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第1話 恋と別れの季節
霧雨に濡れた手の中の薔薇は、ローズブレイド公爵家の長子、オデル・ヴィーガ・アトウッドの黄金色の目には、心なしか色褪せて見えた。
白髪と見紛うまっすぐな白銀の髪を肩のあたりで切り揃えたオデルは、オメガの処女地であるうなじが覗くのもかまわずに俯いた。誘っていると見られがちな白く細い首筋を晒し、ビスクドールと評されがちな表情の乏しい顔を憂に沈ませ、薄い唇が食べごろの桃のように色づいていることにも無頓着だった。
玄関を数歩、入ったところで繋いだバレット・アシュリーの手が冷たいのは、わざわざ雨の中、この薔薇を届けにきてくれたからだ。だがオデルは、今日は到底、心から喜べなかった。
数週間前まで優雅なざわめきに満ちていた居間は静まり返り、使用人たちも、それまで何かと途絶えることのなかった客人の気配もない。邸はがらんとしていて、マントルピースの上に飾られた極東から流れてきた青磁の花瓶も、その他の家具もすべて差し押さえられ、競売にかけられることが決まっていたが、今朝がた、それを阻む通知が届いた。
レナード・アルテア・オルティス——イングラム男爵に求婚された。
今年に入り、正式にイングラム男爵位を受けたレナードは、今日、ようやく十八歳になったばかりのオデルよりも七歳年上の、社交界の寵児だ。唸るほどの財を持つ傍ら、当人に驕るところがなく、女王陛下の愛馬の調教師から身を立て、投資家へと転身し、一代で巨万の富を築き上げ、先日、貴族に叙されたばかりのアルファだった。イングラム男爵の隆盛をやっかむ者からは「金で爵位を買った男」という不名誉なレッテルが貼られていたが、先日、顔を合わせたレナードは、苦笑とともに「確かに、そう言われても致し方ないですね」と誠実そうな表情を困ったように歪めただけだった。
その彼が、不良となったローズブレイド公爵家が所有する債権の半分を買い取ったとの報せに、オデルをはじめとする公爵家の者らは皆、首の皮一枚が繋がった状態だった。
オデルは女王陛下の覚えもめでたく、また、長くローズブレイド公爵家を継ぐ身として、いずれアルファに覚醒すると信じられ、育てられてきたが、思春期に入りオメガだと判明すると、世界の色が変わるほどの衝撃と失望を周囲に与えた。
この世に存在する三種類の第二性別、アルファ、ベータ、オメガは、神話の昔から隠然と存在し、今日の階級社会を形成している。支配階層を占めるアルファ、非支配階層に多いベータ、たとえ貴族に生まれても一人前の扱いを受けられず、被差別者として社会の底でひっそりと生をまっとうするしかないオメガ。この三種類の第二性別は、第一性別として男女の別を与えられた人が、同じく神から賜りしものとして尊ばれている。
代々、支配階級を独占するアルファは、課せられた高貴なる義務を進んで果たしてきた。帝国の行く末を担う彼らは能力的にずば抜けた者が多く、立身して成功者となる者は、概ね必ず「アルファであるべきだ」とさえ信じられている。対して、数を恃むベータは能力的に平均値を示す者が多く、集団を形成することで長く労働者階級を形成してきた。しかし、近年に入り一部の商才を持つベータが台頭しはじめ、ジェントリと呼ばれて貴族階級の末席に食い込みはじめているのも事実だ。
一方、最も希少なオメガ、特に男性のオメガは「一生のうちに一人、出会うかどうか」と言われるほど稀で、たまにアルファの家系から突然変異体として誕生し、発情期が訪れるとアルファを誘引するフェロモンを出すことから、未だに被差別階級として社会の底で揺蕩っているのが現状だった。男性オメガとて、より優秀なアルファを育む土壌であるわけだが、一人前としてその社会的地位が認められることはない。どころか、特に貴族階級に誕生する男性オメガは、その希少性から存在そのものが醜聞として扱われがちであった。
オデルがオメガだと判明すると、オデルの父である現ローズブレイド公爵家の当主が、多額の財にものを言わせ「悪い噂」の類をもみ消し、静めることに躍起になっているのを知りながら、オデルは何も言えなかった。加えて、無理に事業を広げようとおこなった無謀な投資が裏目に出て、莫大な借財を抱え破産寸前の没落貴族になるまで、その経済状態を把握し忠告する者もまた、オデル自身を含め、誰もいなかった。新興貴族のイングラム男爵家と、伝統と格式のあるローズブレイド公爵家では、本来は家格が釣り合わない。が、帝国本土の半分の土地を買い占められる財力を持つと噂されるイングラム男爵家の若き当主レナードが、その莫大な財をちらつかせ、オデルに結婚を迫ったのは皮肉なことだった。
いや。
迫った、というのは不公平な言い方だろう。
確かにレナードは、ローズブレイド公爵家の神話にまで遡る正当な家系が持つ箔を求めはしたが、オデルにとっても、レナードの申し出は渡りに船だった。
嫡子であるオデルがアルファであれば、何の問題もなく継ぐことが認められたであろうローズブレイド公爵家の血と財産——今となっては借財がほとんどだが——は、オデルがアルファでないことから、外からアルファの誰かを伴侶として公爵家に迎え入れ、共同相続することでしか、継承を果たせない。この忌々しい不文律のために、オデルはオメガであることにずっと苦しめられてきた。
弟たちはまだ幼く、第二性別が未分化で、アルファかオメガかわからない。
父は元々、それほど頑健な体質ではなかったが、後継者問題と金銭面の不安に後押しされる形で体調が悪化し、寝込んでしまっていたし、オデルの母は幼い双子の弟たちの産後の肥立ちが悪く、重ねてオデルがオメガだと判明すると、ショックを受け、数年前に他界していた。
双子の弟たちには乳母と家庭教師が付き、彼らの給料も支払わねばならない。日々の暮らしにかかる費用に加え、屋敷と領地の維持費、使用人たちの給金、人脈を保つために削ることのできない社交界での交際費など、地位と権力に伴う出費が、ローズブレイド公爵家の財政を圧迫していた。現ローズブレイド公爵であるオデルの父に復帰の見通しが立たない以上、裸で火の回し車に乗ることになっても、長子のオデルが彼らを食べさせてゆくより他に、道がなかった。
実らぬ淡い初恋などに現を抜かしている場合ではない。オデルが結婚可能年齢の十八歳に達した以上、アルファの誰かを公爵家に迎え入れ、婚姻し、血の継承を果たすとともに、アルファとの共同相続という形で財産を継ぐ道が、オデルに残された唯一のものだった。即ち、ローズブレイド公爵家は、成人した適齢期のアルファの存在が必要不可欠だった。
レナードは、ローズブレイド公爵家の窮状を知り、自分と一緒になれば問題のすべてが解決するとオデルに提案した。病に倒れた父も、オデルのあとに誕生した、まだ第二性別が未分化な年の離れた双子の弟たちも、何の心配もなく生きられる。男性オメガという社会的に極めて稀、かつ不利な立場にオデルがいることを鑑みれば、どれほど意に沿わぬ話でも、選ぶ以外の選択肢はなかった。むしろ、相手がイングラム男爵家のレナードであることを、幸運に思うべきだった。
だが、オデルがものを言う前に、バレットは沈んだ声を絞り出した。
「ベータである俺には、貴族の決め事に割り込むことはできません。相手がイングラム男爵でなければ、まだ手の打ちようもあるかもしれませんが……。力が……金が、足りないのです。ご期待に添えず、申し訳ありません」
オデルの判断を受け入れたバレットは、悔しげに、繋いでいたオデルの手を離した。
「バレット、ぼくは……」
オデルはすり抜けていったバレットの手を追う代わりに、顔を上げた。
「いや……、きみには本当にすまないことをしたと思っています」
「そんな顔をなさらないでください。わかっていますから」
アシュリー家のバレットは、長くオデルの家に仕えてきたベータの家系だが、去年、まだローズブレイド公爵家が傾く前に、一念発起して起こした事業が成功し、しばらくの間、公爵家を離れていた。商才があり、胆力にも優れたバレットは、ベータであるにもかかわらず、アルファからも一目置かれる優秀さだったが、どんなに努力を重ねても、ベータであるという一点において、レナードと違い、貴族になることはできない。せいぜいジェントリと呼ばれ、一般市民の代表者の顔をして実利面で上流階級に食い込むのが限界だ。ローズブレイド公爵家から離れたあとも、バレットは何かと用事をつくっては、オデルのもとへ贈り物を欠かさず、今日もオデルの誕生日に合わせ、自ら花束を届けてくれた。オデルとふたつしか違わないこの青年のひたむきな優しさを、オデルは何かで報いたいと思っていたが、不可能だった。
「あなたに気持ちを届けるつもりでしたが……少し遅かったようです。イングラム男爵は、新興貴族だそうですが、どんな方なのですか?」
「どんなと言われても……よくわかりません。数回、会っただけですし。この邸を維持できる財力があるのは、確かなようですが、お金に換算できる気持ちなど……。あの方は、ぼくの市場での価値を、よくわかっていらっしゃるようですが」
金で買われることを皮肉るオデルの言葉を、バレットは静かに窘めた。
「思っていても、そんな風に言うべきではありません、オデル様」
「そうですね、すみません……」
先日、初めて会ったレナードは、オデルが評するよりずっと、紳士的で穏やかな人物だった。とても札束で人の横面を叩くような人には見えなかったが、早急に金が要るローズブレイド公爵家の窮状をよく知ってもいた。
オデルが急いで謝罪すると、バレットは立ち止まった。
「そろそろ俺は、お暇いたします。オデル様。お元気で」
「バレット……」
こんな時に、別れの言葉を言わなければならないなんて。
疼く気持ちを抱えたオデルに、バレットは優しい言葉をかけてくる。
「風邪を引きませんように、大事にしてください。では、俺はこれにて」
「ええ……きみも、元気で。バレット」
身を翻したバレットが、振り返りもせずに遠ざかるのを見ながら、互いに密かに育んできた恋がこんな終わり方をするとは思いもせずにいたオデルは、それ以上の言葉をぐっと飲み込んだ。
感謝を伝えることすら、バレットのためにならないだろう。これ以上、引き止めることはできない。どんな些細な希望も迷いも、去りゆくと決断した者に与えてはならない。それが、第二性別など関係なく、オデルをひとりの恋の相手として望んでくれたバレットに対する、せめてもの礼儀だった。
理由はどうあれ、政略結婚を選んだのは、オデル自身なのだから。
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