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第一話『失われた記憶』
『はぁ……、はぁ……っ』
随分と遠くまで走った気がする。振り向かず、ただ息を切らしながら小さな足はただ前へと進んでいた。
ぼんやりと見えはじめた青い屋根。その建物は交番と呼ばれるものでそこに駆け込めば中で書類に目を通していた男性の警察官に声をかけた。
『助けて、ください……っ!』
そう声をかければ警察官はとても驚いた顔で見つめた。
『ど、どうしたの!?な、なにっ、ちょっと待って、先輩ー!!』
ドタバタと奥へと走っていく警察官。
それを見ているとなぜか急激に不安に襲われ座り込んでしまった。
どうして此処にいるんだろう、僕の居場所はここではない、帰ってあげないと"あの人"が悲しんでしまう、帰らないと────。
震える足を返して降板を出ようとした時、後ろから手を引かれ敷地内へと引き戻された。
ふわっと肩にかけられた柔らかい毛布に気がつくと敷地から出ようと伸ばしていた足が止まった。
『行方不明届けが出されていた東蒼介君だよね?もう大丈夫だからね』
女性の声がする。それを聞いた瞬間、なぜだか涙が溢れ出てきた。
『ごめんなさい』
ただ、静かにこぼした言葉。それは誰に宛てた言葉だったのか、もはや分からない。
それからいったい、いくつの季節が流れただろう。
保護され事情聴取を受け、その際に警察側から投げ掛けられた様々な罵詈雑言に等しい問いかけ。
本当は助けなんて求めていなかった事を思い知り、そしていつしか……いつしか、大事な事を忘れてしまっていた。
誰かと分かちあった想い、優しさ、そして愛情。自分だけを愛してくれた人の顔も名前も思い出せなくなったのを、"思い出した"ところで目が覚めた。
「…………どこに……」
うわ言のように呟いた言葉。意識ははっきりとしないが誰かに会いたいという想いがある事だけは、よく分かった。
それにしても長い時間、夢を見ていた気がする。
しかし起きてみたらたったの三時間ぐらいしか経過していなかった。
ぼんやりと時計を見たら明け方の四時。
起きているであろう友人に電話して太陽が昇り、辺りが明るくなるその時間までただ話して孤独な時間が過ぎるのを待っていた。
それは秋の入り始めた、ほんの少し蒸し暑さがなくなって肌寒さを感じ始めた頃だ。
真っ白な病院の窓からは鮮やかな紅色に染まった紅葉がよく見えていた。ほんの一週間前までは緑色の葉だったというのにすっかり季節は移ろいでしまったようだ。
静かな院内を歩き、目的の科目にやってくれば受付で診察券を渡した。発行された整理券を手にポツポツと埋まっている長椅子の片隅に腰を下ろした。
総合科───即ち、どの科に行けばいいか分からない初診や精密検査を受けた人が来る科だ。
周りには女性らしき人が座っていて男は自分ぐらい。
どうしてこんな朝早くから学生服を着て来なくてはいけないのかと恥ずかしさはあるがグッと心を抑え、意識をそらす為に天井を仰ぎ見た。
この日は先週受けた検査結果を聞きに病院に来ていた。
検査結果を伝えるのはおよそ数分で異常があればそこから対応した科に案内される。
何もないだろうと決め込んで早く学校に行く事を優先的に考えていた。
一体いつ呼ばれるのかと天井付近に置かれたモニターを凝視しているとガラガラと引き戸が開く音がした。
「東さん、お入りください」
看護婦に呼ばれると重たい腰を持ち上げて診察室に足を踏み入れた。
入ったすぐのところに置かれている椅子に腰をかけ、落ち着いた表情を見せる医師に軽く頭を下げれば軽い会話からスタートした。
「東さん、一週間ぶりですね」
「ええ、一週間ぶりですね、先生」
「お身体、変わりないですか?」
「特に何も」
「そうですか、では検査結果を伝えてますね」
ありふれた医者と患者の会話。何も考えずに答え、検査結果を聞いていた。
「────以上、となります。性病検査結果はいずれも陰性となりますが……」
静かな声で話す医師の会話内容にはなんの疑問も違和感もなかった。
総合的に見て心身共に落ち着いている事や病気している訳でもない、健康体だと告げられたのだから何も問題はなかった。
何も無いのならそろそろ帰れるかと安心した蒼介はふと医師の手元にあるカルテに視線が傾いた。
他国語で何を書いているのか分からない。しかし鉛筆で書いたであろう筆跡は日本語で『要両性者』と書かれているのに目を見張った。
「……先生、僕の……性別は……」
「…………両性者です……」
長い無言の後、紡がれた言葉に蒼介はただ絶望感を感じて項垂れるしかなかった。
この日本という国は百年以上前、年間人口数が三億人を維持していたというのに突如、五千人を割り込んだ事があった。
様々な流行病により年間の死者数が増加した事、自然災害や事故、または政治的な関連から貧困世帯が急激に増えた事から家計逼迫による心中、孤独死が相次いだ……など。
様々な要因から少子化が加速していった。男が六に対して女性は四、そう言った男女の比率が長年続いていったというのに女性があまりにも生きづらい世の中になったせいか、男性の方が圧倒的に多くなってしまった。
それは急激に、そして緩やかに国を衰退させていった。それに危機感を抱いた国はこの状況を打開する為にある研究を重ねた。
新たな性別として、男女どちらの性質を持つ新しい人間の形───両性者を作り始めた。
遺伝子の組み換え、様々な病を調べ多臓器でも耐えうる心身を作る為に様々な研究が重ねられた。
その成果もあってか約三十年前から両性者の遺伝子を持った人々が産まれてくるようになった。
国民全員に多額の給付金と引き換えに摂取をした事が功を奏したらしい。
両性者といっても、骨格はどちらかの性に依存している。
男女いずれにしても両性者として分かるようになるのは十五歳になった頃。国の定められた身体検査により、発覚する。
通常の性なのか、それとも両性者なのか。
この場合、蒼介は男性だと認識していたが男性器とは別に体内に子宮や卵巣という事から男体女性 と認定された。
男性の身体を持ちながら、女性としての役割を担う性。
この日本の成人年齢は十五歳だ。十五歳になると受けるこの検査をもって今後、パートナーを作り、子作りに励まないといけない。
それは法律であり二十歳までに作らないと法律で罰せられる事になる。
蒼介は困った事に規定の十五歳を過ぎていて、今年十七歳……高校二年生だ。
「先生、両性者は分かりましたが流石にこの歳ですぐにパートナーを作るのは……」
苦笑いを浮かべて蒼介は口にした。
理解できていなかった、仕組みこそ幼い頃から学校で習ってきたとはいえ、突然自分が女性としての役割を担わないといけないのが理解できなかった。
しかし、医師の顔はとても軽やかで、不思議と何も気にしていないように伺えた。
「いえ、蒼介さんは出産経験があります。検査結果によると恐らく一人」
「は……?いえ、そんな事…… 」
「一年前ぐらいでしょうか、ただし出生届けもされていないので詳細がわかりませんが……一年前に心当たり、ありますか?」
「一年、前……確か、僕は……っ」
子供がいる事を告げられて蒼介の顔は一気に青ざめていった。
心当たりがあるかと問われた瞬間、視界が急激に狭まっていくのを感じた。
最初はそんな事はないと強く思っていた。しかし、蒼介には空白の期間があった。
そう、十五歳で受けるべきの検査を今になって受けている理由────それが蒼介にとっての忘れられない"空白の期間"だった。
卒倒するように椅子から崩れ落ちた蒼介に医者は大声を上げて看護婦を呼びつけた。
「病室に運んで」という声が僅かに聞こえてからプツリと意識は途絶えた。
□
あれは暑い真夏の日だった。
確か中学生の頃だろうか。記憶は定かではないがとにかく学校から帰ってくると共働きの両親に代わって玄関の扉を開けて掃除や皿洗い、部屋の換気と色々やる事をしていた。
暑い日だったから家にいるのが辛かった。
エアコンすらつけてはいけないと言われていた蒼介は家の前に椅子を置いて本を読んでいた。
その時の将来の夢はピアニストだった。だから毎日、様々な楽譜をまとめた本を手に読んでいた。
いくら楽譜を読み解けても家にはピアノがない、学校に行かないと弾く事すら出来ない。
そのもどかしさを胸に読み解いていたその日、 横から大きなため息が聞こえた。
男性が扉の前でしゃがみ、落ち込んだ様子で片手に持つ缶ビールをぐびぐびと飲んでいた。
飲んだくれとは付き合いをしてはいけないと母親からキツく言われていたのを思い出した。
無視しようと見ないふりをしていたが何やら様子がおかしい。どこか衰弱しているようにも見えてブツブツとうわ言を口にしていた。
それに異変を感じた蒼介は立ち上がり、本を椅子に置けば家に入り、水の入ったコップを持てば男性に近寄った。
『熱中症になりますよ、そんな長袖着てたら』
そう物怖じすることなく、男性の頭に水をぶっかけたかと思えば思った事を伝えた蒼介。
突然、頭から水をかけられては男も驚きを隠せないようだ。まん丸と目を大きく見開いていたかと思えば彼は頭を振るい水滴を飛ばすとにこやかに笑いかけてきた。
『悪いな、のぼせてたようだ。兄ちゃんも暑そうだし、家でエアコン掛けれないのならうちで涼まるか?』
『え、いや……』
『遠慮すんな、助けてくれたんだから麦茶ぐらい奢らしてくれよ』
『……じゃあ、お言葉に甘えます』
突然、家に招待されては蒼介も戸惑いを隠せなかった。
それ程の事をしたつもりはなかったが確かに熱中症になる可能性もあり、一歩間違えれば死に至る可能性すら有り得たのだ。
命の恩人なのかと言われたらそれほどではないが蒼介は相手の言葉に甘える事にして彼の家へと上がった。
男らしい大雑把な部屋。ごちゃついた部屋に足を踏み入れると奥にある居間へと案内される。
エアコンをつけるまでは蒸し暑かった。つけると急激に部屋は冷えていき、ちゃぶ台の上に出されたキンキンに冷えた麦茶を飲んで蒼介は一息ついた。
『はぁ……、助かります』
『此方こそ、助かったよ』
感謝の意を伝えると男は和やかに微笑んだ。
生活感はあまりない。ゴチャゴチャと物が置かれている姿はまるで物置のようだった。
この家にはこの男性しか住んでいないのだろうか、そんな事を考えながら男を見上げていると彼は照れくさそうに笑った。
『なんだ、そんなジロジロ見て』
『いえ、一人暮らしなのかなって』
そう問いかけた蒼介に男はにんまりと笑ってみせる。
『息子と二人暮しだ』
『息子さん……という事は父子家庭ですか?』
『そうだ』
『あ……お母さんがすみません、可愛らしいスポンジなんか渡して……』
蒼介はつい最近、引っ越してきたばかりだった。両親仲睦まじく円満家庭で住んでいた家が取り壊しになる為、このアパートに引っ越してきた。
母親から引越した際に上下、隣に住まう人に引越し挨拶と称した粗品を渡すのだと聞いていた蒼介は花柄のスポンジと花の香りがする洗剤をこの家庭に渡していたのを思い出し、謝った。
母親は無難かつ女性が家事をするという想定で渡していたのだ、その枠組みに必ずしも当てはまる訳ではないと改めて認識した蒼介は申し訳なさそうにしていたが男は全然、気にした様子でもなかった。
『ああ、あれか?可愛らしいスポンジに良い香りのする洗剤だからって事で久しぶりに食器洗いをしてな、おかげさまで台所がピカピカになったんだ』
『……え、あ……それは、良かったって事ですよね……?』
綺麗に掃除されたと聞いて、少し立ち上がって居間から見える台所を見てみると確かにそこにはゴミなどなく、綺麗に整えられた台所があった。
『少し見ていいですか?』と聞けば男はすぐに頷いてくれた。蒼介が立ち上がり、台所に立ち寄ると確かにスポンジをかける場所であるラックには母親が渡した花柄の可愛らしいスポンジが置かれていた。
『……使ってくれているようでよかったです』
『どういたしまして。此方こそありがとうって親御さんに伝えておいてくれ』
『分かりました。あ……そろそろ家に戻らないと……』
『ん?親御さんが帰ってくるのか?』
『はい、帰らないと怒られるので。じゃあ失礼しますね』
穏やかな笑顔が黒髪の隙間から覗き見えた。ゆっくりとした時間が流れていると突然、それを遮るように蒼介は帰らないといけない事を伝えた。玄関に向かい男に『長袖はダメですよ』と言って微笑みかけてから家を出た。
扉を閉めて表札を見る。郷田と書かれた表札を見てすぐに自分の家に向かえば蒼介は扉を開けて家の中に入った。
□
ほんの少し、昔を見ていた気がする。
中学生の頃の記憶を夢として見るのは久しぶりだ。
(……郷田さん、か)
蒼介にはある一定期間の記憶がなかった。
中学生の一年生から高校一年生まで、厳密には中学三年生までだ。
高校一年生の間は長い間、入院していてその間の記憶もないのだ。
薄らと思い出すことができた事に嬉しいのか、残念なのか分からない複雑な感情に眉を寄せて目を開けると視界に真っ白な天井が入ってきた。
「ここは……」
ゆっくりと上体を起こすとそこは病院だと分かる。置いている機材に記載されている名前は桃山総合病院、検査を聞きに来た病院名だ。
頭がはっきりとしない為、ぼーっと何もせず寛いでいると病室に人が入ってきた。
「東さん、起きましたか?」
検査を受けてくれた担当医師が入ってきて声をかけてきた。
少しだけ間を置いて「起きました。ご迷惑おかけしました、大丈夫です」と軽く済ませると医師は困ったような、苦笑いを見せた。
「すみません、東さんがうちの心療内科にかかってるなんて知らずに聞いてしまい……発作でしょうか?」
「……ええ、発作みたいなものです。時折、思い出すと倒れるんです」
高校一年生の時に大学病院の中にある精神科に入院していた。酷い精神的ショックからの自殺行為が目立った事から落ち着くまでの間、入院していた。
中学生の間に誘拐され何処かで監禁されていた、その間に性暴力を受けていたが何らかの理由で逃げれたものの蒼介は犯人の事を何一つ、供述しなかった。
それもあってか、当時手荒な事情聴取を受けて精神面で強く傷ついてしまったらしい。
どうしてらしい、なのか。それらにまつわる話が蒼介の記憶には何一つなかったのだ。
ほんの僅か思い出した"郷田"という名前の男。
全然思い出せていないがどこか胸の内がすっきりしたような気がする。
長い間、胸にかかっていた靄が少しだけどんよりと淀んだ雲の隙間から差す日差しに触れたかのように、ふわっと軽い気持ちだった。
「何ともないのならそれでいいんだけど……」
心配そうに話す医者に念押しするように、蒼介は「大丈夫です」と微笑んだ。
「えっと、こちらの病室を使わせていただいたお代は……」
「ああ、それは此方のミスによる出来事なので此方で負担しておきます」
病室代を出さなくて済み、ほっと安心した蒼介はゆっくりとベッドから出た。
数日分の発作対策として頓服が出る事を伝えられ、深々と頭を下げた蒼介が病室を出ようとした時、医者は微笑んだ。
「なにやら色々あったみたいですが久しぶりにピアノでも弾かれてはどうでしょうか」
「ピアノ……先生、知ってるんですか?僕がピアノを弾く事」
「いえ、担当の主治医から聞いただけです。なんでも最近、電子ピアノを買ったとか。最近の楽譜は素晴らしいのもあるらしいのでぜひ今度、主治医と一緒に聞かせてください」
その言葉を聞いて少しだけ胸が弾んだ。
誰かに聞いてもらえるのなら是非ともまた弾いてみたい。
確かにその為に買ったのかもしれない、童心に戻りたくて高校の友達にお願いして買ったのだから。
「分かりました、また今度聞きに来てくださいね」
笑顔でそう言って病室を出ると蒼介は一階のフロアに向かい、会計を済まして病院を出た。
発作対策の頓服を手に学校には向かわず、そのまま足を家へと向けた。
帰路を辿る途中で行きつけだったCDショップに立ち寄ると少し前から気になっていたCDと角で売られている楽譜を手にレジに向かった。
(ああ、近隣に迷惑かけないためにもヘッドホンも買わないと)
思い出してはカゴに入れ、暫くして思い出し、あれもこれもと手に取ってカゴに入れる。
それを繰り返していたらいつの間にかカゴは溢れかえっていた。
それを手にレジに向かい、商品のバーコードを読み取っている間に財布を取り出していると若い男性店員が「あっ」となにか思い出したような声を出した。
「……?」
蒼介が鞄から財布を取り出した時にその声が聞こえた。顔を上げて店員を見ると茶髪のいかにも交友関係が派手そうな外見をした、同い年ぐらいの店員は視線を泳がして「何もないです」と口にした。
一体なんだろうか、不思議に思って首を傾げたが下を向いて黙々と、何事もなかったようにレジに商品を通す彼を見て蒼介もまた財布の中の残高を確認していた。
「5318円です」
「あ、じゃあ6000円で払います」
「ポイントカードありますか?」
「はい」
ありふれた会話、お札を出してお釣りとカードを返して貰えば袋に詰めてもらった商品を受け取る。
それを鞄に入れると店を出ようと入口に向かった。
人のいない静かな店内にかかる店内放送のラジオ。いつ来ても客がいないなと思いながら店の扉を開けた瞬間、背後から声をかけられた。
「東、だよな?」
声をかけてきたのは先程の店員だった。
どうして東だと分かったのか。カードの裏面の名前を記載する欄にも名前を記載していない。レジに通した際に個人情報が見れたのだろうか。
定かではないが「そうですが?」と言って振り返るとその彼は少し目を泳がせ挙動不審さを伺わせた後、言葉を、声を発した。
「……俺の事、覚えてないか?」
目を凝らして彼を見ても誰か分からない。
高校に通ってはいるが彼のような派手な子は一人だけいるがその人はガタイが良くて腕っ節もある男らしい人だ。
それに比べて彼のような一昔前までよく聞いたギャルとでもいうか、チャラ男らしい男と交友関係があった記憶すらない。
蒼介は人違いでは、と思ってしまったがまるで知ったような口ぶりで話し始めた彼に目を見張った。
「久しぶりだな、もう一年以上も会ってなかったもんな……元気そうでよかった。またピアノ弾くようになったんだ、俺好きだよ、東の……アオイの弾く、ピアノさ」
「……アオ、イ………?」
─────まるで蓋をした鍋からほんの少し、中に詰まっていた"何か"が溢れた気がした。
アオイという言葉をなぜか、蒼介は知っていた。知らないはずなのに、どうして知っているのか。
高校の知り合いも親も皆、蒼介の事は東か蒼介としか呼ばない。それなのにどうして"アオイ"と呼ぶのか。
「………っ、ひゅー………ひゅー……っ」
息苦しさを感じ始めた頃、ようやく気付いた、パニックに陥り過呼吸になり始めているのに。
蒼介はその場を逃げるように背後にある扉を開けて店から飛び出した。
「なっ、待ってくれアオイ!!なぁ、翠町に帰ってきてくれよッ、アオイの子供だってちゃんと親父と育ててるから───」
呼び止める声が聞こえた気がするがなるべく遠くへ逃げるように店を飛び出した。
聞いていない、聞こえていないと必死に自分に言い聞かせて走り続けた。しばらく走って呼吸の仕方を忘れていたのを思い出した頃、急いで近くの自販機から水を買って頓服を飲んだ。
(……だれ、アオイって……僕は、僕は……)
急激に襲う不安感に押し潰されそうになった。
街の交差点、行き交う人々は自販機の前で座り込む蒼介に目もくれず街を歩いていく。そんな中、孤立したように座り込む蒼介はやっとの思いで鞄からスマホを取り出し高校の友達に連絡をつけた。
□
あれから数日が経った。
どうやら蒼介は発作による意識不明の状態になっていたらしく、迎えに来てくれた友達が家まで送ってくれた。
それから数日は眠っていたらしく、起きた時には蒼介は再び病院に行かねばならない状況で友達に連れられ、主治医のいる桃山総合病院へ向かった。
一週間の自宅療養を言い渡され、家で安静にする事になった蒼介は主治医に相談した。
「アオイって誰なんでしょう……翠町って………子供って………」
主治医からの答えは「思い出さない方がいい」というものだった。
確かにそれがいいのかもしれない。しかし、幼い頃からいつも真実を知りたがる探究心に溢れた蒼介は気になって仕方がなかった。
一週間の自宅療養を経て、蒼介は学校に通い始めたが休みの日はネットで調べて自らの意思で翠町に行く事が増えた。
電車で五つ、進んだ先にある場所が翠町という。
緑で溢れたのどかな田舎で静かな場所だ。
何一つ思い出せない。そんな中で何度か足を伸ばして散策していた蒼介はある時、導かれるようにしてある小学校に訪れた。
酷く見覚えのある小学校、校舎の窓から聞こえる子供たちの元気な声。
そう言えば昔、この小学校で卒業した事を蒼介は思い出し、思い出に馳せていると校門の脇にある小さな扉から人が出てきた。
「おや、東くんじゃないですか」
年老いたふっくらとした老人が出てきた。一体誰だろうかと首を傾げたがその落ち着いた声にハッと思い出した。
「校長先生……」
「随分と大きくなりましたねぇ。こうやって卒業生が来てくれるの、先生はとても嬉しいですよ」
その穏やかでとても落ち着いた雰囲気を醸し出すこの人は校長だ。
蒼介が在学してる時から気にかけてくれた人だった。両親の多忙さから常に運動会や授業参観で一人孤立していた、その時はいつも駆けつけてくれ、両親に代わって陰ながら応援してくれていた。
とても良い人だと思い出してはほろっと涙が溢れた。
「おやおや、泣いちゃってどうしましたか?」
「いえ、先生に会えたのが嬉しくて……すみません、思い悩む事があったのでつい無意識に此処に立ち寄ってしまって……」
自分よりも腰が曲がって小さくなってしまったというのにぽんぽんと頭を撫でられては更にほろっと涙が溢れる。
そんな姿を見て校長は穏やかに微笑み、そして声をかけた。
「君は探究心旺盛ですからね。君のしたいように、気になる事はとことん調べたらいいですよ」
その言葉に蒼介は言葉を詰まらせた。現実から目をそらさなくてもいいんだと気付いただろうか。
今まで気になっていた過去に起きた誘拐事件の真実。どうして自分が何も証言することなく、事件は解明せずに流れてしまったのか。
それを知りたかったが息苦しさ、そして周りの思い出さなくていいという言葉に圧倒されて我慢していたのを気付かされては蒼介は涙を拭って「ありがとうございます」と静かに囁いた。
「それじゃ帰りますね。忙しい時にお話に付き合ってくださり、ありがとうございます」
「いえいえ、卒業生がの生徒が訪ねてくれるのはとても嬉しい事ですから。またいつでも訪ねてください……あ、そうそう。これを君にあげましょう」
別れの挨拶をしようと蒼介は一礼するとにこやかに微笑んでいた校長は胸ポケットに入れていた焦げ茶色の小さな折りたたみ財布から千円札を一枚出し、蒼介の手に握らせた。
「これは……?」
「きっと貴方は会うべき人がいるのでしょうからこれはその背中を押すためのお駄賃ですよ。その人と喫茶店でもどうですか?」
会いたい人───昔からまるで人の心が読めるかのように、見透かしているかのような言葉を口にする校長に蒼介は「校長先生には敵いませんね」と照れくさそうに笑った。
確かに会わないといけない人がいる、それを思い出させてくれた校長に改めて礼を伝えると蒼介は学校を離れて駅に向かった。
住んでいる駅まで戻ればその足で以前行ったCDショップへと足を伸ばす。
店の前まで来たら深呼吸。カランコロンと扉につけられた鈴が音を立てて開かれると中に足を踏み入れる。
「いらっしゃいませー」
若い男の声。レジカウンター近くまで足を伸ばして確認するとやはり例の男が店番をしているようだった。
「お一人ですか」
そう蒼介が問いかけると下を向いて何かを確認していた彼は少し間を開けてからこちらを向いてハッとした顔で蒼介を見つめた。
「ひ、一人です!あ、えっと……あ、アオイ……あ、いやっ、東……」
随分と挙動不審気味な彼に対して蒼介は落ち着いていた。
やけに頭が冴えていた、いつもなら緊張してパニックになっているはずなのに校長に背中を押されたせいだろうか、とても心が静かで怖いものなんてなかった。
「……僕の名前は東蒼介。どうしてアオイと呼ぶのか、そして貴方が誰なのか……教えてほしいから時間をください」
鞄から紺色の長財布を取り出し、校長から渡された千円札をレジに置く。
「これで僕と喫茶店に行ってください」と伝えると彼は困った顔を見せた後、予定表を見ているようでカウンター下を確認したりした後、蒼介を恐る恐る見た。
「……い、いいけど、逃げないでくれよ……?」
「もう逃げませんよ、僕は知りたいから逃げるわけにはいかないんですよ」
迷いのない言葉に彼は圧倒されながら渋々と郷田と書かれた名札のついたエプロンを外した。
蒼介に連れられ、彼は近くの喫茶店に向かった。
こじんまりとした静かな、落ち着いたジャズが流れる店。
茶色を基調とした空間に差し色として緑の観葉植物が置かれている上に客層は年配ばかり。そんな大人びた喫茶店には高校生の蒼介と恐らく年下であろう彼はとても似つかわしくなかった。
「お客様、ご注文はお決まりでしょうか?」
「僕はアイスティー、ミルクと砂糖を多めにお願いします」
「あ、俺は……あ、アイスコーヒーで!」
「分かりました!アイスティーのミルク砂糖多め、アイスコーヒーで……」
「彼のコーヒーをカフェラテにしてください」
「あ、はい!分かりました!カフェラテですね!」
注文を頼む蒼介の仕草はとても手慣れているようで彼は不自然のないように飲めないコーヒーを頼んでしまった。
苦く笑う彼を察してか蒼介が頼み直せば注文を聞きに来ていた従業員は笑顔で奥に戻っていった。
「か、カフェラテなんて……!」
「コーヒーは無理なんでしょう?カフェラテならミルクも多い、砂糖を多めにすれば貴方でも飲めるはずですよ」
「う……っ、はは……アンタには敵わねぇよ」
案の定、彼は無理してコーヒーを頼んだようだ。ほっとした様子で話す姿を見て蒼介は呆れたように微笑んだ。
運ばれてきたカフェラテとアイスティー。それを見ながら手慣れた手つきで双方のグラスにミルクや砂糖を入れると蒼介は本題を語り出した。
「さて、お聞きしたいことがあります。どうして、あの日僕をアオイと呼んで呼び止めたのか。そして……翠町と僕の子供ってなんですか?」
その問いかけにそれまで和やかにへらへらと笑っていた彼の顔はギュッと引き締まった。そして目を泳がせた後に彼は机の上に手を置いて語り始めた。
「じゃあ、まずは自己紹介から……俺の名前は────────」
それは一時間以上にも及ぶ長い話だった。
知らないはずの自分が関わった話を聞きながら蒼介は乾いた喉を潤すようにグラスを口に押し当ててほろ苦いアイスティーを胃に注いだ。
□
「荷物置き終わりました!こちらにサインお願いします」
引越しが終わり、作業員がサインを求めてきた。サインをした上で判子を押せば支払いを済ませ、帰っていくのを見送る。
翠の丘アパートの一階に引っ越してきた東蒼介は二十三歳、今年から新人教師としてデビューする事になった。
窓から差し込む穏やかな日差し、それを浴びながら窓から離れたところに置かれた、この家のために買った柔らかいラグの上に置かれた椅子に腰をかけると蒼介は天井を仰ぎみた。
「えーと、確か上の階はよくて、お隣の家に差し入れして……」
この家に引っ越してきたのは理由があった。
教師として就任した小学校から近いというのもあったが、何よりも一番の目的があった。
綺麗に包装されたカステラの入った箱と洗剤が入った箱を二つ重ねて袋に詰めるとそれを手に蒼介は家から出てお隣に向かった。
表札は……"郷田"。そう、このアパートはかつて蒼介の家族が住んでいた家だ。
蒼介の誘拐事件が発生し、無事に保護されてから程なくしてこの家を離れてしまったが形変わらず、このアパートはあの頃と変わらずそこにあり続けていた。
唯一変わった事は内装が大きくリフォームされて綺麗になったことぐらい。
「さて、いるかな……」
ここまで順風満帆だったがひとつ、大きな問題に直面した。
それはこの家の世帯主である人に面会する事だった。
その人はかつて、蒼介を誘拐した人物で深い関係のある人だ。会う為に蒼介は引っ越してきた、失った記憶を思い出す為にわざわざ大きな賭けをしてまで。
六年前のあの日、蒼介はCDショップの店員"郷田 拓也"を喫茶店に呼び出して話を聞いた。
揺れるカフェラテのグラスを見ながら静かに泳ぐ拓也の目を見つめて「落ち着いて」と語りかける蒼介。
その日から、固く締められた歯車は自らの意思を持って大きく動きだした。
『じゃあ、まずは自己紹介から……俺の名前は郷田拓也。十五歳です、あのCDショップは知り合いてのツテで働いてるんでこの事は内緒にしてください』
『いいよ、内緒にしてあげる。で、アオイって呼んだのは?』
『……それは、……俺とアンタは元々小学校の先輩後輩だった。音楽室でピアノを弾くアンタの横顔に惚れた俺が先輩って呼ぶようになったのがキッカケでアンタが俺をタッくんって呼んで、俺が蒼介の蒼からアオイって呼ぶように……』
彼こと拓也と蒼介は小学校の先輩後輩だったらしい。その事を聞いて少し頭痛がした後、ぼんやりと当時の事を少しだけ思い出しはじめた。
『じゃあ、タッくん。色々と質問はあるけど子供の名前は?』
『……ひろと、郷田裕翔。親父が名付けたんだ、アンタが子供の名前に望んだからって……親父は言ってた』
『ひろ……と……ッぁ……あ……っ!!』
────そうだ、帰らないと。あの人が待ってる、あの人が……"あの人"が。
その言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ暗になった。
バッと一気に湧き上がるように蘇った記憶、しかしいずれも不確かなもので掴んでは消える雪の花のように一瞬にして消えた。
それは街の片隅に捨てられた空き瓶のように、とても空っぽで覆い隠すことさえ不可能なほどの喪失感が全身を、心を襲った。
『あ、アオイ……?!』
立ち上がった拓也に支えられてようやく乱れた呼吸が整う。背中をさすられている最中の周りの視線はとても冷ややかで居た堪れない。
『もう大丈夫』と告げて席に座ってもらえば蒼介はゆっくりと、話しを続けた。
『……僕は思い出したいんです、昔の事を……』
『いや、それは結構過酷な事じゃ……知ったところで幸せなんか……』
思い出したい、それを咎めた人は沢山いた。親も昔の友達も先生も。
それでも知りたい、あの日が確かな幸せなものであったのを蒼介は誰よりも理解していたからだ。
『ダメですか……?』
潤んだ瞳で拓也を見つめると彼はバツの悪そうな顔を見せてからため息をひとつ、吐いてから目の前で走り書きのメモを書いて蒼介に渡せばカフェラテを一気に喉奥に流し込んだ。
『これは……』
『俺ん家の住所。ずっと前から変わってないんだ、きっとアオイが来たら少しは思い出すはず』
翠町として記された住所。見覚えのある住所に蒼介は息を飲んでから静かに、小さな声で『ありがとうございます』と呟いた。
そこの近くに住まえば何か分かるかもしれない。
そう考えるのは簡単だが行動に移す事はそう簡単なことではなかった。
両親に強く反対され暫く動く事すら叶わないほどだった。大人になるまで我慢しようとその頃から学校の教師を志して勉学に励んでいれば無事、時間こそかかったが教員免許を取得できた。
そこから翠町の学校に所属する為に探していると例の小学校の校長が手伝ってくれたおかげで親元を抜け出す事が出来た。
はれて、蒼介は自由の身として翠町に引っ越してきたのだ。それも拓也とその家族が住まうアパートの隣に。
問題は最後に拓也と喫茶店で話してから年数が経っている。住んでいるようだが問題の世帯主が離れていたりしないか心配があったが────。
「はーい、誰ですか?」
郷田家のインターホンを押して待っていると扉が開かれた。
出てきたのは年端もいかない幼い少年だ。一瞬驚いたが拓也に聞いたの年齢から考えておよそ一致する。
小学六年生ぐらい、だろうか。
「えーと、お隣に引っ越してきた東といいます。お父さんはいますか?」
そう優しく微笑みながら問いかけると少年は少し困った顔を見せてから首を横に振った。
「お父さんお仕事行ってます!」
「お兄さんは?」
「お兄ちゃんもお仕事!」
「そう、ならこれをご家族に渡してくれたら───」
誰もいないようだった為、とにかく渡そうと差し入れを渡そうとしているとザッと背後に人が立ったのに気づいた。
「おっ、アオイ!久しぶりだな、ついに引っ越してきたのか!」
「た、たっ、タッくん!久しぶり、隣に引っ越してきたんだよ」
いきなりの声に一瞬驚いたが気楽な声にすぐにほっとした。拓也がちょうど帰ってきた頃で軽く挨拶し改めて差し入れを渡せば受け取りながら東が住まう隣の部屋を見た。
「……昔に戻ったみたいだな」
「ああ、そうだね……」
初めて話したのは真夏の暑い日の時だった。確かにこうして玄関前に座っている"彼"に声をかけたのがきっかけだった。
あの頃の真相を確かめるために、思い出すために蒼介は少しずつ行動しているんだと実感する反面、少し怖いものもあった。
「仕事決まった?決まってなかったら……」
「決まってるよ、小学校の先生するんだ」
「おっ、だったらうちの可愛い裕翔、頼むよ、先生?」
玄関先で話を聞いていた裕翔の肩を叩いて拓也はニッと口角を上げて笑ってみせた。
この小さな少年が蒼介の子供なんだという実感はないが黒髪にどこか青みを帯びた黒い瞳はよく蒼介に似ていた。
「先生、よろしくお願いいたします!」
「こちらこそよろしくね、裕翔くん。じゃああの人にもよろしくね、タッくん」
「おう、任せてくれ!じゃあな」
そう言ってそれぞれ挨拶しては各々、家に入った。
まだダンボールだらけの部屋の中を見ながらなんとか最初の一歩を踏み出した蒼介は壁にかける予定だったカレンダーをつけると日付のところに赤ペンで丸をつけた。
(あっ、連絡先交換するの忘れたな……また今度教えてもらおう)
ガタガタと荷物を取り出し、予定していた場所に置いたりして生活感を作っていく最中、忘れていた事を思い出した。
また今度聞こう、そうやって一つ今後の小さなやる事を見つければ着々と部屋を片付けていく。
あとは足りない衣装ケースや棚を買ってそこに収納したら終わる。2、3個ほどダンボールが残った状態で片付けが終われば軽く夕飯を済ませてベッドに腰をかけた。
明日は早い、早く寝て朝から出勤しよう。
(おやすみなさい)
いい夢を見れるのを願って蒼介は部屋の電気を消せば床についた。
□
「ただいま」
低い声が玄関から聞こえてきた。
居間でゲームをする裕翔の横でぼんやりとゲーム画面を見ていた拓也は立ち上がり、迎えに行く。
「親父、おかえり」
父親が帰ってきた。いつもと変わらない作業着姿で帰ってきた父親は荷物を玄関先に置くと上着を脱いで風呂場に向かった。
蒸しかえるほど熱気を帯びた衣服の中は汗でぐっしょりと濡れていて、体のラインがシャツ越しに浮き上がっていた。
「洋服、用意してるから。あがる頃に飯温めとくわ」
「ああ、助かる」
そう言って服を脱いで浴室へと入っていった父親を見て拓也は父親の文だけ残していた夕飯の準備し始めた。
ひとつの皿にまとめたのを温め直している間にフライパンなどを洗っていると裕翔が飲み終えたコップを持ってきた。それを洗ったりしていると暫くしてから父親が風呂から上がったようで声をかけてきた。
「拓也」
「ん?うぉ……っ、どうした親父」
振り返った拓也は真後ろに、そしていつの間にか立っていた父親にギョッと驚きを隠せなかったが何かを見ているのに気づけば首を傾げながら呼んだ。
「いや、スポンジを買い直したのか?」
「ああ、これはお隣さんが引っ越してきたからその挨拶で貰ったの」
この時期らしい桜の形をした桃色のスポンジを見せながら洗っていく。
花柄の可愛らしい、そこそこ値の張る食器洗剤もこの家にしては珍しい。
そもそも料理をしない家だからコップ以外の食器は埃を被ってる。その埃被った食器をわざわざ洗い直しているんだ。
それは父親にとって不思議な光景だっただろう。
しかし、"お隣さん"と口にした拓也の言葉を耳を疑うほど、驚きを隠せなかった父親は口元に手を当てて少し間を空けてから顔を背けた。
(あー、こりゃ言うの早すぎたか?勘づいちまったかな)
そう考えた時には時すでに遅かった。
シャツに袖を通した父親は「缶コーヒーがないな、買ってくる」と言って外へと出た。
しかし、あの人は缶コーヒーなんて飲まない。『喫茶店のコーヒーの方が美味い』と言って昔から缶コーヒーなんて買ってくる事は一度も無かったのだ。
大丈夫だろうかと心配しつつも夕飯の準備が終われば食卓に並べて帰ってくるのを裕翔と共に待っていた。
□
(ここに自販機があったような……)
田舎だから歩いてすぐの所にコンビニもスーパーもない。ここは坂道に建つ家だから自販機すら近くにない。
少し坂を下った先に自販機があったのを引っ越してくる先に見たのを覚えていた蒼介は寝付けない身体を休めるべく、夜道を歩いて探し、見つけた。
(ラインナップはだいたい一緒だなぁ……なにか一つ買って……)
ポケットから取り出した小銭を手に自販機の投入口から何枚か入れた。
少しまだ肌寒い気がするがホットの商品は少ない。ここは缶コーヒーか、悩んでいるとザッと地面を踏みしめる音が聞こえた。
(あ、人が来た?こんな遅い時間に街灯ないところで会うとか怖いな。早く選ばないと……)
「温かいのを買うんですか?ならミルクティーもありますよ」
足音に少し警戒しながら手早くボタンを押して帰ろうとした際、突然の声に蒼介は肩を大きく跳ねらせて横を向いた。
髭面の男の人だ。歳は蒼介よりも幾分も上で落ち着いた風貌が目に付く。
たまたま偶然ここに来たのだろうか、何か意図があるんじゃないかと勘繰ってしまうがトントンと自販機のガラスを叩く仕草を見て自販機を見てみると確かにそこにホットミルクティーがある。
「あ、本当ですね……ありがとうございます、じゃあこれを」
誘導されるがまま、購入ボタンを押せばガタンガタンと音を立てて商品が落ちてきた。
それを拾ってから返却口から余った小銭を取りだし、ポケットへと再びしまった。
「ミルクティーお好きで?」
「ええ、好きです、昔から好きで……」
ホットミルクティーは昔から好きだ、とても無難な味で優しくてホッと心を癒してくれる。
家では一度も飲んだことがないがいつもこれを飲んだら辛い事や寂しい声がホッと安らいでいた気がする。
────家では一度も飲んだことがない?
どうしてそんな物が好きなのか、そしてどこでそれを飲んでいたのか。
そう言えば昔飲んでいたのもこの手のひらにある"華の紅茶"と呼ばれるミルクティーだった。
ミルクティーと言っても様々な花の香りがアクセントとして取り入れられ、心が安らぐ商品だ。
どうしてこれを飲んでいたのか、思い出せない。
(……僕は、どうして……)
様々な"どうして"という疑問が頭の中で渦巻いていると男の人は優しい声で蒼介の頭を撫でた。
「差し入れ、ありがとう。今度君の家に花を届けてあげるから花瓶を用意して待っててくれ」
「えっ、あ……っ」
「疲れただろう、今日はゆっくりおやすみなさい。悪い夢は見ないようにそれを飲んで寝なさい」
ポンポンと頭を撫でて背中を押された気がした。
フラフラッと足が数歩前へ進んだ後、自販機を見るべく振り返るとかの男の人は何かを購入していた。
ガタンガタンと音を立てて出てきたのは例のミルクティーだ。
横をすれ違う際に「おやすみなさい」と言って坂を上がっていったのを見て蒼介は胸元を抑えて息を吐いた。
(もしかして、あの人って……)
その答えはあまりにも分かりやすいものだった。
あの隣の家には三人住んでいる人がいる。長男の拓也と腹違いの弟の裕翔、そして父親だ。
名前は知らない、しかしその人が接触してきたのだと分かればどこか、心が温かく満たされた気がした。
(どうして、なんだろう。すごく安心する)
分からないがすごく安心する。夜風に当たって冷めないように、早く帰ろうと駆け足で坂を上り家に戻れば蒼介は手を洗ってから奥に設けた寝室のベッドに腰をかけるとミルクティーの蓋を開けた。
フワッと鼻孔をくすぐる優しい香り、これは桜だろうか。薄らとだが興奮冷めやらぬ心を落ち着かせてくれるミルクティーを少しずつ飲めば残りを明日の朝、温めて飲もうと冷蔵庫に戻せば次こそ眠る為に床についた。
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