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第6話
「それはさ、あの人に言えないから。新条に頭さげて、靴の裏を舐めて助けてもらったなんて」
「そこまでさせないだろ、佐和紀さんも。……おまえ、まさか」
岡村がいきなり気色ばみ、田辺はそっと片手のひらを向けた。
「ない。そんなことはさせてない」
「どんなことならさせたんだ」
じっとりと睨まれて、とたんに居心地が悪くなる。田辺の行いの悪さを熟知しているくせに、岡村は、佐和紀が絡むと人が変わったようになってしまう。
「いやらしいことを想像しているから、岡村には言わない」
「はぁ?」
「それより、別の策を考えてくれよ」
「いまは無理だろ」
岡村は軽いため息をついた。
「西の動きが不穏だから。……忙しいときに、余計なことを言わない方がいい」
不機嫌な岩下ほど恐ろしいものはないのだ。まるで鼻をかむティッシュのように、大輔ごと悲惨な目に遭わされておしまいになる可能性も否定できなかった。
鬱々とした気分になり、田辺は声をひそめながらフォークを握り直す。
「高山が割れるって話? こおろぎ組にいた本郷(ほんごう)が、西からクスリのルートを引っ張ってくるって噂、聞いたけど。あんな話、マジなのか?」
「なに、それ。どこと組むんだよ……」
ありえないと言いたげに、岡村はワインを飲んだ。田辺も聞きかじっただけの情報だ。真偽はわからない。
グラスをくちびるから離した岡村が言う。
「あの男も無茶なことを考えるよな。どう考えても、逆恨みだろ」
本郷は佐和紀の古巣である『こおろぎ組』の若頭を務めていた。佐和紀が結婚する前に一度、こおろぎ組を離れ、結婚後に、身を寄せていた大滝組から戻っての人事だ。
こおろぎ組が本格的に衰退したのは、いまは大滝組若頭にまで出世した岡崎(おかざき)が、構成員のほとんどを連れて組を出たからだ。佐和紀は最後のひとりになるまで残り、組長が病に倒れたことで、仕方なく身売り同然に岩下のもとへ嫁いだ。
そのあと、こおろぎ組を離れていた構成員たちが舎弟を連れて戻った。その中に、本郷がいたわけだ。
以前よりも勢いを増したことが裏目に出たのだろう。欲を出した本郷は反岡崎派に与して動き、岡崎本人と、その舎弟である岩下に潰された。
関東を追い出されて西へ流れたが、岡崎派への恨みを持ち続け、厄介ごとの火種を持ち込んでくる可能性は高い。
「おまえの大事な『佐和紀さん』が、悲しむんじゃないのか」
田辺の言葉に、岡村の背筋がスッと伸びる。
本郷は岡崎を追い落としたかっただけだ。こおろぎ組への不利益を望んだわけじゃない。佐和紀にとっては同じ釜の飯を食った仲間であり、情に厚い心中は穏やかでないはずだ。
しかし、岡村はさらりと答えた。
「そういう感傷は、本郷が組を出された時点で終わってると思う」
「意外に冷たいな」
新条佐和紀という人間は、もっと湿っぽい感傷を引きずるタイプだと思っていた。
「そういう人だ」
柔らかな口調で答えて、岡村はあごを引くようにして背筋を伸ばした。
岩下と結婚した佐和紀は、どんどん田辺の知らない人間になっていく。話を聞くたび、街で会うたび、頭の中にある佐和紀が上書きされ、知った姿と乖離していくようだ。
田辺に対して金になる仕事はないかと尋ね、美人局でいいように扱われていた過去もすでに遠い。『新条佐和紀』は、確かに『岩下佐和紀』になった。
岡村の顔から視線をはずし、田辺は窓の外を見た。
秋の風に吹かれ、木立の葉が揺れている。
愛する者を見つけたとき、人は変化を強いられるのだ。自分より見劣りする相手を好むわけがないから、成長しなければ相手を振り向かせることも、気持ちを繋ぎ続けることもできない。
よりよく、よりしたたかに。すべては大輔のために、と心の底で繰り返し、田辺はくちびるを引き結ぶ。
岡村はほんのわずかに肩をすくめて言った。
「アニキに対して策を巡らせても無駄だろ、田辺。あきらめて、できる限り、法に触れないシノギに移行しろ」
現実的で、もっともな意見だ。しかし田辺は反応しなかった。受け入れたくない提案だから、聞かないふりで無視をする。
あきらめや妥協が最善策だとしても、大輔を相手に、みっともない姿は見せられないのだ。岡村だってわかっているだろう。同じ男だからこそ、絶対にカッコをつけなければ落胆させてしまう瞬間がある。
大輔と出会って田辺が変わったように、佐和紀との出会いで岡村は変わった。朴訥を装い、目立つことを嫌ってきた男が、いまでは仕立てのいいスーツをピシリと着こなし、大きなシノギを任されている。その経済力をもってして、これからの佐和紀を助けるつもりだろう。そうでなければ、日陰を好んだ男が表舞台に立つはずがない。
それは、恋と呼ぶだけでは足りないような感情だ。焦がれる想いと欲情を分別しても傾き続ける心に名前はない。まるで原始的な信仰のように、岡村は佐和紀を、田辺は大輔を、ただひたすらに想っている。
だから、相手によって変わっていく自分に戸惑うこともない。
翌日の体調を気づかって手を出せなかったり、週末の約束が待ち遠しくて日を数えてしまったり。以前の自分なら考えられなかったことが、新鮮な気持ちで胸の中に滑り込んでくる。
金を稼いで岩下に追いつくことだけがすべてだったのに。いまはもう、距離を置くことばかりを思案している。
田辺の人生の中心にいるのは、大輔だ。岡村が佐和紀を支えようとするように、田辺もまた、大輔を支えたいと思う。
そのためには、岩下から離れなければならない。いつどんなことに利用されてもおかしくない相手から距離を置き、大輔の心と身体と生活を守るのが願いだ。
いまとなってはもう、田辺が利用されても大輔を傷つけることになる。
前途は多難だ。付き合いの方法を間違えれば、岩下ほど恐ろしい相手はいない。
ため息をこぼしかけて、腹の底に力を入れた。
弱気になっても、事態は好転しない。人生の輪はいつだって、自分自身の手で回さなければ、振り回されるだけでなにも見えなくなる。
それを教えてくれたのも岩下だったと、色づく木立を眺めながら思い出す。田辺はひっそりとまつげを伏せた。
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