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第29話

 宋暁(そう・しょう)の悪だくみのせいで、何も知らない煜瑾(いくきん)はここへ呼び出され、文維(ぶんい)と宋暁がベッドの中にいるのを見せつけられたのだ。無垢で清純な煜瑾が、騙されたとはいえ、そんな見たくも無い光景を見せつけられ、どれほど傷付いたことだろう。  文維に裏切られたと思った煜瑾は、また以前のように泣きながら病に伏してしまうかもしれない。それが心配で、文維は動揺していた。  もう一度煜瑾へ電話を掛け、メールも送ってみるが何も変わらない。  ハッと気づいた文維は、煜瑾の嘉里公寓(ケリー・マンション)を思い出し、そこで煜瑾がたった1人で心細く泣いているのではないかと気付いた。  急いで愛車のレクサスのスマートキーを手にすると、文維は部屋を飛び出した。  駐車場に停めてある白いレクサスを見て、文維は愕然とした。  まるで石か何かを投げつけられたかのように右サイドの助手席側がボコボコになっている。ひっかき傷まであり、窓ガラスにも傷がついていた。  間違いなく、ヒステリックになった宋暁の仕業だとは思うが、今は通報する時間さえ惜しかった。  傷だらけのレクサスを駆って、文維は煜瑾の住まいである嘉里公寓の駐車場へ急いだ。  すでに顔なじみとなった駐車場係は、文維の愛車の無残な姿に驚いた様子だったが、何も言わずに通してくれた。  車を停め、文維は急いで煜瑾の部屋へと急いだ。 「煜瑾!」  だが、そこには誰も居なかった。  文維は広いリビングの真ん中で膝から崩れ落ちた。床に座り込み、茫然としていた。 ***  昨夜は、遅くまで情熱の赴くまま、衝動的に肖像画に筆を入れることに夢中になっていた煜瑾だったが、ベッキオ師もまたその傍で熱心に指導をした。けれど、描くべきものに気付き、元来の才能を遺憾なく発揮する煜瑾に、ベッキオ師も言葉を差し挟む気はなかった。  結局、ベッキオ師までも唐家の豪奢なゲストルームで休むことになり、朝は唐兄弟と一緒に豪華で美味しい朝食を摂った。 「昨夜は遅くまでベッキオ先生にお付き合いをさせたようですね。申し訳ありません」  ベッキオ師と煜瑾の気力はともかく、疲れた顔色に唐煜瓔(とう・いくえい)はすぐに気付いた。 「いやいや。私もとても楽しかった。煜瑾のような才能ある若者の創作を近くで見ることも、とても刺激的だ」  嬉しそうな恩師に、煜瑾も頬を染める。 「けれど、今日は絵からは離れましょう」  ベッキオ師は煜瓔の心配も理解し、絵の乾くまでの時間も考慮して、ニコリとして煜瑾に言った。 「煜瑾。私の絵画教室は午後からだ。午前中は、私と一緒に美術館にでも行かないかね?」 「先生と美術館!」  煜瑾は寝不足ゆえのハイテンションもあって、子供のように声を上げて喜んだ。 「行きたいです!ぜひ、先生のご意見を伺いながら鑑賞したい絵が、美術館に来ているのです」  興奮して立ち上がった煜瑾を、煜瓔は愛し気に見守りながらも、小さく首を振った。 「煜瑾坊ちゃま、お食事中ですよ。お行儀が悪すぎます」  主人の言いたいことに気付いた有能な執事が、本当に子供の頃に戻ったかのように煜瑾を諫めた。 「あ、ゴメンなさい…でも、お兄さま、先生と美術館に行ってもいいですよね」  優雅に腰を下ろし、煜瑾はキラキラした瞳で兄に許しを請うた。 「先生に、ご迷惑をお掛けしないようにしなさい」  煜瓔は鷹揚に頷き、弟のお願いを満足げに許可した。

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