97 / 102
むすんだその手を 02
芦田と円谷のフォトウェディングは日が暮れる頃まで続き、撮影を終えて二人と別れた糸井は普段立ち寄ることのない乗換駅に降り立った。
とても素敵な時間だった。幸せが溢れていて。笑みの絶えない二人に向けてシャッターを切りながら、糸井もふわふわとした優しい空気に包まれて、久々に穏やかな気持ちで時を過ごすことができた。
その非日常から離れ、今は無機質な駅のホーム。慣れない人物撮影の疲れとともに、暗い内省がどっと背中に落ちかかってくる。
糸川と別れて、一年半ほどが経っていた。
別れてすぐは、芦田の言った通り、仕事に打ち込むあまりキャパシティ度外視の無茶な働き方をしていた。仕事で時間を埋めて、帰ったら疲労困憊で寝るだけで、なるべく仕事以外のことを――糸川のことを――考えないようにして過ごしていた。
その様子を心配した芦田に誘われて、何度か合コンにも参加した。実は糸井はその合コンで、自分と女性との可能性を探っていた。
自身の性的指向を自覚して以来、そもそも女性と接触しようとすらしてこなかったが、もしかして実はバイセクシャルだったりなんかして、女性とも恋愛関係を築けるのではないか。もし自分にも女性を愛することができるなら、母や弟の望む自分になれるのではないか。そう思ったのだ。
でも、やはりそれは無理だった。好意を向けてくれた女性はいた。その人に嫌悪は抱かなかった。優しく接したいとも思った。けれど、三島や糸川に対して抱いたような恋心は、そこには生まれなかった。
その無益な試みを、やらなければ良かったと糸井は痛烈に後悔した。やはり自分に女性は愛せない。弟から死ねば良かったと言われた、無価値な人間であることを再確認しただけだった。相手の女性にもひどい不義理をした。自分のために浪費させてしまった時間を、とても申し訳なく思った。
そこから、糸井は一気に希死念慮を強めていった。
普通の男女の恋愛もできない。家族の望む自分にはなれない。けれど、もう隣に糸川もいない。その手は自分から離してしまった。
ならばもう、終わりでいいんじゃないだろうか。
一旦胸に湧いてしまったその思いを、消し去ることはとても難しい。だって、それが最善のように思われるのだ。弟からも、母からも、こんな自分は望まれていない。愛した人もいない。それなら、いなくなった方が世のためではないか。
ならば早速、と衝動的に思う瞬間があり、しかしふと現実的なことを考え始める自分がいる。今突然死んだら、仕事仲間に迷惑をかけるのではないか。せめてきちんと引き継ぎをして、後の業務に差し支えないようにしなければ。
そこで糸井は会社を辞めることにした。二ヶ月の引き継ぎ期間を設けて、不備なく同僚へ業務を割り振っていった。なぜ辞めるのかと問われることが頻繁にあったので、独立してフリーランスになると、そんな予定もないのにそれらしい理由をでっち上げた。それならば応援すると、同僚たちが好意的に送り出してくれたのが心苦しかった。
そして誤算も生じた。これまでほとんど専属で装丁を担当してきた作家の一人が、フリーになってからも引き続き仕事を受けてほしいと言い出したのだ。しかも独立後の不安定な時期には定常的に仕事があった方がいいだろうと、知人を介して仕事を斡旋してくれたりもした。結局、無責任に投げ出すことのできない仕事が手元に残ってしまうことになった。
慌てて独立開業の勉強をして、数ヵ月の準備期間を経て、なんとかフリーランスとして仕事を始めて。初めてだらけの新生活はただただ慌ただしく、余計なことを考える暇もなく忙しく時間が過ぎていった。
仕事もそろそろ軌道に乗る頃で、状況的にはもうそう簡単には死んでいられない。
それでも、時折精神が深く落ち込むことがあり、そんなときには普段からは考えられないほどに視野が狭窄して、他の事情を考慮できなくなってしまう。
ホームに、特急通過のアナウンスが流れる。視線が、ホームドアの向こう側に救いを求めてしまった。
――あの柵を乗り越えて、向こう側に飛び込んだなら。
そんなことを考えて、爪先がじりっとコンクリートをなじる。そのまま軽々とホームドアを越えてやろうと、駆け出す自分を想像する。
けれど、肩に掛けたカメラバッグのずっしりとした重さが、糸井を現実に引き戻した。
(……今日は、だめだ)
そうだ。芦田たちの祝いの日に水を差してしまうことになる。帰ったらカメラのデータを移して、あの二人の幸せな時間をとびきり美しく編集して、製本デザインを作らなければ。出来上がったら渡しに行こう。喜んでもらえるといい。
そしたら少し時間を置いて、今度こそ仕事を全部辞めて、皆が忘れた頃にでも。こんな人の多い駅なんかじゃなく、海か川か、どこか事故に見えるような場所がいい。
ゴオッと音を立てて目の前を通過していく特急を見送りながら、そんなことをひっそりと計画する。
けれどそんなときになぜか、いつも耳に返る声がある。
(ああ……また)
最後に聞いた糸川の言葉。
――愛してる。
思い出す度、何度でも反省する。愛されていたのに、愛せていなかった。
あれからずっと考えている。どうすればよかったのか。どう変わらなければならないのか。変われたところで、もう糸川との関係は戻せないけれど。
離れて自覚したのは全く消えない恋心。いつかまた会えたら、をずっと考えている。
ぼんやりしていたら、乗車予定の電車が間もなくホームにやってくるというアナウンスが流れた。改めて列に並ぼうとして前を向いた、そのときだった。
(――え)
何気なく見やった、向かいのホーム。そこに、小振りのキャリーケースを携えた糸川がいた。
見間違いかと、何度も目を瞬いた。互いにほとんど利用することのないはずの駅だ。まさかいるはずがない。
けれど向こうにいる黒縁メガネのスーツ姿はどう見ても糸川で、糸井は無意識に息を止めてあちらに見入る。すると、ちらりと腕時計を覗いてから顔を上げて前を向いた相手もこちらに気づいて、目が合った気がした。
「いとか……」
聞こえもしないのに名を呼んで、腕を上げようとした瞬間、相手の電車がホームに入ってきて、その姿は遮られてしまった。
間を置かずこちら側の電車もやって来て、降車する客が吐き出されたあと、糸井の並ぶ列も前から順に吸い込まれていく。その列から、糸井は横に逸れて抜けた。
無駄なことをしている。きっとこの電車が走り去ったあと、向かいのホームに糸川はいない。あの電車に乗ったはずだ。
わかっていても、糸井は目の前の電車に乗る気にならなかった。
発車を告げる音楽が鳴り、ゆっくりと電車が動き出す。向かいの電車も一足先に動き出した。やがて両方の電車が反対方向へ走り去り、視界が開ける。
「……糸川さん」
そこに、同じく棒立ちでこちらを見つめる、一年半ぶりの糸川の姿があった。
「っ……!」
近くの階段に向けて走り出したのは、二人ほぼ同時だったと思う。さっきはあれほど肩のカメラバッグが重かったのに、階段を二段飛ばしで駆け上がる足は驚くほど軽い。だが残念ながら運動不足の体は、すぐに息を切らせてしまう。
ゼエゼエと、荒い息で階段を上りきると、その先に同様に肩で息をした糸川が立っていた。
完全に目を合わせたまま、二人は手を伸ばせば触れる距離に歩み寄る。
「……会えちゃった」
ずれたメガネを押し上げながら、前にも聞いたような台詞を呟いた糸川に、糸井は笑おうとして失敗した。
「ごめんなさい……」
謝罪とともに、涙腺が決壊する。
「ごめんなさい、俺……ずっと、ずっと後悔して……!」
子どものように顔をくしゃくしゃにして、泣きじゃくる糸井の肩に手をのせ、糸川は「いいよ」と囁いた。そしてその肩を引き寄せ、糸井の背を両手で強く抱く。
「……いいから、俺んとこ戻ってこい」
耳元で低く響く、命じるような糸川の声。
糸井も縋るように、その背を抱き返した。
ともだちにシェアしよう!

