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第28話 出立(最終話)

 汽笛が鳴った。 「オデル、忘れ物は?」  駅のホームで、レナードの落ち着いた声が、オデルの鼓膜をくすぐる。 「大丈夫です。でも、何だか離れ難い気がして」  顔を上げたオデルの隣りで、レナードもまた、やがて汽車が入ってくるはずの線路の先を眺めていた。 「狩の季節には帰ってきますよ。馬に乗るきみは美しいですから」  初夜の翌朝、医者を卒倒させかけたレナードの怪我も、すっかり良くなった。新婚旅行の準備を整え、もう発つところだ。うなじを噛んでもらって以降、発情期のような抑制剤を必要とする激しい性衝動はなくなったが、番いとなったレナードが傍にいるだけで、熾火に炙られるような感覚がして、オデルは欲しくてたまらなくなる。  医者にしこたま怒られ、触れ合うことを固く禁じられていた間も、レナードはオデルを半裸にして、手や口で愛撫を繰り返した。おかげで、囁きかけられただけで落ち着かなくなってしまうオデルの弱点を、レナードには見抜かれてしまっている。 「熟成しましたね……?」 「……っずるい、です、レナードは……っ」  過敏になりすぎたオデルの状態を察しながら、レナードはあちこちに触れてくる。オデルはそのたびに、簡単に昂ぶる甘さに抗うように俯いた。そのうなじには、愛咬の痕がある。ざらりとしたその場所をレナードが愛しげに撫で、オデルに微笑んだ時、駅の入り口から聞き慣れた声が上がった。 「おーい、二人とも! 見送りにきてやったぞ……!」  振り返ると、イアンがカメラ機材を持った記者数名とともに、オデルとレナードの方へ歩いてくるのが見えた。その最後尾に、意外な人物の顔を認めたオデルは、驚きに身体を竦めた。 「バレッ……」  目を瞠るオデルを庇うように進み出たレナードの前までくると、バレット・アシュリーはハンチング帽を取り、唇を引き結んで頭を垂れた。 「レナード様……オデル様」 「きみには、私の伴侶に近づくなと、言ったはずですが……?」  険しい声に、慌てた様子でイアンが取り次いだ。 「きみに会わせろと言って、聞かないんだ、レナード。見送りにゆくとどこから聞きつけたのか、あまりにしつこいので連れてきてしまった。でないとうちのビルの前の通りで馬車に身投げすると言い出して……ともかく、何か言ってやってくれ」 「レナード様……いや、レナード公爵」  バレットは緊張に強張らせた顔を決然と上げると、帽子を手の中で握ったまま、突然、レナードの面前で片膝を着いた。 「数々の非礼を謝罪します。あなたは……我が商会を救ってくれた恩人です。決闘で勝ったにもかかわらず、存続の見込みの薄い俺の事業の、手助けを……それだけじゃない。治療費まで用立てていただき、感謝の言葉もありません。俺は、あなたに生かされ、今日まで生き長らえてきました」  バレットの言葉に、オデルはレナードを振り返った。レナードの主治医にバレットも診させているのは知っていたが、治療費まで立て替えているとは聞いていなかった。 「隠すつもりはなかったのです、オデル。そもそも我々の判断は、この男への情から下したものではない。余計な恩義など不要だと、イアンから聞いたはずでは? バレット卿」 「わかっています……。将来を見込んでいただいていることも、俺の治療費が出世払いで、いずれ給料から補填されることも。ですが……っ、あなたが俺に温情をかけてくださったのは、事実です。約束を破っても、どうしても直接、あなたに御礼を申し上げねば、俺は人として、立ちいかなかった……っ」  バレットは吐き出すように言うと胸の前に右手を当て、頭を垂れた。ハンチング帽を握りしめる手が震えている。 「……私がきみの顔を見て、決断を翻すとは思わなかったのですか?」 「それでも、です……っ」  すげなくあしらうレナードに、バレットは蹲るようにして続けた。 「手紙を無視したのは……怖かったからです……。小切手を使わずに手元に置いたのも……オデル様との絆が、切れてしまいそうだったから……俺の、価値を証明するはずのものが、なくなってしまうと思ったら、どうしても、手放せずに、あんな真似を……。すべては、至らない俺の身から出た錆です。なのに、ローズブレイド公爵、あなたは……俺より遥かに、オデル様に相応しいおこないを……。あなたのようなアルファがいるとは、まったく思いもしませんでした……感謝、しています……。今後、あなたと、あなたの家族を裏切る真似は、決していたしません。……誓います」 「私は、きみが約束さえ守ってくれるのであれば、何も望みませんよ」  不機嫌な顔をしたレナードの服の背中を、オデルはそっと撫でた。半分は嘘だとわかったからだ。レナードは、時々、こういう露悪的な言い方をする。だいたいは照れているだけで、オデルも、もうバレットを許していた。 「レナード、そろそろ……時間です」 「そうですね」  オデルがそっと告げると、イアンが連れてきた記者が、すかさずストロボを焚いた。 「……ところで、イアン。これも記事にするのか? きみはローズブレイド公爵家を何だと思っているんだ?」 「ははっ、心配するな。記事にはするが、ちゃんとおれが書くよ。大団円のハッピーエンドにしてやるから、旅先で確認するといい」  さりげなくフレイムトラスト社の宣伝を挟み、イアンが得意げに告げると、レナードはため息とともに許した。 「ゴシップも程々にしてくれ。嘘を書いたら、普通に怒るからな。いきましょう、オデル」  汽車がホームへゆっくりと入ってくる。レナードがオデルを促した。頷いたオデルも、イアンへ一度だけ目配せをして、レナードに歩調を合わせた。その場を離れようと踵を返した時、背後からバレットの声が上がった。 「オデル様……!」  オデルが振り返ると、バレットは「おい……っ」と遮るイアンを押しのけ、立ち上がった。 「あなたを……傷つけたことを、どうか、お許しください」  謝罪の言葉を口にしながら、バレットは青ざめていた。ルール違反を察知したレナードが口を開きかけたのを止め、オデルは静かに頷いた。 「気にしていません。もう過去のことです。バレット卿。……いきましょう、レナード」  オデルが囁くと、レナードは不満そうな表情を和らげた。  オデルが再び振り返ると、バレットの顔が後悔と安堵に染まっているのが見えた。もっと言葉を尽くすこともできたが、オデルはそうしようとしなかった。レナードが、オデルの背中を促す。その左薬指に嵌まっている指輪の宝石が、一瞬、陽光を反射して光るのが、オデルには見えた気がした。 「二人とも、楽しい旅行を! 土産話を楽しみにしているぞ!」  客車へ乗り込んだオデルとレナードに駆け寄ってきたイアンが、満面の笑みを浮かべる。連れてきた記者たちは、もう仕事が済んだ様子で、バレットとともに少し離れたところで撤収の準備をしていた。 「二度とオデルの前へは現れないと、約束したのに……」  零したレナードへ、嬉しそうな顔でイアンが混ぜっ返す。 「焼きもちか?」 「うるさい」 「焼きもちだな? レナード」 「うるさいぞ、イアン。悪いか」 「いいや。いい仲になったな、と思っただけだ」  いつもの掛け合いをはじめる二人を、オデルが横から混ぜっ返した。 「レナードの焼きもちなら、ぼくは嬉しいです」 「オデルまで……」 「あなたがぼくを、愛してくれているとわかるから」 「おやおや、ご馳走様」  イアンが笑うと、風が吹き抜ける気がした。 「イアン。今日まで色々と、ありがとうございました。バレット卿のことも」 「何、ネタにするぞと脅してやったら、それでもかまわないと言ったからさ」  肩を竦め、ふざけた様子で、イアンが数歩、離れると、動き出した汽車が滑るように線路をゆっくりと走り出した。 「じゃあ、またな。狩の季節に。レナード、オデル、良い旅を」 「今度こそ、乗馬の訓練をしておいてくれ。きみと駆ける楽しみが、私には必要なんだ」 「了解した。善処するよ、レナード」 「手紙を書きます、イアン」 「待っています。帰ったら、三人で飯でも食べましょう」  遠ざかる列車のホームを、のろのろとイアンが歩く。その速さに追いつき、やがて追い越すように汽車が汽笛とともに加速しはじめ、駅舎を滑り出してゆく。  規則正しい揺れに合わせて、駅が遠く、小さくなってゆくのをしばらくふたりで眺めていた。ひとつの季節が終わったような、感慨があった。 「傷に触るといけません。そろそろ中へ入りましょう、レナード」  オデルがそっと促すと、レナードは先ほどの仕返しとばかりに揶揄する。 「誘い文句が上手くなりましたね」 「ち、ちがいま……っ、いえ、そう、ですが……あなたのせいです、レナード」  ぼそっと呟くオデルを、レナードが目元だけで器用に笑った。 「きみも、言うようになりました」 「毎日、鍛えられていますから」  レナードがオデルにだけ向けて、相好を崩すところが好きだった。  一等客車のコンパートメントに向かいながら、レナードの手を緩く握ると、すかさず握り返される。 「……愛しています、オデル」  客車に至る廊下で、囁かれた。真摯な響きのレナードの言葉に、オデルは胸の奥に温かい何かが満ちるのを自覚する。それは、オデルを、たったひとつの宝物を手に入れたような、特別な気持ちにさせた。 「ぼくも、あなたを愛しています……レナード」  レナードの左腕が腰に回されると、じんと骨の芯が痺れるような感覚がする。心地いいと感じる身体を愛おしく思えるのは、レナードに教えられた感情だ。支えるように回されたレナードの左手に、オデルは自分の左手を重ねた。互いの薬指には、結婚指輪とともに、あのいびつな宝石が冠された婚約指輪が嵌まっている。 (この形が、好きになるだなんて……)  少しいびつなそれが、まるで今の自分たちのようだとオデルは思った。  速度を増す汽車の中、遥か遠くに引きずられてゆく景色を眺めながら、オデルは隣りにいるレナードへ、そっとその身を預けた。  =終=

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