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第3話 暗霧と泥濘
暗霧の中、足首まである粗末なマントが露に濡れて重く絡みつくのもかまわず、オデルは泥濘む帰路を、歯を食いしばり歩いていた。
街外れの宿屋へ足を伸ばした帰りだった。馬車を出してもよかったが、邸の者らにいらぬ心配や憶測を与えたくなかったオデルは、思い出したように霧雨の降りはじめる中、俯いたまま口を真一文字に引き結び、悪路をゆく。
今日のことはすぐに忘れるべきだ。背後から、二輪馬車の集団が泥を跳ねさせながら追い抜いてゆくのをやり過ごし、オデルは舌打ちし、後悔した。間に合わなかったのだ。その証拠に、先頭をゆく馬車がオデルのすぐ前方で止まり、後方がそれに釣られて停止する。馬の息遣いを聞く間もなく、先頭の馬車からひとりの青年が降りてきた。
「オデル……!」
名を呼ばれ、オデルは赤面した。レナードの来訪を知りながら、どうしても宿屋へゆかなければならなかった事情があった。強張り、不貞を働いたように震えながら青ざめているオデルへ、レナードは駆け寄り、その手を取った。
「乗って」
「でも……」
躊躇い、眉を寄せたオデルの手を引いたレナードは、是非もなく言った。
「こんなところへ知らないふりをして、あなたを置いていけない」
「でも、荷物が……」
見たところ、どの馬車にも荷物と人が鈴なりだった。
だが、レナードは引かず、常にない強引さで代替案を出した。
「私が歩きましょう」
結婚式を数日後に控えたその日、レナードは夜に到着する予定で邸を出る、と手紙に記していた。時間を読み違えたのは、オデルの不備だ。主人の乗る馬車にまで山と積まれた荷物と、後方には使用人らの乗る馬車が複数、待機している。濃霧と宵闇の中、のんびり乗る乗らないの押し問答をしているわけにはいかなかった。
「どうぞ、かまわず乗って。こんな時間にどちらへ?」
「……忘れていた用事を済ませただけです」
レナードの疑問にぞんざいに答えたオデルは、青い顔のまま、宿屋を出るところを見られなくてよかった、と安堵した。郵便配達夫や屋敷の者に宛名を見られたくなかった。手紙が届く際は、いつも懇意にしている宿屋に留め置いてもらっていた。それらを処分してきたことを、レナードには知られたくない。オデルの頑なな態度に、一瞬、不審げに眉を寄せたレナードだが、それ以上、詮索はしなかった。結婚式の前に、余計な波風を立てたくないのだろうとオデルは思った。
「この霧の中、灯りも持たずに危ないですよ。見つけられて良かった。さ、乗って」
花嫁としての自覚の欠如を責められた気がして、オデルは頬を赤く染め、謝罪した。
「……すみません」
レナードに触れられると、ふわっと酔ったようになり、一瞬、目眩に襲われる。レナードも、オデルと同じように、互いに貴族間で個々の体質に合わせて調合された発情抑制剤を服用しているはずだ。よく効くはずのそれが、レナードといると効力が鈍る気がする。レナードのフェロモンが予想以上にオデルに影響していた。きっと、相性が悪くないのだ。
「オデル、顔色が悪いです……」
「だ、大丈夫です。お言葉に甘えます。式の日に備えて、支度を急がなければ」
心配するレナードの手を拒み、オデルは馬車へと乗り込んだ。レナードの手を振り払うことができるのは、今宵を入れてもあと数日だ。伴侶となるレナードの視線を避けるように、足元に視線を落としたオデルに表情を緩めたレナードは、御者に命じた。
「やってくれ。オデル、道中、気をつけて」
レナードが数歩下がると、馬車はゆっくりと速度を上げ、再び走りはじめた。霧の中を振り返ると、レナードはコートのポケットに両手を突っ込み、馬車と同じ方向へのんびりした歩調で歩き出した。オデルが接触を拒んでも、まるで動じない。優しく気遣ってくれることが、負担に感じるほどだった。
後方に遠ざかるレナードを見送ったオデルは、暗い馬車の中、ひとり、ため息をついた。
別れたはずの、バレット・アシュリーのことが脳裏を過ぎる。
初めてだった。
恋も、その恋を失うことも。
だから、ちゃんとしなければと、読まずにいた手紙をすべて処分してきた。
最後に一度だけでいい、会いたい……と望むことすら、オデルは自分に許さなかった。手紙を読んでしまったら、決意が崩れてしまうだろう。だから、すべてを暖炉に焼べてきた。
しかし、断つように過去を清算したはずのオデルの心は、六月の空のようには、決して晴れなかった。
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