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むすんだその手を 03

 糸川が普段使うことのないあの駅にいたのは、その日が出張先からの帰宅移動日だったからだった。しかも現地の天候不順で帰りのバスが遅延して、やむなく予定と違うルートで帰っていたので、本来はあの駅に立ち寄る予定はなく、あの時間あの場所に糸川がいたのは完全に偶然だった。  大阪赴任から東京に戻った糸川は、当初の約束通り、帰任した四月から管理職登用された。今は製品企画二課の課長という肩書きだ。  予定外の旅程で疲れていて、やっともう一度乗り換えれば最寄駅まで帰れると安堵したときに、何気なく目をやった向かいのホームに糸井の姿が見えて、思わず放心した。  すぐに視界はホームに入ってきた電車の車体で遮られたので、ほんの数秒しか視認できなかったし、記憶の中のどの彼よりも髪が長くてなぜだか休日なのにスーツ姿だったけれど、あれは絶対に糸井だ。彼もこちらを見ていた。たぶん目も合った。  開いた電車のドアの中へ押しやられそうになって、慌てて糸川はその流れから離脱した。早くどけ、と向かいのホームとを隔てる二本の電車に強く思う。電車をこんなに邪魔に思ったこともかつてない。  この電車が去ったら、その向こうにきみはいるだろうか。僕と同じように、こちらを見つめたまま、そこに待っていてくれるだろうか。  焦燥に限界まで心拍を高めながら、発車を待つ。そしてじれったいほどゆっくりと加速していく電車が走り去ったあと、糸川はその向こう側に、確かに糸井の姿を認めた。  ほとんど無意識に、引いていたキャリーケースのハンドルを縮めて抱え上げた。一番近くの階段を、人の隙を縫って全力で駆け上がる。  早く、とにかく早く、向かいのホームに行かなくては。今行って、彼を捕まえなくては。早く上がって、渡り廊下を走って、向こうのホームへ降りなくては。  そうしないと、本当に、二度と会えなくなる。  階段を上りきって、人波をかき分けるようにまた走り出そうとして、糸川は驚いて足を止めた。その先に、荒い呼吸に肩を上下させた糸井がいた。  え、どうして? と糸川は思った。  こういうとき、きみは自分から向かってきてなんかくれないんじゃないの。僕が迎えに行かなきゃ、僕から行かなきゃ、僕らの距離は縮まらないんじゃなかったの。  前のきみは、ずっとそうだったよね?  予想外の糸井の行動に、動揺しながら糸川は歩み寄る。糸井は逃げないどころか、こちらに向かって歩みを進めている。 「……会えちゃった」  一メートルもないくらいの距離に来て、糸川はいつかの河川敷で言った言葉を再生した。あのときは、糸川に会うことをやめた糸井を、糸川が探し求めたのだった。  でも今回は、ほとんど同じだけの距離を、きみも全速力で走ってきてくれたんだね。 「ごめんなさい……」  聞いた覚えのある台詞のリピートに一瞬笑おうとして見えた糸井は、けれどその両目から大粒の涙をぼろっとこぼす。 「ごめんなさい、俺……ずっと、ずっと後悔して……!」  公衆の面前だとか、大の男がとか、そんなことは気にもしていられない様子で、糸井は声を上げて泣いている。固い意思で、別れ話のときには目を潤ませもしなかったあの糸井が。  衆人の視線から隠すように、糸川は糸井の肩に手を置いた。 「……いいよ」  うん。もういい。きっともう大丈夫だ。必死で僕の元に駆け寄ってきてくれたきみなら。  そう思えたとたん、てのひらに伝わった糸井の体温がどうしても離しがたくなった。  今度こそ、もう二度と、この熱を手放したくない。 「いいから、俺んとこ戻ってこい」  糸川も、建前や体裁に構っていられず、糸井を力任せに抱きしめて横暴な要求を投げつける。  その背がしっかりと抱き返されて、糸川は間近に感じるぬくもりを嚙み締めた。  人通りの多い駅の構内で、それ以上男同士のラブシーンを繰り広げるわけにもいかず、早々に二人は体を離して場所を移すことにした。  今糸川は以前住んでいたマンションからはかなり離れたワンルームに住んでいるのだが、ここからだと糸井の部屋の方が近いということで、とりあえず糸井の部屋に行くことになった。  もちろん、糸川は糸井の部屋の場所を覚えている。会いに行こうと思えばいつでも行けたし、実際何度も行こうと考えた。でも、あの別れ話でふられたのは自分の方で、糸井は糸川と別れると宣言したのだから、それを無視して会いに行ってはいよいよストーカーのようでさすがにできなかった。  この一年半、仕事が忙しかったのは幸いだった。新任管理職ということで、通常業務以外にも受講しなければならない研修が山のようにあって、残業手当もつかなくなったというのにほとんど毎晩遅くまで居残りだった。それがやっと少し落ち着いたのがこの四月のことだ。  都合よく忙殺されながら、糸川は糸井のことを忘れようとしていた。過去の恋人たちと同じように、なるべく考えないようにして、忘れてしまえば、そのうち次の誰かとの縁が生まれるかもしれない。そうすればきっと思い出すこともなくなるだろう。  そう思っていたのだが、カレンダーで糸井の誕生日の日付が目に入る度、糸井と入った店の前を通りかかる度、糸井と食べた料理を口にする度、どうしてこんなにと驚くほど鮮明に思い出されてしまう。  その度、自分の中で糸井とのことがちっとも過去にできていないことを自覚する。現在進行形で彼のことが心配で気がかりで、そして恋しかった。  どこにいても無意識に糸井のことを探していた。でも見つけられたことは一度もない。だから今日、何の縁もない乗換駅で糸井を見つけて、彼もこちらに気付いてくれたことが、信じられないほどの幸運だった。  乗客の多い車両の隅に向かい合って、二人は立っている。糸井は泣きすぎて少しぼうっとしていて、ずっと糸川のネクタイ辺りを見つめているが、時折視線を上げて糸川を見つめてくる。糸川が微笑み返すと、また泣きそうな顔をして視線を落とす。  黙ったままそんなことを繰り返す二人の手は、糸井の持つカメラバッグの陰でしっかりと繋がれていた。  最寄駅に着いて繋いだ手をほどいて、駅を出て歩き出す。すっかり暗くなった道を、二人は並んで歩く。 「なんだか久しぶりだね」  糸井の部屋に向けて一緒に歩くなんて、いつぶりだろう。もしかしてあの河川敷で糸井を捕まえたときの帰り道以来だろうか。  そんなことを思い返していたら、ぼんやりしていた糸井が急に「あ」と声を上げた。 「? どうしたの」 「あ……いえ。……俺んちの方が近いから、って言っておいて何ですけど。ちょっと今……部屋が」 「散らかってるとかそういうこと? そんなの気にしないけど」  そういえば河川敷からの帰りにも、狭いし片付いていないし、と糸井は念を押していた。結果的に糸川は、糸井の部屋に溢れる植物の数に驚くことになった。が、もうそれはわかっているので今さら驚くことでもない。 「はぁ……まあ、そんな感じです」  そう言って糸井は濁したのだが、いざ着いて部屋に上がると、糸川はまた驚きの声を上げることになった。 「どうしたのこれ!?」  今度は逆だった。あれだけ糸井の部屋を狭めていた植物たちが、棚ごとごっそりなくなっていた。天井から吊り下げられていたハンギングバスケットもない。  植物棚があった場所には、パソコンデスクとプリンターと、まだ組み立てられていない引っ越し用の段ボール箱が重ねて置かれている。 「一時期仕事が忙しくて、全然世話ができずにたくさん枯らしてしまって。それで、もうしばらく手を掛けられそうになかったんで、全部園芸店に引き取ってもらったんです。かわいそうだったから」  床に荷物を下ろしながら、糸井が言い訳のように理由を語る。 「……これは? 段ボール、引っ越す予定だったの?」 「ああ……いつとはまだ決めてなかったんですけど、荷物はまとめ始めようかなと思ってたところで。……どこに、っていうのも全然未定で。どっか、移住者の補助とかしてる自治体を調べたりはしてたんですけど」 「移住!? 仕事は?」 「会社は辞めたんです。今は一応フリーランスで働いてて」  ここが職場だと、糸井はパソコンデスクを軽く叩いた。  以前と比べて閑散と広くなった部屋を見回し、ざわっと、糸川の背中が寒くなる。  地方移住に向けて引っ越す準備をしていた? それが本当だとして、もし今日再会できていなかったら、糸井は知らないうちに二度と会えない場所に行ってしまっていたかもしれないということか。  いや、それももちろん怖い話だ。でも違和感がある。  引っ越しの時期も、移住先も、まだ何も決めていないと言う割に部屋の物が少なすぎる。植物棚がなくなったことにばかり目が行っていたが、よく見ればそれ以外の家具家電も随分減っている。  ……場所を取っていた植物棚を撤去して。他の家財も過剰に断捨離して。会社まで辞めて。  それはまるで、身辺整理のようだ。 「糸井くん、きみ……」  まさか本当に消えてしまうつもりだったのかと、訊きかけて糸川は言葉を飲み込んだ。訊いたところで、肯定が返っても言葉に困るだけだし、否定が返ってもたぶん信じられない。訊かずとも伝わってくるのは糸井の心理の危うさだ。  そのことがもはや糸川にはバレているだろうと思うのか、糸井の表情は神妙に暗い。それが何よりの答え合わせのようで、糸川の心拍は嫌な具合にはね上がる。  俯いてしまった糸井の手を引いて、焦りに駆られてその体をぎゅうっと抱きしめた。  自分の与り知らないところで彼がいなくなってしまっていたらと思うと、本当にぞっとする。同時に、手遅れにならなくて良かったと、心の底から安堵する。 「引っ越すなら、僕と暮らそう」  承諾してくれることを祈るように、糸川は囁いた。 「きみとやり直したい。離れてる間もずっとそう思ってたんだ」  顔は見えないけれど、糸井の体は拒絶を示さず、黙ったまま、糸井は糸川の背中の布地をきつく握った。そして、肩口で嗚咽をもらし始める。 「……ふ……う、うぅー……」  子どものようにしゃくり上げながら泣いて、糸井は何度も頷いた。その背中を宥めるようにゆっくりとさすりながら、やっと糸井が戻ってきたと、糸川は深く息をついた。

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