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むすんだその手を 07
父に転居の連絡を入れてから、早々に糸井家訪問の場が実現した。
家族の休みと二人の休みがちょうど重なった日曜、糸井たちは朝から新幹線で糸井の実家へ向かう。その前日から、糸井はひどく緊張していた。
転居先の住所と、挨拶に帰省したい旨を送ると、糸井の父は祝いの言葉と、日程を調整するから少し待つよう返信を寄越した。帰省の候補日を連絡してくれたのはその二日後で、その間に家族間でどんな会話がなされたのかは知る由もない。『帰ってくるのをみんなで楽しみにしているから、気をつけておいで』と穏やかな父の言葉で綴られていたけれど、実際はそうすんなりと決まった場ではなかっただろうと思う。
これから実家で行われるやり取りを想像して、糸井の心は暗く沈んだ。
また弟から同じ言葉を投げつけられたとしたら、自分は耐えられるのか。命を粗末にするようなことを、また考えたりしてしまわないだろうか。
それに関しては何度も考えたが、糸川との関係が戻った今なら大丈夫だと思うことができた。何があっても糸川と一緒に生きていくのだと、気持ちは決まっている。もう、自分のことは何と言われても構わない。一度強い言葉をぶつけられているし、不孝をしている自覚はあるので自業自得だ。
けれど、糸川が不当に罵られたりしたらと思うと胸が軋む。
――糸川さんは俺に巻き込まれただけなのに。
暗くなるに任せてそう思いかけて、糸井ははっとした。
たぶん、そんなふうに考えてはいけないのだ。それでは自分を好いてくれた彼の気持ちを蔑ろにすることになる。むしろ進んで巻き込まれに来てくれた糸川は、糸井の犠牲者などではない。
実家の前に着いたもののなかなかインターホンを押せないでいた糸井は、思い切るように背後の糸川を振り返った。
散髪だけはしたけれど服装はカジュアルな糸井に対し、糸川は暑いのに長袖のワイシャツの袖ボタンも留め、襟元まできっちりネクタイを締め上げている。糸井とのことをちゃんとしたいのだと言っていた意思を体現してくれている糸川は、それはもう見惚れるばかりに男前だ。その糸川が、振り返った糸井に軽く笑いかけてくれる。
その笑みに背中を押され、意を決して糸井はインターホンを押した。
「はーい」
伝えていた時刻通りだったので待ち構えていたのか、すぐにドアが開いて父が顔を出した。
「やあ、いらっしゃい。暑い中ご苦労様」
柔和な父の出迎えに、糸井は少しほっとする。
「あの、ただいま。ええと、こちらは」
何と言って紹介するのかシミュレーションしていたはずなのにすっかり頭から抜けて、言い淀んだ糸井の横に糸川が進み出た。
「文明さんとおつき合いさせていただいております、糸川宗吾と申します。今日はお忙しいところお時間をいただきありがとうございます」
その第一声に、うわ、と糸井は感嘆した。固すぎず砕けすぎない絶妙な表情で、端的に交際の事実を告げ、名を名乗って、相手に取らせた手間を慮る。これは好感度が上がるしかない。
「あ、いえいえ、こちらこそわざわざ来ていただいて。私、文明の父です。どうぞ上がってください」
糸川の完璧な第一印象に圧倒されたのか、なぜだか父の方が顔を赤くして緊張し始めている。出会った頃は表情筋の存在を疑うほど無表情だった糸川だが、大阪赴任を経て中間管理職となり社会に揉まれまくった成果なのかもしれない。
玄関を上がり、廊下を進んで、通されたのは仏間になっている和室だった。エアコンの効いた涼しい室内には既に母と弟の明信が座っていて、その向かいに座布団が二つ用意されている。
「あの……ご無沙汰、してます」
座る前に二人に声をかけると、母は目を合わせないまま小さく頷き、明信は気まずそうに上げかけた顔を俯けた。
その二人の前に糸井は座り、その隣に糸川も続く。
「ごめん、随分前に人と同居するって言ってた件、やっとこの間引っ越しが住んだから。改めて挨拶に寄らせてもらいました。こちら、一緒に住んでいる糸川宗吾さんです」
「糸川と申します。よろしくお願いいたします」
畳に手をついて頭を下げた糸川を見て、特に明信の方が驚いているのがわかった。どんな男を想像していたかは知らないが、どうやら出来るビジネスマン然としたこの糸川とはかけ離れた想像をしていたのだろう。
「あの、兄貴と、ほんとにつき合ってんすよね? その、恋愛的な意味で」
疑うように問われ、糸川はごく薄く笑んではっきりと「はい」と答える。
「ご挨拶が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。文明さんとは、四年ほど前から親しくさせていただいております。今日は、引っ越しと、パートナーシップ宣誓の報告に参りました」
このとき、糸川は宣誓の『相談に』とは言わなかった。家族の意見がどうあれ、宣誓はするのだと、二人の間でもう決めている。
「パートナーなんちゃらって、あの、同性婚の代わりみたいなやつだよな?」
聞いたことはあるが縁遠いと思っていた制度の名に、明信は当惑して糸井を見た。
「うん。そう」
「兄貴たちは、マジで結婚したいと思ってるってこと?」
「うん」
「……ガチかぁ」
そんなに大ごとだとは思わなかった、という顔で明信は顎を擦る。同性同士だということで、そんな真剣なつき合いをしているとは思われていなかったのかもしれない。
まだどこか戸惑うばかりの明信の前で、糸川は座布団を降りて再度畳に手をついた。
「僕は文明さんと、一生一緒に生きていきたいと思っています。ご家族の皆さんが彼の過去を支えてくださったことに、心から感謝しています。今後は、僕が必ず彼を支えます。どうぞ、よろしくお願いいたします」
認めてほしいとも、許してほしいとも、糸川は言わない。ただ決意を表明して、よろしくと頭を下げる。
不遜だと、家族を怒らせてしまうかもしれない危惧も抱いてはいた。けれど、認められなくとも許されなくとも、糸井を諦める気は毛頭ないので、糸川にはこんな言い方しか見つからない。
「……本当に結婚の挨拶みたいね」
糸川が頭を上げないうちに、ぽつりと、今まで押し黙っていた母が口を開いた。はっと、糸井も糸川も母の顔に視線を走らせる。
二人を順番に見つめて、少し疲れたように母は息をついた。
「宣誓? については、好きにしていただいて構いません。二人ともいい大人だもの」
寛容な言葉に、一瞬糸井は気を緩めかける。けれど、母は硬い表情で目を伏せた。
「でも悪いけど……祝福する気もない」
明確な拒絶に、糸井も糸川もぐっとくちびるを引き結ぶ。
「……母さん」
後ろから母を諌めるように声を上げたのは父だった。きっとこれまでも、前向きに母を説得してくれていたのだろう。
その父の声を振り払って、母はつらそうに額を押さえる。
「だって、どうしても理解ができないの。昔、文明に普通じゃないことが起こってしまったのは事実。でも、その後の私たちが不十分だったから、文明を普通に戻してあげられなかったんじゃないかって、私たちが悪かったんじゃないかって、そう思ってしまうの。そう思うのが辛いから……、文明が同性をパートナーに選ぶことを、受け入れることができないの」
母が発した、初めて聞くその本音に、糸井は動揺した。
単純な同性愛嫌悪 なのだと思っていた。息子が同性愛者であることが、ただただ受け入れられないのだと。
でもそれだけではなかったのだ。母は、糸井が同性愛者になってしまったことへの責任を感じている。記憶をなくした長男へのサポートに不備があったのだと後悔して。
「……身勝手な母親でごめんなさい」
糸井が何も言えずにいるうちに、母は顔を隠すようにして立ち上がり、部屋を出ていってしまった。父はそれを追いかけ、部屋には糸井兄弟と糸川の三人が残される。
「あぁ……悪い、母さんが」
沈黙の気まずさに耐えられない明信がバリバリと後ろ頭を掻きながら、感情的な母の退席を詫びる。感情的になるならこの弟の方かと思っていた糸井には、明信の冷静さが意外だった。
「えと……糸川、さん?」
その明信が、遠慮がちに糸川の名を呼んで向き合う。
「はい」
「たぶん……母さんも俺も、兄貴にはなんかこう、分かりやすい “普通の幸せ” みたいなもんを持たせたかったというか。そういうのを、他の人と同じように、普通に、当たり前に持っててほしかったんだ。俺が、結婚して嫁子どもがいる今がすげえ幸せだから、余計に。……わかります?」
「ええ、わかります」
「なんか、その期待とのギャップがでかくて……兄貴がそれで本当に幸せなのかどうかが判断つかなくて、心配で、わかったって言えねえんだと思う。それは俺もやっぱ、まだ全然理解できてねんだけど」
どう言えば良いのか迷いながらの弟の言葉は、けれどその難しい理解をしようとはしてくれていることを糸井に伝える。
「けど、あんたがマジでうちまで来て、一生兄貴と一緒にいるとか言うし、それを兄貴も望んでるってんなら、じゃあまあ頑張れって、言うしかねえんかなって思い始めてるとこ。……でもまだ全然整理がつかん。悪いけど今はまだここまでだ」
そして、腕組みをして眉をしかめ、うーんと空を仰ぐ。
「……いつか兄貴が、あんたといてめちゃくちゃ幸せそうだって納得したら、そんときはちゃんと祝福できるんじゃねえかな」
だから今ではないのだと、そんなふうに明信は糸川へフォローを入れた。
「肝に銘じます」
明信の気遣いに、糸川はふっと柔らかく笑んで頷いた。
そして明信の視線が、糸川から糸井へ移る。殴られたあのときからまともに対峙するのは初めてで、どっと心拍が上がる。
けれど緊張した糸井の前で、明信はいきなり「ごめん」と頭を下げた。
「麗奈に叱られた。兄貴の幸せを望んでたんじゃないのか、それとも俺らのエゴを押し付けたいだけなのかって。好きな人といて兄貴が幸せなら、それをどうして邪魔するような真似ができんだって」
小さくゴニョゴニョと、「叱られたっつうか殴られた」と付け加える。なるほど、今日の明信が思いの外理性的に会話してくれているのは、麗奈の口添えがあったからか。糸井も痛い思いをしたが、あの奥さんからの殴打もなかなか強烈そうだ。
「俺は……たぶん母さんも、兄貴が幸せなら、それでいいんだよ。……兄貴今、ちゃんと幸せなんだよな?」
確認するように問う明信はまだまだ迷いのさなかにいるように見えて、はっきりと頷きながらも、糸井は急かずに笑いかけた。
「いいんだ、無理しなくて。俺たち男同士だし、万人に理解してもらえるとは思ってない。理解できないままでもいい。わかろうとしてくれるだけで充分嬉しい」
伝えた糸井の前で、明信は少し、目を潤ませたように見えた。
「……酷いこと言ってごめん」
謝罪があのときの暴言に対してだということはわかっても、糸井の胸に刺さった楔はそう簡単には抜けない。それでも、その一端は少し溶けたような気がして、糸井は何も言わずにただ微笑んだ。
玄関の扉が開く気配に、二人のいとまを察した父が外まで見送りに出てきた。母の非礼を詫びる父へ、『母には何ら責任はない』という旨の言伝てを頼んだところ、父はやんわりと首を横に振った。
「それはまた今度、母さんに直接伝えてやりなさい」
そして糸川に、文明をよろしく、また二人でおいでと笑いかけ、辞去する二人に手を振った。
バス停で駅に向かうバスを待つ間、糸井は「はぁー」と深く息をつき、留めていたシャツの一番上のボタンを外した。
最悪の結果にはならなかったものの、祝福してもらえるまでには至らなかった。二人の門出に若干の水をさされた形だ。
「……すみません、やっぱり母の理解は得られませんでしたね。せっかくこんな田舎まで来てもらったのに」
隣で糸川も、ネクタイを緩めてボタンを外し、両腕の袖を肘まで捲る。
「いやいや、大収穫でしょ。すごい前進だし、行きつ戻りつだとしても、動くならいいじゃない」
しょげた糸井に対し、糸川の顔は明るい。それを見ると、糸井の気持ちも不思議と上向いてくる。
結果はどうあれ、とりあえず家族の報告という大きなミッションは終えた。その先の視界は開けているようないないような、とにかく後は二人で進んでいくしかない。
「……パートナーシップ宣誓、本当にするんですか?」
もう互いに腹は決まっていて訊くまでもないのに、戯れに糸井は尋ねる。
「するよ」
面白いほどの即答。
「糸川さん、簡単には俺のこと見放したりできなくなりますよ?」
調子に乗って問いを重ねた糸井に、糸川はにやりと片方の口角を上げた。
「わかってないね、きみは」
人の悪い笑みを浮かべ、糸井の鼻先に人差し指を突きつける。
「きみにだって、僕に対する責任が発生するんだよ。僕が事故で意識がなかったら手術の同意書を書くのはきみだし、僕が死んだら生命保険金を受け取るのも後の始末をするのもきみなんだよ。僕がきみを負うだけじゃない、僕をきみに負わせようともしてるんだ。これはなかなか重たい話だよ」
幸せなばかりではない、現実の人生の話をして、糸川は腕組みをする。
「どう? きみの方こそ嫌になってない?」
試すような声。糸川は過去の恋人たちから重さを疎まれてきた人だ。
でも糸井にしてみれば、人生を預けると言ってくれる糸川のそれは自身に対する大きな信頼で、それを受け取れることは即ち幸福に他ならない。
「嫌どころか。むしろ光栄です」
土台を失ったと知ったあのときから、糸井はずっと、自分の根を張り直すための居場所を探してきたような気がする。その場所が糸川の傍らであったのだと、今ならたぶん、自信を持って言える。
この人の隣で、俺は俺の人生を根差していく。
心が決まってしまうと気持ちは軽く、大好きな人の愛にくるまれて、糸井は晴れやかに笑った。
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