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第1話

 朝が来てしまったことには、気がついていた。  カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、細い光のラインをフローリングの床へ伸ばしている。布団にこっぽりと埋もれた大輔(だいすけ)は、眠気に抗えず、重いまぶたをふたたび閉じた。  秋の朝は静かだ。ラグの上に置いたベッドの中は暖かく、抜け出すのが嫌になる。  もぞもぞと動いて、寝返りを打った。キングサイズのベッドは端までが遠い。ついさっきまで同じ布団で眠っていた男の姿がなく、そっと手を伸ばしてみた。  枕は沈んでいる。しかし、あるはずの体温が消えていた。  枕にもシーツにも残っていない。  たしか、携帯電話のアラームを止めていたはずだ。田辺(たなべ)はあくびをしながらベッドを出た。一緒に起きようとした大輔に「まだ寝ていて、いいよ」と二度寝を促した声は、朝のまどろみのように柔らかく優しかった。  大輔は言われるがままに転がり直し、おそらく三十分ほど寝ただろう。  三度寝はさすがにまずいと、目をこすりながら起きあがった。身体が重だるいが、それは寝起きで覚醒しきっていないせいだ。セックスの名残じゃない。  昨日の夜は、最後までしなかった。  翌日の大輔が出勤だと知っていた田辺が遠慮したのだ。  無理をすれば、受け入れる側の腰やら尻やらは、一日中、違和感に苛まれる。もう何度も経験している大輔だったが、高まった興奮の収めどころを求め、『無理をしなければ大丈夫だ』と言い張った。  けれど田辺は辞退した。『加減ができそうにもない』と、紳士的な笑みを浮かべながら言われ、大輔はハッと息を呑んだ。  情熱的な言葉とは裏腹に、涼しげな目元の美しさが色男すぎて、必要以上にドギマギしてしまった。見つめられるだけで、相手がどれぐらい自分を好きでいるか、身に沁みるほど理解できる。 「加減……か」  昔のことを思い出して、大輔は失笑した。  どれほどひどく、どれほど手加減なく、嫌だと言った大輔の身体をもてあそんできたのか。  本人にも自覚があるから、いっそう紳士的に振る舞うのだ。悪くはない態度だと思う。 「……朝から、悪い顔だな。ガサ入れでもあるの?」  ふいに田辺の声が聞こえた。開いたドアへ視線を向けると、爽やかな顔が見えた。 「朝ごはんの用意ができたけど、シャワーを浴びてくる?」 「そうする。……まだ眠い」  ベッドから立ちあがった大輔は、バリバリと頭を掻く。大きくあくびをしながらドアへ向かった。すれ違いざま、パジャマを着た腰に、田辺の腕が回る。引き寄せられ、 「欲張るからだ」  と言われた。顔を覗き込まれ、当たり前のようにくちびるが近づいてくる。  大輔は戸惑った。寝起きで口の中がネバついているから、舌を入れられたくないと、一瞬考える。嫌になるほど現実的だ。  チュッと軽くキスをした田辺は、わかっていると言いたげに、フレンチなキスを繰り返す。そうなると、もっと深くくちびるを合わせたくなるのは、大輔の方だ。  身をよじって、田辺の腕の下から背中へ手を回す。肌触りのいいボートネックのカットソーに、リラックス感のあるワイドパンツ。爽やかなコロンの香りが心地よく感じられ、大輔が首を傾げたのが合図になる。  田辺が大輔の上くちびるを、大輔は田辺の下くちびるを吸う。交互に吸い合って、やがて、現実的な生理現象のなにもかもを忘れてしまう。  舌が柔らかく絡み、大輔は身震いした。  田辺に抱き寄せられ、廊下の壁へと追い込まれる。 「……してもいいの」  柔らかい声は、時間を計算している。濡れたような雰囲気が性的で、大輔はかすかに喘いだ。 「んなわけ、ねぇだろ……」  そうは答えたが、互いの腰は微妙に押し合っている。 「時間……」  大輔がつぶやくと、田辺はいたずらっぽく微笑んだ。そういうときの顔は抜群に整って見える。理知的な瞳がイキイキとして、心底から楽しげだ。 「一緒に、シャワーを浴びる時間はある」  冷静を装った田辺の声が弾んで聞こえ、大輔は眉根を引き絞った。 「わざとだろ」 「なんとでも言ってよ。ベッドに戻らないだけ偉いだろ?」 「どうだかなぁ。……サカってるとこ悪いけど、俺はトイレ」  キスで霧散していた生理現象が舞い戻る。寝起きで膀胱が破裂しそうだ。腰の昂ぶりも、朝の生理現象による勃起だから、用を足せば萎えるに違いない。 「……行っていいよ」  残念そうに大輔を解放した田辺は、おとなしく台所へ足を向けた。背中を呼び止めた大輔は、トイレに向かいながら言う。 「すぐに行くから。シャワー、温めておいて」  自分でやれとは言われない。大輔の誘いだと理解している田辺の返事は、ひそやかな笑い声だ。  ドアを開けたままで用を足した大輔は、ふとおかしくなった。小さく、声に出して笑う。  非番の夜、田辺のマンションに泊まるようになって四ヶ月ほどが過ぎた。田辺はなるべく休みを合わせ、一緒に過ごしてくれる。しかし、どうしてもはずせない用事があれば、大輔が留守番をして過ごすこともあった。  田辺のマンションで大輔が知らない場所はない。どこでも自由に行き来して、なんでも好きにできる。テレビのリモコンをダイニングテーブルに置き忘れても、花瓶の位置を変えても、クローゼットを探っても、田辺は文句を言わない。  そういう関係になったと気づくたび、大輔は笑えてしまう。  ありえない事態が起こっている。  大輔にとっては、自宅よりも居心地のいい部屋だ。広くて高級感があって快適だから、だけじゃない。部屋の隅々にまで田辺の美意識が反映され、そこに少しずつ、大輔への気づかいが見え隠れしているからだ。  好みのビールが必ず冷えているとか、すぐに食べられるレトルトの品揃えがいいとか、着替えが用意してあるとか、大輔がいないときの行動が想像できてしまう。  そして、田辺は無理に身体を合わせようとしなくなった。  ふたりの間に、次の約束があるからだ。今夜でなくても抱き合いたくなれば会える。  とはいえ、性的なことが皆無になったわけじゃない。  昨晩だって挿入しなかっただけで、互いにあれこれとしたし、されたし、させられたし、楽しんだ。  用を足し終わった大輔は、喉に息を詰まらせた。思い出したついでに、夜のうちに味わった強烈な欲情がよみがえったからだ。ブルブルッと髪を振り、トイレを出て浴室へ向かう。  浴室の床を叩くシャワーの音が、半透明の扉越しに響いている。  脱衣カゴを覗くと、田辺の衣服が入っていた。その上に、自分の脱いだ衣服を投げ込み、ドアを開ける前に小さく息を吸い込んだ。  昨日の夜、田辺に指を入れられた尻の穴が、どことなくむずがゆい。して欲しくて疼いているのかと思うと、ドアが開けられなくなる。  大輔はうつむき、顔を歪めた。高揚感と戸惑いがいつものようにごった混ぜになり、どういう表情で感情を飲み込むべきか、考えてしまう。無表情ではあまりに冷淡だ。  悩んでいるうちにドアが開いた。顔を見せた田辺が笑いながら身を屈める。 「どうしたの」  立ち尽くす大輔に、驚くでもない。 「……別に」  ぶっきらぼうに答えると、腕を引かれた。湯気が溢れた浴室へ連れ込まれる。 「顔が赤い。熱でもあるなら、今日は休めば?」  悪魔のささやきだ。風邪なんてひいていないことはわかっているのに、一緒にいられる時間を引き延ばそうとしてくる。 「看病してあげるよ。添い寝付き」 「ばーか、注射付きの間違いだろうが」 「必要なら……」 「必要じゃない」  そっけなく答えた頬を、両手で包まれる。またキスが始まり、温かなシャワーが、大輔の背を打つ。

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