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第2話 婚約者

「本当に、このまま進めてもよろしいですか?」  雨上がりの芝生を踏みしだき、靴が露に濡れるのもかまわず、レナードがオデルの隣りで確認した。穏やかな声だ。とても一代で巨万の富を築いた、切れ者でやり手の実業家には見えない。鳶色の髪と眸を持ち、柔和な顔立ちは整っているが、特徴が今ひとつ掴みきれなかった。右手でオデルの左手を遠慮がちに握っていたが、バレットとは正反対で、その手は乾いていて暖かかった。 「イングラム男爵——いえ、レナード……とお呼びしてもいいですよね? もう婚約したのですから、ぼくに対して堅苦しい物言いはおやめください」  未練と迷いを振り切るように、オデルはレナードから顔を逸らした。ぶっきらぼうな態度を取ってしまう自分に苛立ち、辟易しながら、一時的に実利主義者になっただけだと割り切れないでいた。 (婚約したというのに、ぼくは、どうして……)  婚約者への愛情がないことを誤魔化そうとして、つい刺々しい態度を取ってしまう。  だが、オデルが悪いにもかかわらず、レナードは柔らかく詫びた。 「失礼、つい癖で」 「いえ、あの、こちらこそ、失礼な言い方を……」  我に返ったオデルに、レナードは少し寂しそうに笑いかけた。 「失礼でも何でもないですよ」  レナードに穏やかに言われると、オデルも意地を張ることができない。不意にオデルの左手を持ち上げたレナードが、嬉しそうな顔をした。 「指輪……していただけているのですね?」 「……はい」  繋いだ左手の薬指にある指輪を、レナードがしみじみ見つめる。訪ねてくることがわかっていたので、一時的に指を通してみただけだった。  石は重く、少し歪で、オデルの好みではない。この世にふたつとして存在しないと謳われる特別な石の対の欠片らしいが、高価すぎてオデルには釣り合わない気がした。この石の価値こそが、オデルの市場価値だと言われている気がするからだろうか。政略結婚だと承知の上で、レナードとの話を前へ進める以上、仕方のないことだったが、オデルは左手の重さが気になった。  ——ローズブレイド公爵家も落ちたものだな。  ——あれでは、まるで乞食……いや、娼婦の真似事か?  そう噂されていたとしても、オデルは反論することも、胸を張り聞き流すこともできなかった。おこないを恥じ、顔を逸らして自らを省みる。あるいはその場を去ることでしか、自分を保てない。オデルの身の振り方を見て、繋がりが深かった貴族の一部は「オメガの身売り」だと蔑み、ローズブレイド公爵家から離れてゆこうとしていた。静観する家もあるにはあったが、弁明の機会も余地も、オデルには与えられなかった。 「……私はよく知らないのですが、貴族の多くは、互いの家同士が利益を求めて婚姻することが多いのだとか」 「ええ……昔は、特にそうだったと聞いています」  今はともかく、ひと昔前の父の代では、貴族同士が名や財を求め、あるいは結びつきを強め、地位を確立するために、婚姻がおこなわれてきた。だから政略結婚であることを恥じることはない、とレナードは言いたいのかもしれない。 「でも私は、きみと一緒になれることが嬉しいです」  レナードの言葉にオデルは虚を突かれた。面映ゆい言い方で親愛を表現するレナードに、思わず視線が吸い寄せられる。オデルの態度を快く許してくれる度量は、金銭面、精神面に余裕があるせいだと踏んでいたが、案外、生来持ち合わせた気性もあるのかもしれない。 「オデル……と呼んでも?」 「……かまいません」  政略結婚であることを誤魔化すために逢瀬を重ねているが、ローズブレイド公爵家が正式に婚姻を認めたにもかかわらず、オデルの意志を確認しながらゆっくり距離を詰めるレナードのやり方は、まったく紳士的だった。元からそういう性格なのか、偉ぶったところがない。オメガだからという理由で、オデルを見下す視線もなかった。ローズブレイド公爵家が、盗人のようにイングラム男爵家の金に目が眩んだと言われても言い返せないオデルに、レナードは決してそういう物言いをしなかった。そのことに、オデルは深く胸を撫で下ろしている。 「では、そういうことで進めましょう。どうぞよろしく」  まるで仕事の段取りのように諸々を決めると、また来週、と当然のように約束を取り付けたレナードは、名残惜しげな様子も見せず、潔い背中でローズブレイド公爵家をあとにした。

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