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第三話『夕暮れの約束』
初めて結婚した相手は偶然、駅構内で落としたハンカチを拾った人だった。
とても落ち着いた人で優しかった。お礼に食事を誘った事により、そこから縁が太く繋がった。
だが、付き合いを経て結婚してから程なくして妻となったその女は決していい人ではない事が発覚した。
とても男にだらしなく、結婚した直後から男を家に連れ込むなど喧嘩が絶えなかった。
おまけに何処の馬の骨とも知らない男との間にできた子供を連れてきて育児放棄をしたのだ。
自分と血の繋がらない子供とはいえ、子供には全くもって罪はない、親の身勝手で棄てられるなんてあってはならない。
結婚した以上、父親となったのだからと心を押し殺して俺は子供を育てた。
『父ちゃん』
血の繋がりのないその子は必死に俺を父親として慕ってくれた。
不自由に暮らしてきたから常に飢えていた。いつも人の顔色を伺って手をあげられるのではとビクビクしていて可哀想だった。
なるべく不自由なく生活させたい、そう思って服を沢山買って好きなだけご飯を与え、自室を与え本やゲームを好きなだけ買い与えた。
まだ幼かったこともあり、寝る時は一緒に添い寝をし風呂にも一緒に入っている時間を増やした。
その分、母親である妻には手厳しく接した。家にはあげず、荷物は全て捨てる。
『非道だ』『お前には人間の血が流れてないのか、悪魔!!』と沢山罵られたがそれは妻に向けるべき言葉だった。
実子を子供と見ず、邪魔になれば適当に引っ掛けて結婚した男に押し付ける。きっとそれは常習的にしている事で恐らくこの子以外にも兄弟がいたのだろう、ではないとそんな事普通は思いつかない。
故になるべく子供に寄り添い続けた。
小学校に上がるまで沢山遊ばせ、沢山教えた。生きていて楽しいという事を、人の優しさを教えた。
『父ちゃん!!』
そう強く呼んでくれるようになったのは小学校に入学してからだった。
毎日楽しそうに学校の事を話してくれる。とても嬉しそうで聞いているだけで幸せな気持ちになる。
勿論、俺は俺で仕事に勤しみ、子供が不便なく暮らせるように汗水垂らして働いた。
しかし、息子が高学年になる頃にある問題が発生した。
妻が蒸発とともに多額の借金を押し付けてきた。
弁済するのも一苦労だが得体の知れない取り立てに頭を抱えた。どうして人の顔に泥を塗るような事ができるんだと何度も考えたがあの女は最初から信用できるような人間ではなかった、結婚生活をダラダラ続けた自分が悪かったと悔いた。
いくら働いても金はすぐに溶けて消えて子供にも自由にさせる事が出来なくなってきた。
その頃から心身共に疲弊し、何も出来なくなっていた。
子供の話もろくに聞けなくて頭を抱えているばかりだった。
おそらく余計な心配をかけさせていただろう。悪いと思いながらも酒を飲んで酔っていないと正気では居られなかった。
そんなある日の夏、いつものように玄関で頭を抱えて座っていると声を掛けられた。
『熱中症になりますよ、そんな長袖着てたら』
そう声を掛けてきたのはまるで夜を彷彿させる綺麗な黒髪の少年だった。
年齢はうちの子供よりもほんの少し上な気がするがどこか垢抜けていて大人びていた。
なんて美しいんだと思うと見惚れてしまった。
すぐに意識を戻すと立ち上がって俺は彼は家へと招いた。
誰かを家に招くのは久しぶりだった。
彼は隣に引っ越してきた家族の息子さんでとても落ち着いていて気遣ってくれた。
こんな人が自分の妻だったらさぞ苦労しないだろうな。
そう考え始めた時から恐らく、俺は一目惚れしていた。
今まで一目惚れする事は何度かあっただろう。学生時代や仕事先で、なんてあったはずなのにまるで初めてかのように心は踊り何時間も喋っていたくなる。
しかし、彼は『帰ります』と言って席を立つんだ。それが名残惜しくて見送った後も何度も彼の声を思い出していた。
その日から心に余裕が出来て子供とまともに接する事が出来た。
『親父、なんかいい事あった?』
いつしか父ちゃんと呼んでいた子供が親父と呼ぶようになった頃から俺もまた子供を幼い子供ではなく、一人前の"息子"のように扱うようになった。
『ああ、好きな人が出来た』
『お、親父に?!どんな人?』
『背が小さくてな、黒髪の奴だ』
『……へぇ、清楚系ってやつか!美人そうだなー』
『ああ、あの人は美人だな』
皿洗いをする息子の横でビールを用意しながら俺は話した。
確かに彼は美人だろう。横から見た横顔はとてもまつ毛が長く、ほんの少し厚みのある唇が赤くて色っぽく感じる。
前から見れば黒目がとても大人びていて美人だ。綺麗な人なんだと鼻の下を伸ばしていると息子は『楽しそう』と嬉しそうに笑っていた。
それから暫くして彼は息子の先輩で友達だと発覚した。
名前は蒼介と言うらしく、息子はアオイと呼んで親しくしていた。
時折家に来てくれて涼みながら勉強をしていってくれる。
『家では勉強はしないのか?』
そう聞くと蒼介はシャーペンを手に少し間を空けてから小さく頷いた。
『はい。家には……僕の居場所がないので』
『冷房は?』
『親がいない時は掛けれません』
通りで蒼介の首回りや背中はいつも赤く腫れてブツブツとできものができているんだ。
せめて家にいる時は好きな事をさせようと風呂を貸してあげアイスやハンカチを渡したりした。
息子が居る時は一緒にゲームをさせたりと自由にさせた。
そうしたら蒼介は言った。
『清司さんが僕のお父さんだったらどれだけ幸せだったんだろう』
まるで独り言のように呟いたその言葉はとても寂しくて、その背はまだ小さな子を思わせるほど小さくて今にも消えてしまいそうだった。
『気にせず、いつでも来てくれていいからな』
その背に俺はなんて声をかけるのが正解だったのか、分からない。
だから分からないなりに声をかけた。少しでも蒼介の気が楽になればと願って。
しかし蒼介は何も言わなかった。ありがとうとも、ごめんなさいとも言わなかった。
その日はそれで帰ってしまった。帰ってしまってから暫くは顔を合わせることもなかった。
息子も見かけず、そのまま時間が過ぎてしまった。
それから蒼介を見なくなってからかなりの時間が経過した。
息子が中学生になって部活を楽しんだりと時間がかなり過ぎて一年が経った頃、俺はたまたまジュースを買いに出ようと家を出て下の自販機に向かおうとした時、駐車場の車の影に人がいるのに気づいた。
いつもなら気にしないはずなのに夏場に似つかわしくない、長袖を着ていたから妙に気になって近寄った。
伸びきった黒色の髪、青ざめた顔だというのに高熱が出ているのかとても具合が悪そうで、息を切らして座り込む蒼介の姿があった。
最後に見た時よりかなり痩せこけていて、衰弱しているのが嫌なぐらい目につく。
『蒼介ッ!!大丈夫か!?』
『……ぁ……あ……っ』
聞こえていないのか、呼びかけてもまともな返事が返ってこなかった。
急いで救急車を呼んだ。すぐに来てくれて中に乗って救急搬送してもらえば蒼介は着いた先の病院で即入院になった。
極度の栄養失調及び熱中症による衰弱と診断されたが医者は言った。
『こうなったのには他にも大きな原因はあります』
確かに病室で寝かされた蒼介と面会できるようになってから会いに行くと蒼介は酷く呼吸が浅く、呼吸器をつけてないと危ないほどだった。
身体には複数の、それもかなりの数の打撲痕や刺傷が沢山あった。傷の殆どが膿んだりしている事から医者は『そう簡単には癒えません。その上、治ったとしても痕が残るでしょう』と言った。
そうした事から医者は虐待とみた。俺は保護者じゃない事を伝え、家族の住まう家を伝えると医者は警察に伝えた。
それから暫くしてから蒼介は目を覚ました。
『大丈夫か?』
そう呼びかけても虚ろの瞳でまともには応えてくれない。
しかし、
『お前は虐待にあってるんだろう?医者に行ったから恐らく、お前の親は捕まる。もう大丈夫だからな』
と安心させる為に伝えると蒼介は何を思ったのか、涙を流した。
そして、泣きながら言葉を振り絞った。
『……僕、が悪いんです……いい子、にしない…から……だか、ら、言わないで……』
それはとても怯えた眼差しだった。
とても既視感があって俺は辛くなった。母親から見捨てられ、知らない男のところに棄てられたあの時の息子と重なって仕方がなかった。
だから助けたかった。一人の親として、そしてこんないたいけな子供に恋心を抱いた自分へと罰として助けないといけないと強く思った。
『──蒼介は、どうしたい』
きっと、その言葉を求めているに違いない。
どうしたいのか、どうされたいのかは蒼介がその答えを持ち合わせているはずだ。
それは息子にも掛けた言葉だ。
『拓也はどうしてほしい?』と問いかけたら返ってきたのは『好きになって』だった。
だから沢山可愛がった。俺なりに沢山構って沢山愛した、だからこそ息子は笑うようになった。
蒼介のしたい事をしてあげたい────そう願った俺は問いかけると蒼介は天井を見上げながら息を吐くような呟いた。
『……僕を、連れ去って……誰、にも見つからない……場所、へ』
その言葉を聞いて俺は決めた。
誘拐するんだ、例えそれが犯罪であったとしても蒼介を誘拐する。
いつか蒼介が大丈夫と心の底から笑ってくれるその日まで俺は彼を匿う事にした。
俺は退院した直後に蒼介を誘拐した。
蒼介の家族が住まう家の隣に蒼介を監禁した。
あの家族が馬鹿でよかった、四六時中家を開けてくれている事が功を奏してバレる事はなかった。
なかった為、ゆっくりと蒼介の心身の傷を癒すことができた。最初は拒絶が酷く、例え後輩で友達であった息子すら拒んでいたが長く暮らせば俺と息子にだけ心を許してくれるようになった。
少しずつ笑うことも増え、蒼介は率先して家の事をしてくれるようになった。
しかし、問題は監禁する事によって蒼介の将来を潰している事だった。
学業が元から追いついていない事から将来が危ぶまれた。いずれは蒼介を高校へと行かせたかったがなかなか元に戻すのは難しかった。
だからこそ、ツテを頼ってある人にお願いして蒼介の高校及びその後の生活ができるように手配した。そのツテがいれば蒼介も両親を気にすることなくのびのびと暮らせるはずだ。
高校二年生になる頃、蒼介を帰す為に理由をつけて家から連れ出し警察署へと連れていこうとした。
しかし、蒼介は拒んだ。
『貴方と暮らせたら僕はそれでいい!どこにも行きたくない!』
その頃、ちょうど蒼介と俺の間に子供ができて生まれた。良くない事だと分かっていながら交わっていた俺が悪いのだが蒼介はいつしか、俺に依存して俺無しでは生きていけなくなっていた。
蒼介の将来を思う俺と一緒にいたいと拒む蒼介。衝突が絶えなかったがある方法を持って解決した。
ツテにお願いしたら現在から過去の記憶、全てが思い出せなくなった。
催眠術だというがその正体は分からない。確かに蒼介は俺や息子と暮らした日々もトラウマも、出来た子供も忘れた。
だから『ここから歩いていけば交番に辿り着く』と教えて歩かせたら確かに向かった。なんの疑いもなく、歩く姿はどこか寂しさもあった。
しかし、そうしないといけない理由があった。
蒼介は『いつか、ピアノを弾いて沢山の人の心に触れたい』と楽しそうに笑って話していた。その夢を叶えたかった。
まるで束の間だったが息子のようで、恋人のような感覚だった。それを楽しめただけ、俺は幸せだったんだろう。
『……いつか、大人になって会えたらまたこの紅茶を飲もうな』
自販機で売られている名も知らぬメーカーが出した花の紅茶。
蒼介はそれが好きだった。毎晩それを一緒に飲むのを楽しみにしてくれたおかげで酒をやめれた。
いつかまた一緒に話せるのを夢見た。
俺は心のどこかでいつかまた、会いに来てくれると信じていたんだろう。叶うとも知らぬ夢を見ながら俺は残された赤子を抱えて大切な息子と変わらぬ日々を送ることにした。
□
古い夢を見ていた。
目が覚めるとまだ朝には遠い時間で辺りは暗く静かだ。
息子達の眠る部屋の前を通って台所に向かうと清司はコーヒーを冷蔵庫から取り出して飲んだ。
(……蒼介、起きているかな)
会いたいと思ってしまった。少しだけ様子を見ようと家から静かに出ると蒼介の家に向かう。玄関横にある窓を見ると薄らと明るいのに気付く。
近隣の迷惑にならないよう、静かにノックをして待ってみると暫くしてから扉が開いた。
「はい……清司さん?」
起きていたようで蒼介は寝間着姿で出てくれた。
その姿を見てなぜだかホッと安心してしまった。
「少し、話しいいか?変な時間に起きてしまってな……」
「ええ、いいですよ。私も起きてしまったんで」
家に招かれ、入ると靴を脱いで上がった。
わりと部屋は整っていて白い家具が沢山置かれている。腰ぐらいの高さがあるシェルフにはタオルや服を置かれていてわりとズボラなのかベッドの近くに置かれている。
ほんの少し、他愛もない話をしてみた。
蒼介は変わらず落ち着いていて相槌を打ちながら清司の目を見て話してくれる。それに清司もまたどこか、安心感を覚えて饒舌に話してしまった。
「……蒼介」
話している最中にふと、恋しくなった。
立ち上がってベッドに腰をかけて話を聞いてくれていた蒼介の元に向かうとふっくらと柔らかい頬に手をかけて優しく髪をすくうように手に取る。
「せ、清司さん?」
「……久しぶりに、抱きたい。……無理か?」
覚えていないと分かっていながら清司は蒼介に想いを素直にぶつけた。
何を言っているのか、分からないはずだ。おそらく気持ち悪いと言って拒むだろう、それを分かって清司は言ったのだ。
拒まれ気持ち悪がられても平気だと心構えをしていたが蒼介はそれとは反して清司の頭を撫でると優しく微笑みかけてくれた。
「……私でよければ」
とても控えめな返答に清司は心を擽られた。
すぐにベッドへと押し倒し首筋に顔を押し当てると上着を捲りあげ、衣服の中に手を突っ込んだ。
「ん……や、だ……ッ」
その言葉を聞いてピクリと身体が僅かに震えた後、手を引っ込めた。
まさか拒まれるとは思ってもいなかった──いや、拒まれても仕方がない。
蒼介は何も覚えていないのだ、いきなり多少顔見知りに流れで許しただけ、本当は怖いはずに違いない。
「……悪い、つい……その、……すまない」
なんと言えばいいか分からない。
欲求不満なのは事実だが何も知らない蒼介にこの感情をぶつけるのはお門違いだと分かっている。
昔とはもう違う。何年も時が過ぎてお互い知らない人同士、このような事、このような感情をぶつけるべきではない。
べきではない、とは分かっていながら清司は己が欲求を抑えれなかった。
ただ項垂れて蒼介の上で黙るしかなかった清司。そんな彼の頬に手を添えて蒼介は優しく囁いた。
「……すみません、咄嗟にそう答えただけで本当に嫌ってわけじゃないんです。貴方といるととても落ち着くんですが、どうしてか恥ずかしくて……」
気恥しそうにそう言う蒼介は昔のように優しく微笑みかけてくれる、あの頃の慈愛に満ちた姿を思い出させてくれる。
「……そうか、なら少しずつ触るようにする」
「ええ、触れてください。そうしたらよりもっと思い出せると思います」
少しずつ、と言った清司に対して蒼介は意外な言葉を口にした。
清司は気付いていなかった、偶然引っ越してきたのだろうと思っていたがこれは必然であり蒼介が意図して引っ越してきた事に何一つ、気付いていなかったのだ。
その驚くべき事実に開いた口が塞がらなかったがなんとか閉じ、状況を理解するまで少し座り直して腕を組んで考えていると蒼介は困った顔を見せた。
「わ、私何か要らないこと言いましたか?」
「……いや、寧ろ必要な事だ。いつから思い出しているんだ?むしろ何を思い出した?」
「えっと……」
突然の問いに蒼介は困った顔を見せた。
暫く間を置いてから蒼介は時系列順に説明し始めた。
思い出すきっかけになったのは高校二年生の時に病院の帰りにCDショップで出会った拓也とのきっかけだった。
そこから勉学を励んで教員免許を取れば蒼介は翠ヶ丘小学校の教師となった。
それは元々、翠ヶ丘小学校の校長に相談していた事もあり拓也の居場所を確認してこのアパートに引っ越してきた。
そこからはトントン拍子で清司と出会ってから昔の夢をより見るようになった。
そこまで聞けば清司は殆ど思い出しているじゃないかと驚いた。
しかし、問題があった。過去の事に記憶を蓋するように催眠術をかけたが少しずつそれが綻び始めた事。
なによりも清司や拓也といった幸せな時間を共有した相手の事は思い出してもそれ以前の事は思い出せなくなっている事。
それはいい事だ、家族の事を知らなくていいのだ。
そう思っていたが事はいい方へと進まなかった。
「清司さん」
その呼び掛けに清司は耳を傾けた。
「なんだ、蒼介」
「私の両親を知ってますか」
なぜその問いかけをするんだ。
そう責めるのはお門違いなのは分かっているがその問いだけは聞きたくなかった。
「知っているが教えれない」
当然、そう返事をすればカチンときたのか、蒼介は眉間にシワを寄せた。
「どうして皆、そう言うんですか!」
「知らなくていい事もある。特に親の事は考えるな!」
全面的な喧嘩に発展し始めた。清司は蒼介を思って、蒼介は自分の過去を知るために言葉遣いが荒々しくなった。
睨むような目つきで見つめ、口論は続いたが清司が「もういい」と言って立ち上がり、家から出ようとした時、蒼介は我に返って引き留めようとした。
「せ、清司さ……ッ、ぅ……」
玄関まで歩いていった清司を追いかけようと立ち上がった蒼介。
立ち上がった瞬間、足に痛みが走った。昨晩、母親に踏みつけられた足がいまだに痛む。
足を隠すように抱えていると清司は呻くその声を聞いて振り返り、駆け寄ってきた。
「大丈夫か!?どこかで怪我をしたのか、見せろ!」
「……だ、大丈夫、ですから……」
「大丈夫なわけないだろう!見せてみろ」
心底、心配したようですぐに蒼介を抱えてベッドに座らせるとズボンを脱がせた。
昨晩やられた痣は青かったはずなのにいつの間にか赤紫色に腫れ上がっていた。
それを見ては清司は予想通り、問いかけてきた。
「誰にやられた?」
「……母さんです」
その言葉を聞いた瞬間、清司は驚きを隠せなかった。
蒼介の両親は決していい親ではない。子供を金を作る道具、即ちペット以下の存在にしか思っていない極悪非道の親だ。
清司の妻と何一つ変わらない、男の家を渡り歩いて好き放題して生きていたアイツとやっている事は何も変わらない。
蒼介が家の前で勉強をするのも、食事を摂らないのも家に入れてもらえないからだ。
そんな親が、ましてやあのクズ母親が蒼介と接触したと知るなり、清司の表情は瞬く間に鬼の形相へと変わっていった。
「あのクソ親が……蒼介に手を上げたのか」
「ち、違う!母さんはいい人で……!!」
必死に否定をしようとする蒼介を見て激昂した清司はその今にも折れそうなほど、細い肩を掴んで怒鳴りあげた。
「いい人なわけないだろッ!!どこの世界に子供に手を上げるヤツがいる!いい加減に目を覚ませ、催眠術をかけられたからってアレを良いヤツだと思い込むな!!」
蒼介は理解できなかった。
催眠術とは何なのか、母親が本当に悪い人なのか、なに一つ理解できなかった。
きっと何かの聞き間違えだ、そう思って蒼介は清司に問おうとした。
母親は悪くない、良い人なんだ。きっと何かの聞き間違えなんだと自分に必死に言い聞かせて。
「……な、何言ってるんですか。母さんは僕に腕時計をくれて……」
「腕時計?見せてみろ」
「こ、これです!ほら……っ」
言われるがまま、ベッドの脇に置いた鞄から時計を取り出す。時計は明け方なのに昨日の時間で止まっている。
嫌な予感はしていた、これは不良品じゃないかと。
「確かにそこそこ値の張るやつだが盤面に擦れが入っててバングルには致命傷の傷が入ってる、その上止まってる……自分で使ってたのを叩きつけたんじゃねぇか?これ以外は?」
「……何も無いです」
「なにか取られなかったか?」
「……財布から、お金を……」
鞄から出した財布の中身を清司に見せた。
すっからかんになった中身を見て清司は「警察に行った方がいいんじゃないか」と提案してきたが蒼介は否定する事も肯定する事も出来なかった。
親という存在が何なのか、蒼介には分からなかったからだ。
あれは親なんだ、子供が被害にあったと警察に相談するのはおかしいんじゃないかと悩んでしまった。
「……蒼介」
その声にハッと我に返る。
顔を上げて清司を見上げると彼もまた悩んでいるのか、横に座って顎に手を当てた。
「まぁ、警察に言うかは任せるが親を信じるな。あの親はお前に害あって利なんてひとつも無いからな」
「……はい」
その言葉は胸に突き刺さった。
確かにそうだ、突然子供を馬鹿にしたり金を奪ったりする親なんて居ないはずだ。
それは高校時代に見てきた友人や同じクラスの子を見てそう思ったからだ。
仲睦まじい親子や関係が良好でなくてもお互いを思い合える親子、例え亀裂が生じている親子であったとしても害をなす事があれば迷いなく彼らは警察を呼んでいた。
(……私の親って、本当に……あんな人達なんだろうか)
そうぼんやりと考えていると清司は「気にするな」と言って蒼介の頭を撫でた。
「アイツらか起きるまでまだほんの少し時間ある。少し違う話でもしようか」
重苦しい場の雰囲気を切り替える為に清司は蒼介に会話を提案すれば、蒼介もまた気を紛らわす為に小さく頷いてポツポツと会話を交えた。
□
辺りも明るくなった頃、清司は蒼介を連れて家を出ると拓也と裕翔を起こしに行った。
裕翔はちゃんと起きてくれたが拓也がなかなか起きない。いつも爆睡して当たり前のようにバイト時間を遅刻したりとズボラな生活を送っている拓也が朝起きれるとは清司も思ってもいなかった。
仕方がないと割り切って清司は蒼介、裕翔を連れて朝食を食べに出かけた。
駐車場に止まっていた車を出して出掛けた三人は翠町から出て暫く走った先にあるこじんまりとした喫茶店に辿り着いた。
およそ一駅分ぐらい先にある場所だ。市の中心部ではなく、わりと住宅地に建っているそこは"喫茶よしえ"という静かなお店だった。
カランコロンと玄関に取り付けられたベルが音を立てた。
奥からふっくらとした落ち着いた雰囲気の淑女が出てきた。
「はぁ〜い、あら!清司さんじゃないですか」
「久しぶり、よしえさん」
「久しぶり〜。あっ、ヒロ君も…って、そちらの方は?」
喫茶店の名にもなっている店主よしえが出迎えてくれると清司は軽く頭を下げた。
裕翔はよく連れてきてもらっているようで「おはようございます」と腰を曲げて頭を下げるとよしえもにこやかに微笑んでいた。
そのまま、視線を横へずらし目が合った蒼介とよしえ。
清司に問うたよしえに彼は少し視線を泳がせてから口を開いた。
「蒼介だ」
その言葉を聞いた瞬間、よしえは大きく目をぱちくりと開いてから蒼介の両手を取った。
「あらぁ〜〜!!蒼介ちゃん、久しぶり〜!!中学生以来かしら!随分と大きくなったわねぇ〜」
「え、あ……っ」
この喫茶店に来るのは初めてだというのにまるで以前から知っているかのように接してくるよしえに蒼介は困っていた。
ブンブンと上下に手を振られ嬉しそうに笑いかけてくるよしえにただ困ったように苦く笑うしかなかった蒼介。
「よしえさん、少し蒼介は昔の事が思い出せないんだ。そんな無理せんでやってくれ」
「あらあら、そうなの?ごめんなさいね、おばちゃん、詳しい事分からなくてつい馴れ馴れしくしちゃって。どうぞどうぞ、いつもの席空いてるから座ってちょうだい」
清司が声をかけた事により、ようやくよしえは離れてくれた。
案内してくれた席に座った蒼介はゆったりとした臙脂色のソファーにもたれると目の前に出された水のグラスに視線を向ける。
「よしえさん、いつものを三つ」
「はいはい、ヒロ君にはデザートもつけてあげようね〜」
「やった!」
ガチャガチャと食器を動かしたりフライパンを動かしたりする音が聞こえてくる。
全くもって蒼介は覚えていないが、かつて、蒼介はここに来たことがあるんだろう。
清司の様子から見て清司に連れられて来た、という解釈が正しそうだ。
「お父さん、昨日は学校でね、新しい友達ができてねー」
「そうか、楽しそうでよかったな」
「今日はね、その子と遊ぶ約束してて────」
楽しげに話す裕翔、それに相槌を打つ清司。
そんな二人を見ているとなんとなくだが疎外感を感じてしまう。
それはどうしてか、というと先程まで清司と話していたからだろうか。
漠然とした、得体の知れない不安感。
きっと正常心の時に見てもなんとも思わないはずだ。「楽しそうだね」って笑って言えるはずなのに今は心に余裕がなかった。
過去を知りたくてここに来たというのに知らない少年と過去に縁があった男がこうして話しているだけで何故だが、寂しくなる。
(……赤の他人だからついていけなくて、当然じゃないか)
この空気、何となく昨日を思い出す。
母親と父親が話すのをただ右から左へと聞き流すように、聞いてないふりをするしかなかった。
その場にいて、その場にいない。それを二人から烙印を押されているような気がしたのを「早く帰りたい」という感情で濁していたあの時。
よく似ている。恐らく、この疎外感は己が全くもって赤の他人だからだろう。
「……蒼介?」
清司に問いかけられてハッと我に返る。
あの時と同じように作り笑いを浮かべて「なんですか?」と返した。
「いや、元気がないように感じてな」
「元気ですよ!ねっ、裕翔くん!」
「うん!先生はいつも元気!」
やはり清司は勘がいいのか、或いは蒼介よりもよく見ているのか気付いたがはぐらかしたのを見てそれ以上の問いかけはしなかった。
裕翔のニパーッと明るい笑顔を見て蒼介は変な気を持ちすぎだと自分を諌めた。
この二人が"あの人達"のように意図して無視をしているわけではないのは分かっているはずなのに───。
「お待ちどうさま!朝食だよ〜」
暫く待っているとよしえさんがプレートを持ってきた。
マーガリンをふんだんに塗ったトースト、サラダ、ゆで卵とアイスコーヒー。裕翔にはみかんの入ったヨーグルトとオレンジジュースがプラスされていた。
喫茶店らしいモーニングだと思いつつ、口を潤わせる為にコーヒーをひと口、飲むと横から元気よく裕翔が声をかけてきた。
「先生!ここのパン、美味しいから食べてみて!」
確かに厚切りのトーストは美味しそうだ。
手に取って大きく口を開けてひと口、かじりつくとジュワッと咥内に広がるマーガリンの味、そして柔らかくもパンの香ばしい香りと美味しさが咥内にいっぱい広がる。
「……懐かしい、味……美味しいですね」
この味は、昔と食べた事がある。
覚えていないのに食べた事のある味。そして優しく見守ってくれる清司と裕翔、そんな二人を見ては蒼介は視線を泳がせた後、項垂れた。
そうだ、この二人が自分を輪に入れないなんて有り得るわけがない。
「お父さん、美味しいって!このヨーグルトも美味しいから食べて、先生!」
「ああ、そうだな……って、裕翔、それお前が好きじゃないからって渡したらダメだろう」
「えー、お父さん!先生も喜ぶと思うから!ほら、あーん!」
楽しそうに笑い合う二人。
裕翔はヨーグルトが苦手そうで小さな手でスプーンを手に取り、それを蒼介の口に運べば噛んですり潰していたトーストを飲み込むと口を開けて食べた。
「美味しい?」
その問いかけに蒼介は「美味しいですね」と答えた。
咥内に広がるヨーグルト特有のもったりとした口当たりにみかんが加わってほんの少し甘酸っぱさがある。
優しい味に目を穏やかに細めながら感謝の意を伝えた。
「……裕翔君、清司さん、ありがとうございます。二人は優しいですね」
「ん…っぐ、ゴホッ…ゲホッ」
まさか礼を言われるとは思っていなかった清司は頬張っていたトーストを噛み潰す事なく、飲み込んでしまうと喉に突っかかって咳き込んだ。
その姿を見て裕翔は楽しげに「お父さん、喉詰めてる!」と見たままの事を指摘して清司に「笑ってないで背中撫でろ」と叱られていた。
とても楽しそうな二人に疎外されてないと気づいた蒼介は心の底から楽しいと思ってトーストを頬張れるようになった。
そんな蒼介の姿を見て清司はホッと安心するように息を吐いてから微笑んだ。
朝食を食べ終えた三人は会計を済ませて店を出た。
店主のよしえには「また来るんだよ」と何度も声をかけられ見送られた。
店の場所を覚えるために何度も辺りを確認していた蒼介に清司は帰る事を提案して車を出した。
一度家に帰り、準備を終えると再び送ってくれる。
家には仕事に行ったようで拓也はいなかった。その事を裕翔から聞きながら仕事に行く準備を終えて車に乗り込んだ蒼介は学校に着くまでの間、裕翔と沢山話していた。
学校に着けば清司とはそこで別れて裕翔を教室へと送り届けた後、職員室へと向かった。
仕事の準備を進め、担当の教室に向かえば授業を始める。
それは教師にとってありふれた日常のひとつだっただろう。
真剣に勉強に取り組む子、勉強が分からないと言って聞いてくる子、楽しそうに勉強する子。
そんな子達を見ながら蒼介はゆっくりと一つ一つ、チャイムが鳴り響くまで教えていく。
チャイムが鳴れば授業を終えて生徒達を自由に遊ばせに行かせる。
(さて、次の授業の準備をして……)
慣れない事ばかりだが最初に校長に教えられた事を思い出して準備に取り掛かる。
準備を終えると生徒達から渡された連絡帳を取り出した。そこに目を通して一つ一つ書き込んでいくとその作業の最中に一人の生徒が近寄ってきた。
「先生、裕翔が携帯持ってきてる」
子供にしては顔立ちがややキツめの少年が声をかけてきた。
名前は確か正樹という名前だったはず。最近、裕翔とよく遊んでいる子だ。見た目こそ怖く見られがちだが根は普通の子で面倒見もいい。裕翔と同じ一年生とは思えないほど、しっかりしている。
そんな子が桃色の携帯を持ってきた、見た目はとても子供っぽくて確認してみると通話機能とGPS機能が兼ね備えた子供用の携帯だ。
「ま、マサくんやめてよ!先生、返してそれ!」
「ダーメ、先生、それ学校に持ってきちゃダメなんだろ?」
後ろから走ってきた裕翔が返してほしそうに蒼介に向かって必死に手を伸ばした。
「ああ、確かにダメだけどコレは子供の防犯の為でもあるから一概にもダメってわけではないよ。ただ、学校だから一旦預からせてもらうね」
大切な携帯なんだろう、返すのが義務だが定められた決まり事上、必要な物以外の持ち込みは禁止されている。
少し考えた後、説明した上で蒼介は内側の胸ポケットにしまった。
説明を聞いて分からない、と言ったこともなく理解してくれた裕翔は渋々と「分かりました」と落ち込んだ声で返せば席に戻った。
ちゃんと返さないと、そう思いながら蒼介はペンを取ると再び次の授業が始まるチャイムが聞こえるまで、連絡帳に書き込み続けた。
時間は過ぎていく。気付いたら夕暮れ時で他の教師が手伝ってくれたおかげで最後の授業は他の事に手を回せた。
正直、少ないはずの生徒の連絡帳を書き込むのは大変で昼食を削ってもなかなかだった。答え合わせをつけるのもなかなか大変で終わらない。
やっとの思いで職員室へと戻ってこれた蒼介は自分の席につくなり、つかの間の休憩を堪能していた。
「お疲れ様です、東先生」
そう言ってコーヒーを目の前に出してくれたのは校長だった。
「……ありがとうございます、校長先生」
感謝を伝えると一口飲んで蒼介は背もたれにもたれるように全身の力を抜いて、伸び伸びと体を伸ばした。
「どうでしたか?慣れましたか?」
「いいえ、全然ですよ。まだ生徒の顔も名前も覚えれてなくて」
「まぁ、最初はそうですよね」
隣で手にするコーヒーを口にしながらゆったりと話す校長を相手に蒼介は話していた。
今日も職員室は人がいない。本当にここは人が少ないんだと認識しながら校長を見上げると「校長先生もお疲れ様です」と微笑みかけた。
「そういえば、どうですか?真実は知れましたか?」
ゆったりとした時間に校長はほんの少しスパイスを入れた。
「ええ、ある程度思い出せましたが家族の事は全く」
いまだに思い出せない家族の事。
校長も清司も知るべきではないと言っていたのを思い出せば蒼介は飲み下すようにコーヒーを一気に飲み干した。
「そうですか、思い出すべきではない事もありますからね」
「そうですね……」
穏やかな口調でそう話す校長にただ頷くだけの蒼介。
本当は思い出すべきなんだろう、そう分かっていながらも皆の言う通り、思いますべきではないと心の中でどこか思い始めていることに気付いた。
恐らく、それは昨夜手酷くされたからだろう。きっと清司に言う通り、酷い親なんだろうという事に気付いてしまったが故に蒼介は半ば、思い出す事を諦めていた。
「では、校長先生。仕事が終わったのであとは生徒達に別れの挨拶をしたら帰りますね。お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ様。気をつけて帰るんですよ」
飲み終えたコーヒーのカップを机に置いて帰る事を伝えた蒼介は職員室を後にして教室に向かった。
ガヤガヤと楽しげに話す生徒達。人数が揃っているのを確認して明日の予定などを伝えた。
「───では、起立、礼。ありがとうございました、さようなら」
当たり前の挨拶をした。頭を下げてそう言うとまるでこだますように、生徒達がそれぞれ「さようなら」と元気よく言ってくれた。
それぞれがランドセルや鞄を手に元気よく教室を飛び出した。そんな姿を見ながら今日は一緒に帰る予定の裕翔を見ると彼はまだ隣の席の正樹君に勉強を教えられていた。
「帰らなくていいのかい?」
「あっ、先生!帰るよ。でもまだマサくんに教えてもらってて……」
算数の教科書を開いて教えてもらっている裕翔は「少し待ってね」と言って少しずつ理解していた。
裕翔は大体の事をそつなくこなせるが唯一、算数が苦手だった。今日の宿題には当然算数が入ってくる。
それを少しでも理解して解けるように正樹が教えているようだがあまりにも時間がかかりそうだった。
「正樹くん、帰っていいよ」
そう声をかけると正樹は驚いた様子を見せてから立ち上がった。
「じゃあ先生、お願い。俺、母ちゃんに家の手伝い頼まれてたから急いで帰るわ」
机の上に乗せたリュックサックを背負った正樹は「じゃあな」と裕翔に挨拶してから教室を出た。
静かになった教室で二人っきりになった蒼介と裕翔。正樹の席を引いてそこに腰をかけると少しずつ教えた。
「ここはこうやって解くんだよ」
「……こう?」
「そうそう、ちゃんと解けて偉いね」
少しずつだが理解してくれているのが分かる。
素直に褒めると裕翔は「にひひっ」とはにかんでくれた。それを見ながら蒼介はより分かりやすく教え、ある程度のところまで進めると「ここまで出来たらもう大丈夫」と言って裕翔の頭を撫でた。
「ありがとう、先生!先生に撫でられるとお母さんに撫でられてるみたいな気がする!」
その言葉に蒼介は「そう」と静かに答えるしかなかった。
裕翔は蒼介と清司の間に出来た子供だ。しかし、産まれた直後に蒼介とは引き離され母親を知らずに育ってきた。
ゆえに裕翔は蒼介を先生としか認識しておらず、いまだに母親は不在だ。
いつかその母親の席に自分が座れる日が来るのだろうか、と考えながら蒼介は優しく微笑みかけると「そろそろ帰る準備しよっか」と裕翔の背中を押した。
「先生!先に外で待っててくれる?僕、まだ本返してないから図書の先生に返してくる!」
「分かった、じゃあ校門で先生待ってるからね」
水色のランドセルから借りていた児童書を取りだした裕翔はランドセルを背負うと教室を飛び出した。
蒼介は帰る準備を終えていたため、そのままその足で校門へと向かうと裕翔が来るのを待っていた。
ブブッと胸元に入れていた携帯が振動したのに気付いた時、返すのを忘れていたのを思い出した。
携帯を取り出して見てみると着信履歴に"パパ"という名前があった。なにか用事があるのだろうか、裕翔に渡してからでも聞いてみようかと考えていると大きく風が煽られ、目の前に木の葉が舞ったのに気付く。
そろそろ春も終わる。まだ学校に就任してから日も浅いがそろそろ夏がやってくるんだともう桜も散って青々しい若い木の葉が咲いているのを目に蒼介は伸びをした。
「蒼介」
空に向けて高く伸ばした腕をを下ろした時、目の前に一台の黒い車が停まった。
開かれた扉から出てきた男性に声をかけられた蒼介は顔を向けてほんの少し、息を飲んだ直後、小さな声を発した。
強く吹いた風に吹かれて言葉も足音も、エンジン音も全て掻き消された。
□
「先生ー!」
図書室にいた教師に本を返せば裕翔は急いで校門に向かった。
つい最近、父親に買ってもらった綺麗な水色の靴は地面を蹴りあげ軽やかに裕翔を前へと進ませる。
時刻は五時半頃。もう殆どの生徒達が帰って誰もいない為、蒼介を見つけるのは簡単だ。
そう思って校門に向かうと────そこには誰もいなかった。
「あれ、先生……?」
誰もいない校門。確かに蒼介は言った、『待ってるからね』と。
きっとどこかで悪戯に隠れてるに違いない。これは隠れんぼなんだと裕翔は近くを探した。
「先生!東先生どこにいるの!?」
声を上げて必死に走った。どこにもいない、いないはずなんてありえるわけがないと自分に言い聞かせて孤独に追い立てられる背中を必死に押して探した。
校内も見て回ったがいない。もう一度校門にやってくればそこには人がいた。
「あっ、せんせ……いっ」
違う、蒼介じゃない。
入学式に見た校長先生の背中だ。思わず呼んでしまった事に恥ずかしくなるが裕翔は縋るように近寄ると声をかけた。
「こ、校長先生!」
「……おや、貴方は……確か剛田さんの……」
「裕翔です!先生が!東先生がっ!」
何を言っていいのか分からず、とにかく助けを求めようと必死に話した。
校長は至って冷静で「まぁまぁ落ち着いてください」と裕翔をなだめると手元に持つ鞄を見せた。
「これに見覚え、ありますか?」
黒い鞄は確か蒼介が持っていた鞄だ。留め具が花模様になっているのが特徴的でなんとなく、パッと見ただけだが覚えている。
校長が開けて中を見ると確かに保険証などが入っていて蒼介の鞄だと分かる。
「……東先生は最後、なんて仰っていましたか?」
「えっ、あっ……校門で待ってるねって……一緒に、帰る予定だったから……」
「そうですか……」
まさか一人で帰ったのだろうか、裕翔を一人置いて。
そんなはずがないと自問自答するばかりの裕翔に校長は暫く沈黙していたがそれを破ったのは四、五分経過した頃だった。
「裕翔くん、今日は私と一緒に帰りましょう」
しゃがんだ校長は裕翔と目線を合わせてそう口にした。
この言葉にひとつ、裕翔はある事に気づいた。
「……東先生は……?」
もしかして、置いて帰ったのではなく────。
「……今は帰りましょう、貴方のお父さんにお話しないといけません」
その言葉を聞いて裕翔の目には沢山の涙がポロポロと溢れ落ちた。
置いて帰ったのではなく、蒼介は連れ去られたのだと気付いてしまった。以前父親に小学校に入学する前に誘拐されたり痴漢にあったりと世間には不審者がいる事を教えられていたのを思い出した。
自分が遅れたせいで誘拐されたんだと気付いた裕翔はわんわんと沢山泣いて悲しんだ。
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