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第二話『夜の紅茶』

─────誰でもいい、助けて。 そう何度も頭の中でこだます言葉。 いったい何を助けてほしかったのか、もはや覚えていないが確かに助けを求めていた。 それは"誘拐"されたからか?それとも──。 『蒼介』 その呼び声に惹かれるような振り返るとまだ歳若い黒髪の少年は自分よりも一回り以上大きい、逞しい男に抱きついた。 『悪いな、何時間も家を開けて。今日は休みだっていうのに仕事に呼ばれて……』 『……大丈夫……』 鳶職人らしいニッカポッカの作業着をした彼は『汗臭いぞ』と苦笑いしながら抱きしめてくれた。 当時の僕はあまり話せないのか、今のように大きな声を出すこともなく、とても小さなか細い声を出していた。 『傷はどうだ?マシになったか』 そう言って彼は僕の衣服を脱がせば身体中をくまなく見た。 彼の言う通り、身体中の至る所に傷があった。擦り傷から刺傷、打撲痕など様々。 それを労わるように、部屋のすぐ目につく場所に置いていた医療箱を持ってきてすぐに手当をした。 一番酷い傷で刺傷だ。消毒をした上で包帯とガーゼを使って取り替えると僕の表情はとても苦しそうながらどこか、ホッとしたような安堵の表情を見せていた。 『痛いな、早く終わらせるから……』 『……大丈夫、です……清司さんが、手当してくれるから……すぐ治りそうです』 ──ああ、この人の名前は清司さんなんだ。 かつて翠町に家族と共に住んでいたアパートに引っ越してきた日の晩、自販機の前で鉢合わせた男の人。 あの人が郷田清司……過去に僕を誘拐した人だ。 しかし、どうして誘拐したのだろうか。身代金目的や性的暴行なのか……。 『そうか、よかった……しかし、もう少し早く連れ出せたら良かったのにな』 そう言った清司は深く項垂れていた。まるで詫びるように、僕の手を取って何度も手の甲に口付けを落とせば『悪い事をした』と言っていた。 『……大丈夫です、今こうしてここに居させてくれるだけでも僕は幸せです……それよりも清司さん……』 『なんだ、蒼介』 『……いつものように、してください。すごく、寂しいんです……』 寂しいと言って清司の手を引いて誘った僕は同じ部屋にあった、敷きっぱなしの布団へと誘導した。 『風呂に入ってから』と拒む清司にダメかと上目遣いでねだり、彼の理性を乱すように何度もせがめば彼は一度だけと言って布団の上に僕を押し倒して覆い被さった。 『蒼介……』 はだけた身体を優しく触られ、鎖骨から胸へと指で肌をなぞられ、身体のラインに沿って優しく撫で回される。 乳房は優しく、しかし先端の突起は引っ張るようなキュッと摘みあげられては上擦った声が口から溢れた。 『あ、ぁ…っ、せ、いし…さん……』 抵抗する事も、痛むこともなく嬉々として声を溢れさせ、少年は与えられる感覚を悦んでいた。 清司が固くなる突起を根元から食らいつくように口に含むと舌先でコロコロと転がして弄んだ。 『ふぅ…う……ッ、清司さん…そ、んなっ、焦れったいの……』 僕の言う通り、とても焦れったい行為だった。舌先で突起を転がしているとはいっても吸いあげたり甘く噛んだりといった動作が伴っているわけでも、転がす力が早くも強くもない、微々たる刺激だった。 焦れったすぎるその刺激に僕はうっとりとした顔で早く犯してと言わんばかりに急かしていたがただひたすら、舌先で転がす事を両方交互に行い、僕の息遣いが荒くなるまでただひたすら続けられた。 『はぁー……っ、はぁー……っ清、司さん……ッ』 『ん……もう随分と出来上がってるな。こんなにここを濡らしてそんなに欲しかったのか?』 ようやく突起から顔を離された時には先端から根元にかけて薔薇を彷彿させるぐらい、深紅色に染まりビクッビクッと微かに痙攣していた。 すでに茹でダコのように真っ赤に紅潮する顔、ズボン越しでも分かるぐらい濡れた下半身に触れられズボンと下着を同時に脱がされては僕は恥ずかしげに足を閉じた。 『こら、見えないだろう?よく見せなさい』 『や、だ……っはずか、しい……ッ』 柔らかい太股よりも遥かに骨張った男らしい手が内股の隙間に流れるように滑り込んできて、股間部分を擦って刺激してきた。 くすぐったいような、気持ちいいような。複雑な感覚に『恥ずかしい』と上擦る声と共に発しながら脚を広げた僕は目の前でクチュクチュと小さく主張する性器を扱かれた。 『ふ、ぅっぅ……うっ、ぁ……ッい、くっいくぅ……いくぅぅ……ッ』 『早すぎる、もう少し耐えろ』 『む、りっ、清司さんのっ、清司さんの手ぇっ、たえれな、いっ耐えれないぃ……!!』 甘く、甲高い声。少年とは思えないほど淫靡なその姿と乱れ具合に清司は一人の雄としての本能をくすぐられる。 今にでも犯したいと思うほど、興奮する。しかし、乱れる中で少しずつ疲れていっているのが見てとれる。 まだすべきではない────と判断した清司はただ僕を満足させる為だけに扱き、我慢できずに仰け反りながら手のひらで果てたのを確認すればしっかりと零さないように受け止めると手のひらに出された真っ白な白濁色の液体を舌先で舐めてすくいとった。 『はぁ……はぁ……し、ないの……?』 『しない。まだ傷が完全に塞がってない。塞がったらしよう……それまではこうして抜いてやる、いい子に待てるか?』 『……はい、清司さんとの約束は、ちゃんと守ります……』 僕はどうしてその時、"清司さんとの約束"と強調したのだろうか。 僕はこの人以外の人との約束を度々違えた事があるのだろうか。覚えていないがそうなのか、それとも他に違えてしまう明確な理由があるのか分からない。 ただ一つだけ分かるのはこれまで見た夢は記憶の断片だとわかるものばかりだった。 それはまるで映画を見るように、客観的に見ている夢を記憶として捉えていた。 しかし、この夢に関しては違った。 まるで自分が体験してるかのように身体が熱っぽくなっていく事、まるで愛されているかのように優しくされる事に落ち着く心身、そして何よりも彼に対して恋しく思う気持ちがある事。 知らないはずの記憶を覗き見た僕は、少しずつ薄れていく意識に夢から覚めたくないと願いながら清司に必死に抱きついていた。 □ ハッと目が覚めたら朝の六時だった。 あの夢はなんだったのだろうか、現実のような感覚に「あれは昔のこと」と確かめるように頬をつねって今まで寝ていたのだと確認する。 まるで夢を見ている間は実際に肌に触れられ、愛撫されているような気さえした。しかし、それは夢だ。そんな事ありえはしないのだ。 (どうにも夢で見る限り、僕は彼に依存しているんだなぁ……) 起き上がり、寝ぼける眼を擦りふらつく足取りでトイレへと向かいながら頭の中で出来事を整理する。 夢に見た僕は中学生ぐらいだろうか。とても幼く清司と呼んだ男に縋っていた。それは傍から見ても分かるぐらい、依存していた。 そして傷を負っていた。それは清司がつけたものではなく、寧ろ清司はそれを治すために敢えて僕を匿っているようにも見えた。 (性行為や身代金……ってわけじゃなさそうだなぁ) トイレについて便器に座り、用を足す。 処理を終えるとそそくさとトイレを出て手を洗えば朝食の用意をする前に───例の紅茶を買いに外に出た。 アパートの下にある自販機までサンダルに寝間着という部屋着姿で出かけると手元に持ってきた小銭で温かい紅茶を買った。 (あ、これはカモミールか。匂いするのかな) カモミールの絵柄が描かれた飲料がガタンガタンと音を立てて出てきた。どんな香りがするか、楽しみにしながら帰路を歩いているとアパートの真下にあるゴミ捨て場でゴソゴソとゴミを捨てている人が目に入った。 こんな朝早くからもうごみ捨てか、挨拶をしないと──。 「あ、おはようございま……っ」 「ん、あっ、アオイ!おはよう!」 Tシャツに短パンと少し肌寒そうに感じる格好でゴミを捨てるのは拓也だ。 彼も朝が早いんだと知れば「おはよう」と改めて崩して挨拶をした。 「アオイ、起きるの早いんだな!裕翔はまだ寝てるんだぜ」 「ああ、そうなんだ。えっと……」 「ん?」 「……清司さんは、まだ寝てる……?」 裕翔と言えばあの例の黒髪の少年だ。拓也曰く、清司と蒼介の間にできた子供だというが記憶のない蒼介には実感すらない子だ。 昔から朝に強いはずの蒼介とは相反して朝に弱いという裕翔。子供らしくていいんではと思っていたがある事に蒼介は気がついた。 拓也は"敢えて"清司の事には触れない。触れたくない理由でもあるのか。 そこへ突っ込むように蒼介が名前を出せば案の定、少し気まずそうに視線を逸らした後、ほんの少しだけ間を空けて横に首を振った。 「あの人なら仕事行ったよ……あと、悪い。言うつもりじゃなかったけど蒼介のこと、バレちまった」 とても言いづらそうにそう言った拓也。 確かに拓也は嘘をつくのが苦手そうだ。いきなり初対面らしき相手にアオイと呼んでみたり、下手に強がってコーヒーを頼んで見透かされたりと彼はとても不器用だ。 うっかり本当のことを言ってしまったんだと分かれば蒼介もまた「いいんだよ」と優しく微笑んだ。 「タッくん。さっきから清司さんをあの人呼ばわりするけど仲が悪かったりする?」 さっきから気になっていた事を率直に聞いてみた。 普通に親子ならあの人なんて呼び方はしないだろう。そして清司の話になると妙に歯切れが悪い事からなにかあるに違いないと踏んだ。 詳しく知るべく、問いかけるとまたもや拓也はバツの悪そうな顔をしてみせてから「はぁ」と大きなため息をひとつ、零した。 「……俺さ、あの人の子供じゃないから」 「……は?」 いったい、何を言っているのか分からない。 理解できない顔で蒼介は見つめていたのか、「いや、そんな顔しないでくれよ」と焦った様子を見せた。 「いやー、俺ってお袋の連れ子だから実際のところ、あの人と血の繋がりなんかないんだよ。その上でアオイを誘拐したんだ、父親って見れなくてさ……」 「そう……」 「あっ、いやっ、でも悪い人って見てるわけじゃねぇんだ。アレはアレでよかったとは思ってる、当時は悪い事してるって思ってたから……」 ボリボリと頭を掻きながら話す彼はどこか照れているようにも見える。 父親の話をするのは照れくさいのだろう、視線を伏せながらもしっかりと話しつつフォローをする姿に「どうして悪いことしてるって思ってたのに肯定するの?」と問うてしまった。 「……アオイが笑ったから」 顔を背けて口にした言葉がそれだった。 その言葉を聞いた瞬間、風に吹かれてさざめく木々の音もさえずる小鳥の声も遠くに聞こえる車の音が耳に入らなくなった。 その言葉、昔にも似たような言葉を聞いた気がする。確かあれは────。 『アオイが元気になってくれて良かった!俺、アオイが笑ったの初めて見た気がする!』 脳裏によぎる年端もいかない少年が嬉しそうに笑う顔。確かにそれは蒼介に向けられたものだ。 蒼介とその少年とそして清司───この三人でまるで家族団欒のように食卓を囲んで話した日々。 幸せだったあの頃を思い出すと蒼介は頭を振るった後、拓也を見た。 「ど、どうした?」 「ううん、なんでもないよ。しかし、家族……か」 微笑んだ蒼介にどこか拓也はホッとしたように胸を撫で下ろしていた。 その直後に蒼介が口にした"家族"という言葉、それを聞いて拓也は蒼介の肩をポンポンと軽く叩いた。 「ま、あんま過去の事は気にすんなよ。俺はあの人とアオイが以前みたいに仲良くやってくれたらそれでいいからさ」 まるで過去の事を隠すようにはぐらかした拓也。それに蒼介は首を傾げた後、「そうだね」と言って顔を逸らした。 そういえば清司との過去の記憶は少しずつ戻り始めているのにいまだに家族との思い出が何一つ思い出せない。 その上、保護されてからの家族との記憶もない。まるで臭いものに蓋をするように昔を隠し、そして今の記憶に関しては記憶しないようにしているようにも感じる。 どうしてか───そんな事を考えていると拓也は思い出したように声を出した。 「あっ、いっけねぇ。今日俺、バイト早いからもう行ってくるわ!今日から学校デビューか?」 「え、ああ、そうだよ」 「そっか!なら裕翔の事、宜しく!じゃあ、この辺で!」 まるで嵐でも吹いたかのようにドタバタと帰っていった拓也。 一体なんだったのかと思いつつも蒼介もまた家に帰れば朝食を取り、冷めかけた紅茶を飲んで壁にかけている時計を見上げた。 (まだ七時前か……なら…) 昨日、引越し業者に置いてもらって接続してから使っていない電子ピアノ。 カバーを外してヘッドホンを耳に宛てがうと調整した後、鍵盤を押した。 水が流れる川のように、滑らかで滑るように鍵盤を押して音を奏でる。 ヘッドホンから聞こえる音はピアノの音。 昔から蒼介は聞いた音楽の曲しか弾けなかった。その時聞いた気に入った曲をピアノとして同じように表現する。 自分で思いついて弾けるわけではなく、あくまでその場で聞いた曲である事が前提。この奏でている曲は昔からよく弾く歌で一昔前にヒットした歌手の歌だ。 静かなメロディが特徴で声もとても優しくて大人っぽい曲だ。それをピアノで優しく表現していれば蒼介は「ふぅ」と吐息を吐いた。 「……いつか、この曲を清司さんにも聞かせないとな」 いつかお前のピアノを聞かせてくれ──そう言われたのをふと思い出してしまった蒼介は聞かせたいと思いながら鍵盤を1箇所、トーンと音を震わせるように長く押した後、手を離してカバーをかけた。 早めに仕事に行く準備を済ませると鍵をかけて家から出た。 ここから自転車でいけなくもない距離で持ってきておいた電動自転車を駐輪場から取り出し座席に座った時、ガチャガチャとアパートの方面から音が聞こえたのに気付いた。 それから少ししてパッと少年が出てきたのに気付くと蒼介は声をかけた。 「裕翔くん」 黄色の帽子が映える、黒髪の青いランドセルを背負った少年が出てきた。それに名前で呼びかけると少年は足を止めてこちらに振り返ってきた。 「あっ、先生!」 「今から学校?送ってあげるよ」 「本当?じゃあっ」 荷物を買うことを前提としてやや大きめの自転車を買って正解だったが子供を乗せるにはやや不安定だ。 裕翔を後ろに乗せて「落ちないように抱きついててね」と言って自転車を漕ぎ出した蒼介は坂を下りそこからやや距離のある小学校まで向かった。 学校につき、駐輪場で裕翔を下ろせば蒼介は鍵をかけた。 見た目こそよくある小学校だがこの緑町自体が人口がかなり減っているのか、駐輪場の自転車の数も裕翔を見送るために入った玄関先の靴箱の数もかなり少ない。 「先生はどこに行くの?」 「ん、職員室だよ」 「じゃあ、僕が案内する!」 上履きに履き替えた裕翔が元気そうにそう言ってくれた為、甘えて校内を案内してもらった。 見覚えのある校内。かつて話を聞いてくれた校長曰く、蒼介はここの卒業生らしい。 今日は教師としてやってきた事を伝える為に校内を歩き、目的の職員室にやってくれば裕翔に手を振ってから扉を数回、ノックしてから中に入った。 「すみません、失礼します」 そう言って声をかけるとズラッと並んだ机の割にほとんど人がいない部屋に「早すぎただろうか」と不安に襲われた。 しかし、程なくして「はい」と言って衝立を挟んだ向こうから顔を出した見覚えのある人に蒼介は安堵した。 「おや、東くん。お久しぶりですね」 校長だ。どうやら衝立を挟んだ向こうは給湯器があるようで白湯を注いだコップを手ににこやかに微笑みながら歩いてきた。 「お久しぶりです、今日は以前ご連絡した教師についてお話が……」 「ああ、そうでしたね。うちの学校は以前に比べてかなり人手不足でして……東くんのようなしっかり者が来てくれて本当助かりますよ」 穏やかな笑みを見せながら校長はポケットから金色の飴を出した。 校長がいつも持ち歩いている黄金糖だ。それを口に放り込み、舐めれば「では案内しますよ」と言って案内してくれた。 一通りの業務と校内の案内、そして担当するクラス。 もう各学年ごとに一クラスずつしかないらしく、教師も数名しかいない。つい最近、一年生を請け負っていた教師が退職してしまった為、人手不足だったと何度も説明された。 確かに随分と寂れてしまった気がする。以前、ここに来た時は生徒達の声が遠くに立っていても聞こえたはずなのに、授業が始まる頃、廊下に面する教室の窓から覗き見ても生徒の数はかなり少ない。 「いつか、取り壊したりするんですか?」 ふとそんな事を聞いてしまった。 嫌な事を聞いてしまったと口を抑え、「すみません」と校長に謝ったが目の前で後ろで手を組んで歩いていた校長は、首を横に振りながら穏やかに微笑み返してくれた。 「いいえ、取り壊しなんかしませんよ。いずれまたこの町にも活気は戻るでしょうし、なによりも貴方のように帰ってきてくれる人がいる。そんな人の為に私はいつまでも維持できるように努力するつもりです」 「……そう、ですね。ありがとうございます」 振り返りながら微笑む校長に蒼介は深々と頭を下げた。 正直言ってこの学校での思い出なんて蒼介はほとんど覚えていなかった。 しかし、どうしてかこの校長の事はよく覚えている。親よりも人一倍気にかけてくれた気がする、とても優しくて幼少期をよく支えてくれた恩人のような人だった事はなんとなく覚えている。 「校長先生、よければ音楽室行っていいですか?」 そうお願いすれば校長は「いいですとも」と言って案内してくれた。 三階建ての校舎の古びた階段を登って三階へ。今や五年生と六年生のクラスしかない廊下を歩いて奥へ進むと視聴覚室の前を通った先にある、音楽室へと辿り着いた。 校長の持っていた鍵を使って扉を開けると中は広々とした空間によく光を反射する綺麗な黒色のピアノがドンと置かれていた。 (───あ、此処は……) 此処は、よく覚えている。 初めて拓也と出会った場所、あれは確か校長に許可を得て音楽室に入ってピアノを弾いていたらたまたま偶然、覗き見をしていた拓也に気づいた時だった。 当時はとても心身ともにズタボロだった。唯一の癒しであったピアノを弾いて日頃の鬱憤を晴らしていたんだ。 (確かあの時、『お前の奏でるピアノって、なんか悲しいな』ってタッくんに言われたんだっけ) 昔のことを思い出しながらピアノに近寄り、眺めているとふと近くの棚にトロフィーが飾ってあるのに目が行った。 金色の音符を模したようなトロフィーはとても小ぶりで子供でも持てそうなぐらい、持ちやすい形をしている。 第二十四回目のコンテストの優勝品らしく、その横に小さな写真立てが置かれているのに気づいた。 写真立ての前に名前が書かれたプレートが置かれていて、記載されているのは"東蒼介"────恐らく、この写真に移るのはまだもう少し若かりし頃の校長で、まだ幼い蒼介がトロフィーを手に校長に抱き上げられて笑っている写真だった。 「あの、これ何年生の時ですか?」 「ああ、それは確か五年生の時ですよ」 五年生にしては長袖から覗く腕がとても細く、骨張って見えた。 げっそりと痩せこけた頬、窪んだ目元、笑った口元から見えるガタガタの歯並び。とてもじゃないが年相応の子供には見えない。 こんな時期があったなんて全くもって記憶にはない、しかしこのトロフィーはどこかで見た記憶がある。 恐らく、この写真に写された姿は事実なんだと改めて認識すると蒼介は物事を理解しようと、深呼吸すると共に込み上げる感情に息を飲んだ。 「東くん、どこまで思い出せませんか?」 不意に問いかけられた言葉に蒼介は写真に向けられた視線を校長へと傾けた。 「……誘拐されてからの記憶、そしてそれ以前の事です」 「犯人に対する想いはどうですか?許せない、など思っていますか?」 「……いいえ、何故だか分かりませんが一緒にいたい、とすら思ってしまうんです……おかしな話ですけど」 そう言えばこうして昔の事を話した事はなかった。 医者に相談しても思い出すなの一点張りで進展はなかったがこの校長に話すとまるで頑なに被っていた殻を剥がされるように、不思議とひとつひとつ思い出して、心が洗われていく気がする。 「それはきっと、貴方にとって良い人だったんでしょう」 「いい、人……」 「私も正直、誘拐されたという報道を見た時は心配しましたよ。でもあの人でよかった……」 ───あの人でよかった。 その言葉を聞いて蒼介はハッとした様子で顔を上げた。 まさか誘拐した人を知っているのかと言わんばかりに校長を見つめると微かに微笑み返してくれた。 「……知ってるんですか?」 「ええ、知ってます。連絡を貰ってたぐらいですから」 「じゃあ、その名前は……」 びゅぅっと強い風が開いてない窓から吹き込んだ気がする。 どうしてそう感じたのか分からない、しかし心の隙間を風がくすぐるように吹き抜けたのは確かに分かる。 「郷田清司さん。それが貴方を誘拐した人の名前です」 ああ、やはりあの人か。 あの夢で見たのは嘘でも紛い物でもなくて、本当だったんだ。 じゃあ、まさか────。 「……校長先生、一つ質問いいですか」 「はい、なんでしょう?」 「私は昔の事を覚えていないんですが最近、少しずつですが夢で見て思い出しているんです。そこで……昔の僕は怪我をしていたようで、それを清司さんが手当をしてくれていました。……どうして僕が怪我をしていたのか、知ってますか」 夢で見た手当をしてもらっている姿、あれはどうやって見ても清司につけられた傷ではないと分かる。 擦り傷、刺傷、打撲痕………それも普通の子供がつかないような物ばかり。 どうして中学生だった蒼介はあそこまで憔悴しきっていたのか。誘拐されたからなのかと思ったが違う。 校長は確かに言った、「あの人でよかった」と。 ならば他に理由が────。 「知らない方がいい事もあります。だから私の口からは何も言えませんし、思い出してほしくない」 ああ、聞いた事のある言葉だ。 思い出さなくていいという言葉は何度だって聞いた。それが聞きたいんじゃない、蒼介はなぜ自分が誘拐されたのか知りたかったのだ。 そこに本当の答えがある気がするがいくら手を伸ばしても遠のいていってしまう。 「……そう、ですか」 望んでいた答えとは違う答えに蒼介は酷く落胆した。 得られた答えは前々から気付いていたもので新しい答えは得られなかった。 それに酷く落胆しながらも「そろそろ教室に向かいましょう」と敢えて話を逸らしてきた校長に頷くしかなかった蒼介は手に持っていた写真を棚に立てかけると軽く見つめてから音楽室を出た。 (……どうして、昔を思い出せないんだろう) 心にかかる靄は決して晴れることはなく、ただ心を惑わせてくる。 □ 教室に向かえば生徒達と初めて挨拶をした。 二十人あまりの少ない生徒達の中に見覚えのある生徒がいた。 裕翔だ、彼はとても嬉しそうにニコニコと笑って見つめてくれた。 彼はとても優しくて初めての授業を終えた後も「先生大丈夫?疲れてない?」と気遣ってくれた。 何も知らない子供と話すのはとても気楽だった。楽しそうにはしゃいで笑う子供たちを横目に初めての授業もさほど苦痛ではなかった。 それは一時の現実という物から意識を反らす役割を為していたのだろう。 仕事が終わり、帰る時間になれば突如として虚無に襲われる。 自分はどうして生きているのか、そして過去の事をいまだに知りえない自分は無価値なんじゃないかと思ってしまう。 (まだ、引っ越してきて二日目じゃないか。何も分からなくて当然じゃないか……) 無意識のうちにポロポロと溢れる涙を拭いながら自転車を押して夜道を歩いていた。 もう学生の姿はなく、ただ静かな田園を横切って歩くだけ。もう少しで商店街が見えてくる。 そこから少し進んだ先にある坂を登って、そこを下ってまた登って────。 「あら、蒼ちゃん?」 商店街に入って程なくしてそう呼ばれた気がする。 一瞬なんだと辺りを見渡すとふっくらとした淑女が目に付く。 あの人は確か、警察に保護されてから暫くして警察署にやってきた人だ。母親と名乗っていたはずで、名前は……覚えていない。 「なんだ、母さん。蒼介がいたのか?」 「ええ、そうよ。蒼ちゃん久しぶりね。どうしてここに?」 傍らにいた母親と同い年ぐらいか、およそ五十代後半ぐらいと思わしき柄の悪そうな男が父親だったはず。 どうして二人がここにいるのか分からないが「どうしてここに」と問いかけられては蒼介は視線を泳がせた後、話した。 「仕事帰りだよ、父さんと母さんは?」 「あら、そうなの?たまたまお出かけで来ててね、そうだお父さん。蒼ちゃんも一緒に夕飯なんてどうかしら?」 「ああ、それはいいな。蒼介、一緒に飯を食いに行こう」 グイグイと話を進める二人は子供の言葉なんて聞く耳持たず、蒼介の腕を引っ張って近くの洋食店へと連れていった。 店先に自転車を止めて中に連れられた蒼介は座席に座らされ、水を渡された。 「久しぶりにあったんだ、沢山食べていいぞ!」 父親はそう言ったが人と食べるとなるとどうしてか、蒼介は食欲が湧かなかった。 しかし断るわけにも、食べないわけにもいかない。食べやすい少量のハンバーグ定食を頼んだ。 両親は厚切りステーキや魚介のパスタなどわりとメニュー表でも高い商品を頼んでいた。 一体誰が払うんだろうか、そんな事を考えながら届く以前からベラベラと話す両親を目に蒼介はどこか、疎外感を感じた。 置き去りにされているような感覚がしてならないが時折、二人はアイコンタクトを取るように蒼介を見てくる。咄嗟に作り笑いでやり過ごすが居心地が悪い。 「そうそう、蒼ちゃん!就職したんでしょう?これ、仕事先につけていきなさい!」 突然、そう言い出した母親は鞄から四角い箱を出した。中身は時計でそこそこ値が張る商品だと分かる。 「え、あっ流石にこれは……!!」 「いいのいいの、就職祝いって事にしてちょうだい!」 強引に渡されては受け取るしかなく、小さな声で「ありがとうございます」と言った。 どうして就職した事を知っているのか、ここに引っ越した事も就職した事も両親には伏せていたのに何故か知っている。 悪い人ではないはずと思いながら運ばれてきた皿を見てウエイトレスに礼を伝えると蒼介は食べ始めた。 「ああ、もうご近所さんの✕✕さんがね、○○君は大手一流企業に就職したとか……」 「それは凄いね母さん、蒼介はどこに就職したんだ?」 「……あ、いや、……翠ヶ丘小学校の教師に…」 ハンバーグを頬張っている横で聞いていた自慢話と人に対する妬み話、それを聞き流していたらふと声をかけられた。 素直に就職先を伝えると両親の表情は一変した。 「あらやだ、教師だなんて……あの学年最下位だった蒼ちゃんが……?」 「シッ、母さん聞こえてるよ……」 疎ましそうに話し始める両親、恐らく一流企業に就職したわけではないからだろう。 教師を選んでしまった時点で親の望む進路という名のレーンから外れてしまったのだ。 蒼介はどうしても教師になりたかった。この翠ヶ丘で働く術は殆どない。そしてあのアパートに住む口実もないが教職員になれば可能性はある。 拓也は言っていた、「丁度この頃なら息子の裕翔が入学してるかもしれない」と。 自分と血の繋がりがあるであろう裕翔に接する機会もその父親である清司に会う機会も今しかない。 (僕の夢はピアニストだった。それを折ってでもここに来たんだ、本当の真実を知るまでは……) 親の忌む話を聞きながら蒼介は堪えた。 美味しくない目の前のハンバーグを口に含み歯で潰して飲み込む。味なんて分からないほど、何故だか心がザワついて心臓が飛び出てしまいそうなぐらい不安に押し潰されてしまいそうだった。 それはとても既視感があって、見覚えにない経験だった。 食事を終えた両親と共に会計に向かった。 支払いは父親が負担してくれ、店を出て少し会話を混じえてから自転車の鍵を外した時、母親に呼びかけられた。 「蒼ちゃん」 その声にハッと顔を上げて「なんですか」とよそよそしく返してしまった。 「さっきの返して」 さっきの、とはなんの事だ? 一瞬、目が点になった気がするが首を傾げている暇もない。 「お父さんが支払ってくれたのよ!?息子であるアンタが返すのが筋じゃない!?」 突然の罵声にビックリした。初めて聞いた母親の怒鳴り声に全身の毛がよだつ気がした。 いや、実際にそうなのだろう。鳥肌が立って冷や汗が滝のように流れ、呼吸が乱れ視界がぼやけ始めた。 「い、いくら……ですか、五千円ですか」 「はぁ?!二万円よ、二万円!!アンタ、昔から頭悪いからってそんな簡単な計算も出来ないの!?」 「そ、そんな…だって、さっきの会計は五千円でも足りる───」 「いいから財布貸しなさい!!」 怒鳴る母親に圧倒され、蒼介は肩を押され自転車から引き剥がされた。 ふらついて転び、尻もちをついている間に前カゴに乗せていた鞄から財布を取り出され、中から二万円どころか四万円ほど抜かれたのを見ては蒼介は声を出した。 「か、母さん!流石にそんなに抜かれたら……!!」 「アンタみたいな役立たずを育ててやったんだ、これぐらい取られたからってギャーギャー言うんじゃないわよ!ほんと、アンタは靴磨きにもなんないんだから!!」 「いだッ……!!」 異を唱えたらピンヒールの踵でグッと脚を踏まれ、土汚れを拭うように何度も足を捻られ蹴られた。 酷く痛む脚を抑えている間に近くで車で待っている父親の所へ駆け寄った母親を見上げて蒼介は涙を浮かべた。 (あんなのが、僕の親……?) どうしてこんな事をされるのか分からなかった。 それは昔の自分が起因しているのか、定かではないが例えそうであったとしてもどうしてこんな事をされるのだろうかと頭を抱えてしまった。 しかし泣いてはいられない。一通りの多い商店街の洋食店の前で座ったままでは人に注目される。投げ捨てられた財布を拾って痛み足を抑えて立ち上がると蒼介は溢れそうになる涙を堪えて自転車を押しながら帰った。 □ 結構な時間を歩いた気がするがまだ時間は一時間しか経過していない。 夜道を自転車を押して帰っているとようやく家へと至る坂が見えてきた。 手前の自販機で紅茶を買おう。そう思って立ち寄ろうとしたら人が立っていた。 「……おかえり、蒼介」 パーカー姿でコーヒー缶を手に立っている男は蒼介におかえり、と温かい視線を傾けた。 少し暗くて、自販機のライトで顔は分かりづらいが清司だ。 「……清司さん、どうしたんですか……?」 「ん、お前の帰りを待ってた」 清司が紅茶を買ったらしく、ガタンガタンと音を立てて出てきたのを手に取ると蒼介に渡してきた。 今回の缶は金木犀の香りと書かれている。自転車を止めて蓋を開けて飲むとホッと温かい吐息が口から出た。 「遅かったな、何かあったか?」 「……いえ、何も。仕事が遅くなって」 顔を向けることなく、缶を手に清司の隣に立てば蒼介は息を吐くように嘘をついた。 清司さんにはバレたくなかった、親とあんな事があったなんて気づいてほしくなかった。 当たり前のように嘘をつけば清司もまた「そうか」と言ってコーヒーを飲んだ。 「……どうだった、裕翔は」 「元気でしたよ、とても。真っ直ぐいい子で、勉強の飲み込みも良くて……ええ、とても……いい子でした」 裕翔の話になった瞬間、酷い不安感を感じた。 裕翔は蒼介の言う通り、とてもいい子だ。人懐っこくて誰とでも仲良くなれる、そして勉強もよく出来て運動もそれとなく出来る、申し分のない子だ。 そんな子だったら両親は愛してくれるのだろうか、お金を取ったり貶したりしないのだろうか。 いつまでも心にかかる靄────否、それは孤独感というべきものか。 不安に押し潰されそうになっていると察したように清司がポンポンと蒼介の頭を撫でた。 「言いたい事があるんだろう。俺に言え」 ────その言葉、どこかで……。 聞き覚えのある言葉、それを聞いた瞬間、蒼介は何故だか安心感を覚えた。 どうしてかは分からない、しかしその「俺に言え」という言葉はまるで魔法のように蒼介の心を優しく包み込んでくれる。 「……はい、清司さん。でも今は大丈夫です」 「ん、そうか。なら辛くなったら言え」 優しい人だな、と蒼介は素直に思った。そして同時に本当にこの人が誘拐した人なんだろうかと思った。 誘拐した理由は今は知らない、しかしいつかその理由を知れた日、きっと蒼介は全てを理解し清司の事もより信頼できるのだろう。 その日を夢見ながら飲み干すように、感を一気に飲めば咥内に広がる金木犀の香りを堪能した。 「さて、帰るか」 そう言って代わりに自転車を押してくれた清司の後を追う蒼介。 家の前まで送ってもらえば蒼介は「ありがとうございます」と深々と頭を下げて扉の鍵を開けていた。 「蒼介」 鍵を開けてから自転車の鍵を外し、家の扉を開けて入る直前、清司は自宅前煮立った状態で蒼介に声をかけた。 それに気づいた蒼介は顔を覗かせた。 「は、はい!なんでしょうか」 「明日の朝は暇か?」 「仕事が八時から出勤ですが七時から出ます」 「なら五時から起きてくれ、朝飯を食いに行くぞ」 「そ、それはタッくん……あ、いやっ、拓也くんも裕翔くんといますか?」 「ああ、勿論」 「……行きます、早く起きます!」 朝食を食べに行く……その提案には驚いたがお金が無くなったのは事実。 その提案にありがたく乗れば清司は嬉しそうに微笑んだ後、「分かった、明日の朝ノックする」と言って家の中に入っていった。 風呂に入ったが今日は浴槽に浸からずに早めに出た。 脚が随分と痛む。 よく見ると足の付け根の上が青痣になっている。寝る時、支障が出そうだと思って冷やしていた保冷剤をタオルで足に固定すると戸棚を漁った。 好きなアロマをひとつ、用意して可愛い花柄の形をした電気ポットを置いて数的垂らせば横になった。 (いい夢を見れますように……) そう願いながら蒼介は静かに眠りに落ちていった。

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