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思えば全てはここからだった。
またこの雑多な街に新しい建造物が建てられるらしい。
節操もなくどんどんと乱立する巨大なビル群は、古き良きを慈しむ思考の者たちをどんどんと隅に追いやって、やがて追い出した土地に都会の象徴のようなビルを建てる。
時代の入れ替わりがめまぐるしいこの街で、スクランブル交差点を行き交う大衆のわずかな隙間を縫うように、朝日奈天嘉は禁煙用のキャンディの柄を噛み締めながら歩き抜ける。
この街を根城にしたのは三年前だ。高校卒業後、逃げるようにして地元を離れた。
特に思い入れはない、ずっと、早く出て行きたくて仕方がなかった。今は細々と居酒屋のキッチンと、日雇いのバイトで食い扶持を稼ぎながら、駅から歩いて12分という立地の1Kに住んでいる。
都会で、駅近で、バイト暮らしの天嘉が稼げる範囲の家賃というのは、やはり絞られてくるわけで、通常の相場は安くても9万そこそこだろう。しかし、天嘉の根城は恐ろしく安い。なんでかというと、まあセキュリティ設備の不十分さと、家の近くに走る都電の騒音のせいである。そして、とにかく褒め言葉に困るほど見た目もアレだった。
事故物件ではないが、地震が来たら建物ごと悲鳴を上げるような軋みと、セキュリティが番犬とドアチェーンのみ。天嘉は1階に住んでいるが、先日ついに砂壁に蟻が湧いた。
田舎に住んでいたとはいえ、虫など多少のことであれば気にしない天嘉だったが、あれは流石にちょっと、いやかなり引いてしまった。
住めば都と言えるようになるまで2年、家賃更新の時期をきっかけに、天嘉は本気で引っ越しを考えていた。
「てんちゃんさあ、まだあの事故物件に住んでんの。そんなとこ住んでるからモテないんだよ。」
「俺がモテないのは金がないからだし、金がないからあそこに住んでんの。」
「まじ、自分で答え合わせしてて悲しくないの?顔は悪くないのに、ほんと残念すぎい。」
かちゃかちゃと食器の擦れ合う音がする。今日も今日とて居酒屋のキッチンバイトに精を出す天嘉に、早速絡んできたのはフロアスタッフの美咲だ。
専門学生らしく、将来は美容部員になるの、とか猫撫で声で言っていた。美容部員がどんな職業だか天嘉には全く想像がつかないが、やれ何が流行っているだ、どこそこで何某の限定コフレがヤバタニエンやら、ちょっとフロリダなど、到底天嘉には理解の及ばないようなワードをバカすかと使ってくる要注意人物だ。
なぜなら美咲のおかげで、テンプレートのような畏まった敬語を覚えるよりも先に、天嘉のスマホの検索履歴に若者言葉、今。などとしょうもないワードを刻むハメになった諸悪の根源である。
「てかあ、バイト上がりにイツメンと飲みに行くんだけど、天嘉もきなよ。先輩が付き合い悪いから参加マストねって連絡きたしい。」
丁寧に時間をかけて巻かれたであろう金髪は、毛先にかけてピンク色に色を変えている。
ビジューのついた長いネイルで器用に客の注文を打ち込む技術は卓越したもので、環境の変化に応じて適応した爬虫類のような進化を遂げたに違いない。
そんなことを言うと、また美咲に長い爪で攻撃されるから口にはしないが。
泡を切り、粗方洗い終えた食器をザルに上げていく。
「残念、パリピの集いには参加しねえ。飲みに払う金すらも惜しい。先輩のフレンドリストから俺をぜひリムってくれ。」
「えー、まじぴえんなんですけど。先輩のかまちょ攻撃トラウマになりすぎっしょ。」
「それな。」
ここ数年でようやく理解してきた都会言語も、使ってみれば長い言葉を短く語るだけである。手っ取り早い会話ができるのは美咲のような量産型テンプレギャルやヤンキーのみだが、まあこの街にはそんな奴らしかいないので楽と言えば楽だ。
「えー、先輩に何て断ろっかなあー。」
「美咲の潔いとこすげえ好き。サンキュ。」
「チャラ。てんちゃんのジェントル精神てたまにうざいよね。」
そんなことを言いながらも、嬉しそうにする美咲の顔は可愛い。一度好意を伝えられたことはあるが、お付き合いに金がかかるのは至極当然なことなので、泣く泣く断ったのだ。理由を伝えると、金欠ここに極まれりって感じ。と可愛くないことを言われたが。
「あ、オーダー入った。行ってきまーす。」
「はいよ。」
サンダルを引き摺るようにしながら注文を取りに行く後ろ姿を見送る。付き合いたいが、自分はダメだ。天嘉は思考を切り替えるように食器乾燥機のスイッチを入れると、ずり落ちてきた袖を捲った。
天嘉に転機が来たのは、バイト帰りの夜だった。駅前のスーパーでお勤め品の惣菜を買って帰り、結局我慢できなくてタバコを吸った。禁煙は今日も失敗だ。悪あがきでニコチンとタールフリーの電子タバコを吸っているが、まああまり意味はない。
「金がねえのにタバコは吸うんだ。」
自分で言って悲しくなってくる。まあ、これ以外は無駄金を使わないので許して欲しい。
自身の下手くそな字で書かれた表札が刺さっている。やはり駅を離してでも家賃の安いところに住むべきか。何も考えたくないなと言うときですら、このことがチラついてしまう。
多分引っ越すだろうな、と自身でも思ってはいた。
「あら、てんちゃんおかえり。」
「ああ、こんばんは。まだ寝てないんですか。」
「てんちゃんに言っときたいことがあってね。」
大家の松野は、カーラーで前髪を押さえながら、パジャマ姿で出てきた。帰宅を待っていたと言うから恐縮である。人の良いこの老婆は、天嘉のことを孫のように可愛がってくれている。
「あのね、今日てんちゃんのおじさんって人が訪ねてきたんだけど、てんちゃん帰り遅いわよって言ったら、また来ますって帰って行かれたのよ。」
「は、」
「それでね、仕事場どこか聞かれたんだけど、おばちゃんド忘れしちゃって…なんだか悪いことしたわ。おじさんの連絡先預かっておいたから、てんちゃんから会える日にち、ご連絡差し上げてちょうだい。ね?」
かさりとした四つ折りのそれを手に握らされる。松野の柔らかく、丸みを帯びた手のひらが天嘉の手と重なり、そっと優しく握り込まれる。
嘘だろう。天嘉の手には、ここまで逃げてきた理由の一端が、かさりと音を立てて存在を主張する。
松野が、二、三何かを呟いて去っていく。バタンとドアを閉める音がして、天嘉は手の平のそれをギリギリと握りしめた。
逃げなくては。
弾かれるように駆け込んだ部屋には、男の一人暮らしにしては生活感のない空間が広がっていた。
薄いせんべい布団に、少しの着替えと数枚の食器。ここに来てから増えた私物は電子タバコとスマホ、そして数冊の参考書くらいだった。テレビやラジオといった情報機器はなく、家電も備え付けのものばかり。天嘉はここに来た時に使っていた大きなスーツケースを引き摺り出すと、その中にばかすかと物を詰め込んでいく。
「服は、三日分あればいいか、ええと、布団は…粗大ごみか…シール買いに行かなきゃ。あ、あと松野さんに退去すること言って、ええと、ああ、ごみの連絡忘れねえでしねえと。待て、次いつくるんだ…ああ、ああ、ええと…」
譫言のようにぶつぶつと呟く。こうでもしないと気が紛れない。松野が天嘉の連絡先を教えなかったことが唯一の救いだ。一度帰ったと言うのは、実家だろうか。それとも近場にホテルをとっている?
どちらにせよ、天嘉は今すぐここを出なくてはいけない。賃貸関連の書類を鷲掴みそれもスーツケースに入れると、風呂場やトイレにあった使いかけの掃除用品を片っ端からゴミ袋に放り込む。食材などはない。いつかこんな日が来るだろうと予想して、3日ごとに使い切れる量を考えて買っていた。残っていた調味料もまとめてゴミ袋に入れると、天嘉は静かに部屋を見渡した。
「ちくしょう…。」
ぽつりと呟かれた言葉が、夜の部屋に虚しく溶ける。面倒な手続きは全部明日だ。天嘉は小さく鼻を啜ると、なるべく物音を立てないように部屋を出る。
ポケットに突っ込んだ、天嘉の行動の発端である紙切れを引きちぎろうとして、やめた。
念のためスマホでその紙の写真を撮る。連絡する事はない。と、思いたい。
「仕事、探さなきゃ…。」
こんな紙切れ一枚に、自分の人生を左右されるなんて、と小さく笑う。ごみ置き場にクシャリと丸めた叔父の連絡先を放り投げると、再び道を戻った。ガロガロとスーツケースを引きずりながら歩く天嘉は、夜行バスに乗って実家へ帰省する若者に見える事だろう。
天嘉に帰る実家など、ないと言うのに。
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