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第28話

 文維(ぶんい)がバスルームを出ると、そこにはすでに宋暁(そう・しょう)は居なかった。  腹立たしいような、ホッとしたような心持で、文維は急いで着替えを済ませ、昨夜、置いた覚えのない場所で見つけた自分のスマホを取り上げた。  確認するが、煜瑾(いくきん)からの着信も、チャットメールも、無かった。 (煜瑾…)  文維は、胸が張り裂けそうな痛みを感じる。  自分が何より大切に思うものを傷つけ、苦しめたことがつらかった。決して失いたくはなかった。  すぐに煜瑾に電話を掛けるが、留守番電話サービスに切り替わってしまう。  自分を拒絶しているのだと思った文維は、煜瑾を失うかもしれない恐怖に、これまで感じたことのない戦慄を覚えた。  まるで人が変わったように、落ち着きを失い、部屋中を動き回り、文維は怯えていた。 「煜瑾…、煜瑾…どこへ行ったんだ…」  青ざめた顔で、文維はリビングのソファに座り、震える指で宝山区の(とう)家へと電話を掛けた。 「はい…。これは、包文維先生」  電話に出たのは、やはり優秀な唐家の執事だった。 「あの…、煜瑾は…?」  信じられないほど弱々しい声の文維に、(ぼう)執事は忌々しそうに口元を歪めた。 「煜瑾坊ちゃまは、いらっしゃいません」 「そんなはずは!煜瑾は昨夜、宝山の屋敷に泊まると言っていました」  フッと執事は鼻先で笑い、取り繕った声で答えた。 「はい。煜瑾坊ちゃまは、こちらでお休みでしたが、今朝は早くからお出掛けになられました」  冷ややかな執事の声はいつものことだが、特に今朝は侮蔑的なものを、文維は感じた。 「それより、包文維先生におかれては、今朝はお元気そうでなりよりでございます」 「どういう意味ですか?」  含みのある執事の言葉に、文維は怪訝に思った。 「昨晩、お加減が悪いからと、煜瑾坊ちゃまをお呼び戻しになられた方とは思えぬほどのお元気さだ、と、申し上げております」 「何のことですか?」 「わざわざお呼び戻しになられたにしては、随分と早くにお戻りでしたが…。何か不都合なことでもおありでしたか」  全く身に覚えのない文維は、驚いた。 「もう一度申し上げますが、煜瑾坊ちゃまは、唐家にはいらっしゃいません。ご用件がそれだけであれば、わたくしも包文維先生ほど優雅な身分ではございませんので、これにて失礼いたします」  皮肉たっぷりに言って、茅執事は電話を一方的に切った。  1人、取り残されて文維は呆然としていたが、すぐに気付いて自分のスマホの履歴を確認した。 「…宋暁のヤツ…」  そこにはやはり、文維が送った覚えのない、煜瑾へのチャットメールが残っていた。  何もかもが宋暁に仕組まれたことだと気付き、文維は怒りが湧いた。これほど誰かを憎いと思ったことは無かった。

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