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第1部【100万円の契約】
「皐月 、そろそろ帰るよ」
俺を膝から下ろし、ベッドから立ち上がる。
「……うん」
俺は、この人と契約している。
愛人──と言うわけではないけれど、お金を貰って、この人と会っている。
香島 悠 と言う名のこの人のことを、俺は良くは知らない。
月に100万円。それが、香島さんとの契約金だ。
とは言え、俺に直接100万円が渡されるわけではない。
香島さんから渡されているキャッシュカードの口座、そこに毎月初めに残高100万円が入っているのだ。
100万円ごと預け入れられるわけではない。
千円を下ろしても、100万円を下ろしても、月初めには必ずそこには100万円が預けられている、と言うことだ。
月に1度、香島さんの指定した日に会えば、契約は更新される。
俺が理由もなくそれを拒否すれば、その100万円が最後の契約金になる。
それだけの関係だ。
近所にATMのあるこの銀行のキャッシュカードを、俺はまだ一度も使ったことがない。
自分でも会社勤めをしているし、月に1度で100万円じゃ、割に合わない。
俺はそんなに価値のある人間じゃない筈だ。
香島さんとはいつも金曜日の仕事帰りに待ち合わせて食事をして、香島さんの運転する車で俺の家へ2人で帰る。
大学の頃から住んでいる、ワンルームのマンション。
大学には近いけど、駅からは遠い。
狭いし陽当たりも良くないけど、4年も住めば居心地良くて。
新社会人じゃお金もないから、引っ越しもせずにそのままプラス3年超え。
今月は第2金曜日。今日も外で夕食を済ませてから2人で家へ帰った。
一つしかない部屋の中、キッチンスペースで手洗いしてから、香島さんはいつものようにソファー代わりのベッドに座る。
「皐月、おいで」
手を広げて名前を呼ぶから、俺もいつものように香島さんの右ひざに座って、その顔を見つめた。
香島さんは、多分30歳そこそこ。
家に着いて仕事仕様の前髪を崩すと、いつもより少し若く見える。
肌の色は俺より黒いけど、焼けてるって程でもない。多分、内勤の人だ。
アイロンの掛かった真っ白なシャツに、折り目の付いたシュッとしたスーツ。
ネクタイも、3本で幾らみたいな、俺のフレッシャーズなやつとは一味も二味も違う、センスの良いブランドもの。
頬にペタリと触れてみる。
「皐月…?どうした?」
「なんでもないです」
うちの会社の30代、皆もっと脂ぎって見える、けど。
香島さんの肌は、すべすべしてて気持ちいい。
唇もガサガサしてないし、加齢臭なんてちっとも無い。
逆に好い匂いするし……。
香水かな?
首筋に鼻を近づけて、くんくん嗅いでみる。
「皐月、いけないよ」
息がかかってしまったのか、香島さんはくすぐったそうに喉の奥で小さく笑った。
……声も、いい。
低いけど低すぎなくて、ゆったりとはしていないけど速くもなくて、耳から入って脳に溶けていく──そんな感覚が、心地好い。
俺も172cmあるから背は低い方じゃないんだけど、香島さんはそんな俺でも見上げてしまうところに顔があるから、きっと180cm越えてると思う。
前に服の上から胸やお腹を触った時は、身体はそれなりに硬い筋肉に覆われていた。
それ以来拒否され続けて二度と触らせてもらえてないけど。
細身だけど一応170以上ある男の俺を軽々と持ち上げてしまうほどの力の持ち主だ。きっといい身体をしてるんだろうと思う。
全然見せてくれないけど。
腕相撲も全く相手にならないくらい強いし、マッチョじゃないけどいい感じに筋肉質。
…なんだろうと思う。
………そう。俺は香島さんのことを何も知らない。
名前と見た目、それからお金持ってそうってことと、格好良いオトナで俺に優しいってことだけ。
そうだな…、外で食事している時の姿を見る限り、店員さんにも愛想がいい。
「ありがとう」とか「ごちそうさま」とか、輝く笑顔と言葉が自然に出てくるところを見ると、礼儀正しいいい人なんだろうなって思う。
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