びたね」  うなじを引き寄せてキスをしながら、指先に絡む髪の馴染みのない感覚を楽しむ。 「自宅仕事始めて外出しなくなった上に、忙しかったもんだから。……でもみっともないですね、そろそろ切らないと」 「そう? 癖のない髪だし、きれいで羨ましいけど。似合ってるよ。短いのも好きだけどね」  まだ濡れた髪を梳くと、糸井は恥ずかしそうに笑って、髪に触れる糸川の腕に触れた。 「糸川さんは……なんか前より体締まりました? 筋肉ついてる気がする」 「あ、わかる? 仕事忙しくて食生活荒れちゃってさぁ。せめて運動しようと思ってジム行く回数増やしてるんだ。最近会社かジムしか行ってない」  Tシャツを脱いで右腕を曲げて力を込めると、隆起した二の腕に触った糸井が固い感触に驚く。 「わ。いいなぁ筋肉、かっこいい。俺も鍛えようかな」 「僕と一緒にジム行く? 部屋探しの条件に、ジムが近いとこ、って追加しとこうか」  雑談を続けながら、糸井のTシャツの裾から手を忍ばせて細い体をなぞると、会話でリラックスしていた背にまた緊張が走ったのがわかる。  糸井のTシャツを引き抜いて、ベッドに横たえ、裸の上半身をぴったりとすり寄せるようにして抱き合う。しばらくそうしてくっついていたら、胸に伝わってきていた糸井の速い拍動が少しずつ落ち着いてきた。 「……知ってる? 糸井くんのここ、小さいほくろが二つ並んでるの」  囁きながら髪をかき分けてうなじに口づけると、ん、と小さく息を漏らす。 「そんなとこにほくろあるの」 「他にもねぇ、肩甲骨の間と、太ももの内側にも二つずつあるんだよ」 「えぇ、なんで二つずつ?」 「ね、不思議だよね」  緊張を宥めるように、糸川は糸井の背をゆっくりと撫でる。 「……僕、けっこう糸井くんのことわかってるよ。糸井くんより」 「え……」 「怖くないから大丈夫。痛いことは絶対しないから、緊張しなくていいよ」 「……」  至近距離で糸井の瞳を覗くと、その表面がみるみるうちに潤んでくる。ぷっくりと膨らんだ水滴は、眥を伝って枕カバーに吸い込まれていった。 「……俺だって、知ってるよ。糸川さんが痛いことしないなんて」  また、涙で声が揺らぐ。 「知ってたのに……浮気なんかするはずない、糸川さんが俺を傷つけるようなことするわけがないってことも、知ってたのに、なんで俺……信じられなかったんだろ」  ぽろぽろと涙はこぼれて、泣きすぎて赤くなった瞼を糸井はまた擦る。 「疑ったことも、別れるって決めたことも、全部全部ずっと後悔してたんです。俺にはもう糸川さんしかいなかったのに……なんで手を離したりしたんだって」  悔恨を明かして泣く糸井の瞼に、糸川はそっと口づけた。糸井がこの涙を一人で流してきたのか、それとも堪えてきたのか、どちらにしても哀れで胸が痛くなる。その彼が糸川の前で泣くことができるようになって、よかったとも。 「別れなきゃ、としか考えられなかった自分から、ちゃんと変わりたいと思ってるんです。もっと、糸川さんと腹割って話して、別れる以外の道を一緒に考えられるようになりたい。だから、糸川さん、これから俺の傍にいてほしいです」  糸井は今の糸井なりに、糸川への願いを言葉にした。それを受け取った糸川の胸に、何か熱いものが広がる。 「……うん。僕も、きみの傍にいたいし、きみにずっと傍にいてほしいよ」  同じ想いを、糸川も言葉にして糸井に渡す。  きっと今なら、二人が等しく想い合っていることが正しく糸井に伝わったはずだと、糸川は信じることができた。

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