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第1話
湿気が多分に含まれた風が開いた窓から頬を撫でる。もうすぐバスの時間だというのに夏場だからか外はまだ明るいままだ。
教室には部活のある生徒は居らず、人数はまばらだ。その中のひとりが、ふとこちらへと歩み寄る。ソイツは悪友と言うべきだろうか、教虎が相変わらずの掴みどころのないようなニヤケ面で声をかける。
「よぉ、広海」
軽く手を上げて、そのままその手を俺の肩に置く。中学から同じだからもう慣れたのだがなんだかこの距離感を近いとも思うし、少し距離があるようにも思う。
「この前の模試のやり直し、終わったぁ?」
「は?俺がやっちょーわけねぇやろw」
いつもの会話、いつもの距離。これが日常で当たり前の距離。なのに、何故か最近この距離を近い、と思い始めた俺は今更何を思っているのだろうか。今の俺は模試のやり直しなんかよりもそちらの方が最優先事項なのだった。
風が大して涼しくない空気を運んでくる。その風に俺の髪と、教虎の髪がふわりと揺れた。嗅ぎなれた筈のシャンプーの匂いがした。(いや、男同士でシャンプーの匂い嗅ぎなれてるなんてキモイか)
ふと、教虎が口を開く。
「そーいやさぁ、妹が好きな人が居るらしいっちゃけどよー、教えてくれんちゃわー...」
「そりゃ、教えるわけねぇやろw俺も妹の好きな人とか知らんぞ?」
このシスコン、心の中でそう思いながら答える。二つ年の離れた妹がいる教虎はよく妹の話をする。ふとした瞬間に『そういえば、妹が』なんて始まるのだからこれをシスコンと言わずになんというのか。まぁ、俺も妹がいるから気持ちがわからないわけではないけれど。(なんというか、構いたくなるのだ)
「そういうお前は?」
「ハッ、俺?w」
笑い混じりにそう言った教虎が次の瞬間には真剣な眼差しで『俺は、まぁ...おるけんね』なんて言ったから、俺は反応に困ってしまった。
「ッ、誰よ?w」
声が詰まった。いつものように、それを心がけていたのに何故か言葉がうまく出てこなかった。それでもほんの少しだけ言葉が詰まっただけですんだのは、流石自分と褒めたたえたいくらいだ。
(どうして言葉に詰まったのか)
心のどこかでわかってるくせに、そう笑われた気がしたがそれでもどこか靄が邪魔をして答えは見えないままだ。それが酷くもどかしい。
「広海、ちゅーしたことある?」
俺はその瞬間何も口に含んでなかったことに心底よかったと思った。なにか飲んでいたら確実に吹いてた。いや、飲んでなくてもブッと勢いよく吹いたのだが。
「は、お前、俺がそんなリア充(笑)めいたことあるわけねーやろw」
「やよねーw」
「ま、お前はしたことあるわけねーわなw俺がないとにお前があるわけねーもんなw」
まぁね、と返ってきたことに安堵した。これで『ちゅーくらいしたことあるわww』なんて返ってきていたら、俺はどうなっていただろうか。
―小突いて、一緒に笑って、それから。......それから?
鼻の奥が少しだけツンとした。気のせい、きっと気のせいなのだ。泣きそうになったなんて、そんなわけ、ある筈が、ない。
「ねー、広海ィー」
「は?話しかけんなww」
「......」
ほんとに黙った。珍しい、な。
その時、シンとした教室の中で初めて教虎と2人きりになっていることに気が付いた。時計に目をやれば時刻はもう6時15分、もうそろそろ教室を出るべきか。
「広海、ちゅーの練習相手になってくれん?」
「......ハァ?」
その瞬間、俺は初めての感情を味わった。
突き刺さるような絶望と同時に溢れんばかりの歓喜。心の中でせめぎあうように二つの感情が俺を支配した。
練習相手、とはどういうことなのか。そもそもちゅー、だとか。俺に頼むことじゃないだろ。そもそもちゅーに練習とかあるのか。
疑問は尽きなかった筈なのに俺の口が開くより先に塞がれてしまった。
「ン...」
変な声が出てしまった。いきなり過ぎて閉じる間もなかった目を静かに閉じる。
キスをしたことがあるわけではないけれど、なんとなくそういうものだと思ったから。
(ただ、目を閉じる前に見えた教虎の顔が...)
知らない顔に見えた、なんて。あんな顔もするのか、とぼんやりと考える。
男の唇なんてやっぱり自分のものと似たようなもので薄くて少しだけかたい。それなのに、酷く高揚する。
その時、ようやく自分は教虎という人間が好きなのだと知った。そりゃあそうだ、男友達に急にキスなんて迫られたら顔面蒼白ものだ。例えば、と考えてやっぱりやめた。どうせキスなんて迫ってくるのはこの馬鹿以外にはいるわけがない。
あっ、なんだアッサリと靄が晴れたではないか。好きだから、教虎が好きな誰かに妬いた。好きだから、見も知らぬ教虎の好きな相手のことを考えてほんの少しだけ......少しだけ、泣きそうになった。
だから、練習相手なんて言葉に傷ついた。そう、答えは単純だったのだ。
ただ、好きの二文字で全部説明がつくなんて。
「ンッ......ハ...」
漏れ出た声に悪寒がする。気持ち悪い、こんなの自分の声なのか。高くてくぐもった様な声、かぶりを振りたくなったけれど、生憎頭は高虎が押さえているから無理だろう。
(コイツ、ちゅーの練習とか.......上手い?くせに)
なんだかこなれている様な気がした。そんなの、信じたくもないし、ありえないとは思うのだけれど...。
随分と息が苦しくなってきた。そろそろ離してもらわねば辛い。トントンと軽く高虎の胸をたたけば案外あっさりと解放された。
「...うっわ、広海エロ...」
「お前、他にいうことはねぇとかて......」
息を切らしながらそう言った高虎にため息混じりでそう言えば本当になんのことか分からないような顔をした後で『あぁ、』と悟ったような顔をした。
「メガネぶつかって痛かった?いや、ごめんて」
「そこじゃねぇよw」
練習相手、なんて。じゃあお前の好きな人は一体誰なんだ。
「広海ィー、もっかい」
「嫌だ」
「なんでぇ?」
「なんで、って...」
なんでって......至極当然のようにもう一度なんていうお前の方こそ『なんで』だよ。
「広海ってば」
「嫌だって、つか時間」
時計を指させばもうそろそろ教室を出なければいけない時間なのに。それでも高虎はそれをよしとはしない。
「ねぇ、広海」
「...ぃやだ...」
「広海」
「嫌だって」
聞く耳を持たない子供のように高虎は俺の腕をとってもう一度、と急かす。
あんまりしつこいから思わず、口が滑って「練習相手、なら誰でもいいやろ?」なんて。
キョトンとした顔の教虎に今更しまった、なんて思っても後悔先に立たず。あぁ、何してんだ自分は。
「ねぇ、広海」
「うるさい」
「俺、そんな誰彼かまわずちゅーするようなやつだと思ってんの?」
「...練習相手って、お前が」
「嘘に決まっちょーやろ。ね、広海本番に付き合って」
「......言い方が嫌だ」
「好きやよ、広海が好き」
きっと車の通る騒音にかき消されるほどのいいよ、という小さな返事が聞こえたのは教虎だけだろう。
さっきより、ずっと短いキス。本番の方が呆気なかった。
「...か、えるか」
ボソリと呟くようにそう言えばまるで何も無かったかのように感じた。いや、今日という日はきっといつまでも脳裏に焼きついたままなのだろうけれど。
「......うん」
それでも、やっぱりなんだかぎこちないのに、そっと見えない角度で絡められた手だけは離せなかった。
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