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第1話序章

 夢を見ていた。優しく笑いかけてくる男の顔と、肌を撫でる抒情的(じょじょうてき)な指使いが瞼の裏で交差する。 「ねえ、ねえ、ギル」  夢の中で子どもの自分が喋る。木立の前でジャレッドは男の軍服の袖を引いた。自分は王子で、男の名前はギル。ギルは専属の護衛騎士だ。「何でしょう?」とギルが子どもの目線に合わせて片膝をつくと、ジャレッドは口を開いた。 「お星様が取りたい」  とたん、ギルは眉尻を下げた顔で固まる。 「それはさすがに無理です」 「無理じゃないの! ギルが肩車してくれたら何でも取れるんだもん!」  ジャレッドは足を交互に踏み鳴らし、地団駄を踏んだ。その顔が見たいときもあるけれど、今は困らせたいわけじゃない。ドンドンドンと地面を鳴らし、「のーせーてー」と我儘を言う。 「仕方がないですね」  ギルはしぶしぶとこちらに手を伸ばし、ジャレッドの脇腹を抱き上げた。 「———はうっ」  ヒクンとジャレッドの喉が鳴った。めまぐるしく場面が変わり、脇から腹にかけて指先が身体を伝っている。濡れた唇が胸の蕾に到達し、尖りをキュッと吸い上げられた。 「・・・・・・んああ」  極上の果実を口にしているかのように、乳首をねぶられ、貪られる。 「んううう・・・・・・」  ジャレッドはたまらず口の端から涎を溢した。「ぽとと———」と垂れた雫を・・・・・・指でぬぐい、啜り上げると、ほろ苦さと甘みが口の中に広がり、小首を傾げる。 「・・・・・・確か、皮をすって焼き菓子に入れると美味いと聞きました」  ———あ、また変わる。ギルが、何か言っている。 「ほんと? じゃあたくさん摘んで料理長のところに持っていこうよ!」  ジャレッドの口は勝手に動く。 「いい考えですね、もいだ実は私が持ちましょう」  言葉のあとに、下からギルの手が伸びてきた。  大きな手だ。ギルの手ならジャレッドの倍の倍は持てそうだ。  けど、持てるって何を? そのときジャレッドは手に掴んでいた黄色い柑橘の実に気が付いた。  これは、ボタンの実。  中に入っている大きなタネが、庶民の間ではボタンのかわりになるんだって。ギルがそう言っていた。夢の中の幼いジャレッドは、絹の襟付きブラウスの銀のくるみボタンを指でつつく。 「ジャレッド様? お星さまをはやく」  ギルは急かしてくるが、「お星さま」とは何だっけ? そう思い、手のひらで包んでいた丸い実に目を落とす。  これのことだ。このときの自分は、手のひらの中にある黄色い柑橘の実に夢中だったのだ。  ジャレッドは手に持っていたそれをギルに手渡し、またひとつの実に右手を伸ばす。  すると———視線の先に触れたのはギルの首筋だ。逞しい筋肉を撫であげ、首の後ろに腕を回す。  身体を引き寄せて、ねだるように腰を揺らし、ジャレッドは吐息を漏らした。すかさず大きな手のひらに頭の後ろを絡めとられると、唇は塞がれ、舌がジャレッドの口腔内を甘く浸食する。  今日の夢はどっちに転ぶだろう。心地よさの中でぼんやりとジャレッドは考えた。  波に揺られているような感覚に包まれながら、耳元で、下で、ギルが囁く。 『ジャレッド様だったら、いつか本当にお空の星も取れるかもしれないですね———』  徐々に遠く、視界がかすれてゆく。砂嵐に覆われた暗闇の中で、二つのギルの声がかぶって聴こえる。 「・・・・・・ギル、ギル、まって。俺はギルがいないと」  口を開いた瞬間、ぱちんと指が弾かれ、ジャレッドは「ハッ」と目を覚ました。  また続きを見損ねた。  いいところだったのにと、気だるく溜息をつき、左手で前髪を掻き回す。そして身体を起こすと、シクシクとした痛みが癒えない右の二の腕をさする。  眠っていたのは、狭い箱部屋の一室だ。  道端で拾ってきた安物マットレスの上は最悪の寝心地、ゴツゴツした骨組みのせいで背中が痛む。これならば床で寝た方が断然マシだった。 「痛むのか?」  振り返るとドアが開き、青年が一人部屋に入ってくる。   「いや・・・・・・すこし、でももうクセみたいなもんだから」 「そうか、そろそろだけど行けるか?」  青年はコートを羽織り、壁に立てかけられていた剣をジャレッドに向かって投げてよこした。  ジャレッドはそれを受け取り、窓の外を見やる。  今度こそ、この景色も見納めになるだろうか。時刻はまだ明け方前。どんなに目を凝らしても、薄暗い地平線に陽の光は見えそうもなかった。 「ジャレッド?」 「・・・・・・ああ、今行くよ」  ジャレッドは立ち上がると、黒いマントのフードを目深く被った・・・・・・。   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  空はどんよりと重たい雲がかげり、雷が鳴っていた。  それなのに、ここのところ雨が降らない。故にアンダールの大草原は枯れたままだ。馬と人の脚に踏み潰され、ところどころ土が剥き出しになっている。  ジャレッドは後ろに青年を乗せ、馬を走らせた。マントのフードを押さえ、節目がちに街並みを睨む。  枯れた草原とは打って変わり、夜明け前にも関わらず、街は熱気と歓声で湧いている。  今朝、溢れんばかりの大軍隊がレヴェネザ王国を出発した。  彼らは王家の軍旗を掲げ、悠々と列を成す。  雨が降らぬのは悪しき魔物の仕業であると(うた)い、国王自ら討伐隊を率いた。ついでに侵略行為を行なってくるための大義名分である。  国門付近には、国王陛下の出兵を聞きつけた大勢がつめかけていた。  必ずや持ち帰ってくるであろう英雄談を純粋に心待ち、レヴェネザ王国を象徴した、赤ワインを零したようなガーネット色の小旗をヒラヒラとたなびかせ、手を振るのが見える。 「あ、おとーちゃん、見て見てなんかいるよ」  父親に抱き上げられた一人の少年が指を差す。 「んー? ああ、ほんとうだ」  民衆たちが見守る目の前で、青年二人を乗せた藍黒色の軍馬が行軍の列に近寄っていく。 「はいはいはい、俺らも参軍しまーす」  軍の列と馬を並走させ、後側に乗った金髪癖毛の青年インガルがにこにこと手を挙げる。  話しかけられた騎士は胡散臭そうに兜を引き上げた。 「またお前らか、残念だけど今回は無理だ」  最後尾についている軍長の騎士は顔見知りだ。よく手下に扮して彼の軍に混ぜてもらっている。  だが騎士はちらちらと前方を気にしながら、失せろと言うように手を払う仕草をした。 「はぁ? なんで?」  インガルが抗議の声を上げる。 「あの旗を見て気がつかぬのか! 此度の進軍は国王陛下直々に指揮をとられる御予定だ。お前らみたいに、何処の馬の骨かわからないやつを連れてはいけないんだよ。それに国王様がいらっしゃるということは、必ず大将軍様も同行される。となれば厳しい戦になるのは目に見えているだろう。そうなりゃ、お前らなんて一刻も保たないよ。特にそいつ、その片腕のやつはすぐにおっ死ぬんじゃないのか? わかったら大人しく帰ってクソして二度寝でもしてろ」  軍長は早口に捲し立てたのちに兜を下ろし、何も聞くまいと馬の脚を速めて行ってしまう。 「ちっ、つまんねぇの」 「問題ない」  なんてことはない。ジャレッドは呟くと、一度、進軍の列から逸れた。  充分に離れ、見えぬ場所でマントのフードを下ろす。  枯れ色に浮き立って存在感を放つ漆黒の髪に、翡翠の瞳、神の御業によって端正に彫り込まれた目鼻立ちは気高く美しい。  そして、右の腕の肘から下は失われている。 「いい子だズワルウ、さあ思い切り走っておくれ」  ジャレッドは愛馬に語りかけ、マントの下で左手の指をぱちんと鳴らした。  愛馬のズワルウはそれを合図にして地面を強く蹴り上げると、宙を駆けはじめる。まるで目に見えない道でもあるように、脚をぐんぐんと速め、国王軍の先頭まで追いついた。  先頭を固めている一団は、より煌びやかで豪奢な鎧を着込んだ者達が列を連ね、空高くから見下ろせば、黄金の芋虫が這っているかに思えて滑稽極まりない。 「ひゅー、いつ見ても絶景だねぇ」  インガルは背中越しに下手くそな口笛を吹いた。ジャレッドの腹に腕を回し、呑気な感想を述べる。 「そんで、ここからどうする?」 「やることは同じだ。国境線に着いたら乱戦に紛れてこっそりと侵入する」 「まあ、結局そうなるよな」 「向こうに入るにはそれしかないからな。念のためにぎりぎりまで雲の上を走ろう」  ジャレッドは馬のたてがみを柔らかく撫で、横っ腹を足で刺激した。  ズワルウは高らかにいなないて主人に応え、頭上の雲めがけて再び駆けはじめた。  ———この世界は今、人間とそれ以外の種族とで二分している。  ほんの六年前のことだ。  小さな火種が全土に広がり、大小含む総勢五十を超える国々が乱雑し酸鼻を極める争いが始まった。  その末に世界は大きく割れ、人間国ではレヴェネザ王国が下々の属国をはべる支配者として君臨し、一方、異種族国は一つに統合される次第となった。  世界が割れる前、ジャレッドはヴィエボ国と呼ばれる小国の王子だった。  最終的な位は王太子、しかし王になるのは叶わず滅びた。  信じていた全てがひっくり返されて嘆き苦しみ、そんなジャレッドを護ろうとしてくれた人がいた。  今でもやるせなくなる、自分の存在はなんであったのか、自分はどうあるべきだったのか。  ・・・・・・あの男はなにを伝えたかったのか。 「しかし人間ってのは懲りないよなぁ、この前の出陣でこっぴどくやられたってのに」 「こいつらは戦を楽しんでいるだけだからな」 「まあ、そうだよな。俺もニンゲンだけど」  ジャレッドの吐き捨てるような呟きに、インガルはニシシと自虐的に笑う。 「でも未だに信じられないぜ、あれがあの護衛のおっさんだなんてな」 「けど間違いない、あれはギルだ」 「おうおう、王子様はえらく自信満々だな」  後ろから飛んでくる軽口に青筋を立て、ジャレッドは「ぐりりっ」と腹に回された手の甲をつねった。 「った!」 「いい加減にその言い方はやめろ平民め、振り落とすぞ」 「ひぃー、それだけはご勘弁を・・・・・・ぷっ」  インガルは自分で言った冗談がツボにハマったのか、我慢できずに派手に吹き出す。 「ぶはははははっ」 「・・・・・・ふ、笑いすぎだ、気を引き締めろよ」    ギル、待っていろ。必ずや助ける方法を見つけ出してみせるから。  ジャレッドはそっと胸に手を当てると、暗雲の中に見えるはずのないかつての故郷を思い描く。  見間違えてたまるものか、あんな畏ろしい絶望の刹那を———。

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