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第8話 素直になれない
三週間振りにニゲルに誘われて向かった先は、サウザンドルインズに古くからある老舗のホテルだった。ニゲルいわく、前回泊まったホテルに空きがなかったらしい。「こういうホテルは駄目でした?」と聞かれたが、レトロで落ち着いた内装は心地がいいと思う。だから「このホテルもいいな」と答えたのだが、ニゲルがうれしそうに笑ったのを見て胸が少しだけざわついた。
部屋に到着すると、いつもどおり軽食という名のつまみと、喉越しのよいエールを注文してくれた。それらが部屋に届く前にと、俺はさっさと風呂に入ることにした。
古代遺跡から戻って来たばかりなら今夜は食事と酒だけかと思っていたが、こうしてホテルでいい部屋を取っていたということは、その先もするつもりなのだろう。それなら先に体を洗いつつ、気分もすっきりさせておきたかった。日々あれこれ思っていたことを綺麗に忘れて、以前と同じように気持ちがいいことだけを共有するために、気持ちを整える時間と場所が必要だった。
「そう、俺は恋なんてしない」
十六のときからずっとそう思ってきた。それをいまさら覆す気にはなれない。ニゲルのことをいろいろ考えたりするのは友人のように感じているからで、それ以上でもそれ以下でもない。俺は体の関係を求めているだけで、恋なんて絶対にしない。
そんなことを考えながら風呂に入っていたせいか、いつもなら他愛もない会話が続くはずなのに何を話せばいいのかわからなくなっていた。以前はどうやって話していたのかすら思い出せなかった。
そんな自分を悟られたくなくて、俺はただひたすらエールを飲み干した。
「ハイネさん、そんなに一気に飲んだら酔っ払いますよ?」
「大丈夫。お酒は強いほうだから」
「それでも今夜のはオールドエールだから……」
「大丈夫だって」
まだ小言を口にするニゲルを無視して、グラスに半分ほど残っていた濃い色のエールを一気に飲み干す。そうすれば渋々ながらも次を注いでくれるニゲルに、わけもなく苛立ちが溢れそうになった。
駄目だというのなら、次を注がなければいいじゃないか。それとも俺が年上だから気を遣っているとでも言うんだろうか。たしかに年上かもしれないが、そんなふうに気を遣う間柄じゃないだろう。
そもそも気を遣うというなら、ベッドの中でこそ気を遣うべきだ。気絶するほどメスイキさせるなんて、気を遣わないにもほどがある。
それに首に噛み付くなんて、しばらく痕が残って大変だったんだ。それを隠すために着た服のせいで余計な噂は広がるし、おまえのいなかった間、それはもう大変だったんだからな。
しゃべらないからか、心の中で次から次へと愚痴がこぼれた。それでも言い足りないのか、頭の中でさらに愚痴があふれ出す。
そうだ、あれこれ大変だったのも余計なことを考えてしまうのも、全部ニゲルのせいだ。あんなふうに抱いたりするから、耳にタコができるほどかわいいなんて言ったりするからだ。即オチだとか手に入れるだとか、そんなことを言ったりするニゲルのせいだ。
(そうだ、全部ニゲルが悪いんじゃないか)
「あぁもう、酔っ払ってるじゃないですか」
「……うるさい」
「もうお酒は終わりです。ほら、手と口、濡れてますよ」
グラスを取り上げられ、いつの間にか濡れてしまっていた手を丁寧に拭われた。続けて泡で濡れていた口元も優しく拭われる。
それだけのことなのに、胸の奥に妙な疼きが生まれた。全部おまえのせいだと睨みたいところなのに、顔を見ることができずそっと目を閉じた。
「酔ったハイネさんも、かわいいですね」
ほら、また言った。
ニゲルより四つも年上の男である俺が、かわいいはずがない。それに子どもの頃から美人だとは言われても、かわいいなんて言われたことはなかった。あのときだって「かわいげがない」とは言われたが、かわいいなんて言われたりはしなかった。
それからはずっと、美人だと言われる容姿に似合う言動を心がけてきた。手慣れた大人のやり取りを身につけたおかげで、ベッドの相手に苦労することはなく十分に満足もしてきた。それなのに、いまさら「かわいい」なんて、冗談はやめてくれ。
「かわいいなぁ」
囁くような声の直後に、触れるだけのキスをされた。そのまま頬と鼻先にも優しくキスをされる。
こんなふうに扱われたこともなかった。これまではもっと情熱的に、一夜の逢瀬に相応しいキスしかしなかった。
セックスだってそうだ。丁寧な愛撫は好きだが、お互いに欲を吐き出すための準備としか思っていなかった。昇り詰めた先にある開放感に向かって体を高め合い、どちらか一方が主導権を握ることもなく満たし合う、それだけだ。
それなのに、ニゲルは俺を極限までイかせようとする。俺の体なのに自分ではどうにもならないくらい、目の前の逞しい体に縋りつきそうになるくらいドロドロにされる。その結果、一晩に何度もメスイキすることになって、しまいには前回のように気絶することさえあった。
全部全部、ニゲルのせいだ。
「かわいい」
またそれか。俺のどこがかわいいと言うんだ。そんなことを言って、どうしようというのか。
「……おまえ、俺をどうしたいわけ?」
「そうですね。最終目標はハイネさんの気持ちも手に入れることですけど、とりあえず目先の目標としては、俺にしか感じない体にしたいかなぁ」
「なに言ってるんだか」
「結構本気ですよ? 俺にしか感じられなくなれば、ほかの人とセックスできなくなるじゃないですか。即オチしたってことは体の相性は抜群だと思うので、まずはそこから攻めていこうかと」
「それで、ベッドの相手を根こそぎ排除するって?」
「できれば、そうしたいです。そのためには奥の手だって使いますよ」
ニゲルが言う奥の手が何かはわからないが、どうやら本気らしいことはわかった。実際、ニゲルと寝るようになってからはほかの男とベッドを共にしていないのだから、思惑どおりに進んでいるということになる。
「そうまでして、俺の気持ちが手に入らなかったら?」
「うーん、それは嫌ですけど、こればかりはどうにもなりませんからね。ひたすら俺の思いを告げ、行動に移すのみです」
またキスをされた。硬い指先で首筋を撫でられ、体の奥がぞくりとする。
「なんでそこまでするんだ?」
「そんなの決まっているじゃないですか。ハイネさんが好きだからです」
そうか、好きなのか……。いや、こうして好きだと言われるのは初めてのような気がする。
気持ちがほしいと言われたとき、言外に好きだと言っているんだなということは予想していた。しかし実際に言葉として聞くと、詰めたいものがスゥッと腹の底に広がるようだった。冷たく重いものが、静かに体に広がっていく。
俺は重くなっていた瞼を押し上げ、笑みを浮かべたままの整った顔を見た。
「俺は恋はしない。だから恋人も作らない」
「ハイネさん?」
「そういう関係を望むなら、ほかの誰かを当たればいい」
「ハイネさん、」
ニゲルの体を押し退け、眼鏡を押し上げてソファから立ち上がる。そのままの勢いで骨董のようなドアの外に出て、俺の名前を呼ぶ声を遮るようにドアを閉めた。
好きだとか恋だとか、そんなどうしようもないものはいらない。恋なんて浮ついた気持ちを抱けば、きっとまた失敗する。容姿にふさわしい言動もできなくなり、ただの木偶の坊に戻ってしまう。
「あんなことは一度だけで十分だ」
優しくキスをされた唇を乱暴に拭い、ホテルのエントランスへと向かった。……が、足はのろのろと踏み出すばかりで、なかなかエントランスに辿り着けない。理由はわかっている。
(ニゲルを、手放したくないんだ……)
ニゲルが言うとおり、体の相性はすこぶるよかった。年下のくせにやたらと手慣れている男は、美味しい料理に酒、清潔なベッドと風呂を用意し、丁寧すぎるほどの愛撫を施してくれるし我を忘れてしまうくらいセックスもうまい。ベッド以外でも悪くない付き合いができ、友人と呼べるような存在にもなった。
そんなニゲルを自ら手放すことに、俺は躊躇している。
(それでも……)
恋人にはなれない。もうあんな思いをするのはごめんだ。
「……ヒューゲルさんのところに行くか」
このまま部屋に帰って一人でいるのは、どうにも寂しい。これまでそんなことを思ったことなんてなかったのに、全部あいつのせいだ。
ニゲルへの気持ちを振り切るようにホテルを出た俺は、ヒューゲルさんの住む高級住宅街へと向かった。
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