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山の怪

 ひたひたという音がする。天嘉の耳元でその音が止まると、ゆっくりとそれは隣に腰を下ろしてきた。  頭が痛い、なんだろう。天嘉は偏頭痛にも似た不愉快な痛みに涙を滲ませながら、胎児の様に膝を抱えようとした。 「…?」  何かに纏わりつかれていて、身動きがとれない。手足に絡まったそれはなんだろうと、痛みにくたりとしたままゆっくりと目を開いた。  涙で視界がぼやける。睫毛を震わし、焦点を定める。やがて薄ぼんやりとした視界が輪郭を捉えた。徐々に明朗になってくる視界、琥珀の瞳が捉えたのは木目のような何かであった。  木だ。黒くて、乾いていて、所々茶色い何かが捲れ上がっている。気分が悪くて、ゆっくりと深呼吸をした。ここの空気はどことなく濁っていて気持ち悪い。天嘉の顔を覗き込むような形でそばにある何かは、生臭くて嫌だった。顔を近付けたくなくて、少しだけ身を引いた。その臭気に徐々に思考が定まってくる。数度瞬きをして微睡から覚醒すると、天嘉は自分の間近にあるそれがなんなのかを理解した。  声は出なかった。ヒクリと喉が震えただけである。  天嘉の目の前には、まるで細い綱を何本も束ねて捩じるようにして作られた顔のようなものが、その虚の瞳で見つめたいた。木の肌、とは違うかも知れない。顔の部分、朽ちて捲れ上がったそれは、木のように見える皮膚だ。その、人にも見える何かは、首から下を木と混ぜこぜにしたかのような異形の姿で、天嘉を見つめていた。 「あ、あ」  こくりと小さな喉仏が動く。少しだけ顔を動かして、目を逸らした。真正面に見つめてはだめな気がしたからだ。  天嘉の手首と足首には、真っ黒な毛束が拘束をしている。そうだ、この頭の痛さはあのときと同じだ。  足の力だけで、ゆっくりと後退りをする。ここはどこだ。四方の壁を木で作っているそこは、山小屋のような場所であった。壁にかかっている斧を認めたが、この至近距離じゃ動くことも許されないだろう。  天嘉がずりずりと後退りをする度に、やまのけだろうその化け物は、枯れてねじれた長い手足を動かして、四つん這いで近づいてくる。まるで肉食動物が獲物を追い詰めるような歩みだ。  震える手を腹に添える。天嘉がすべき事は生きて帰らねばならないことだ。行き止まりを知らせるかのように、とん、と壁に背がくっついた。行き場の失った天嘉の体の脇を囲うように、やまのけの長い腕で閉じ込められる。長く、乾いた黒い髪がざわめき、長い首をもたげるようにして化け物が天嘉の顔を覗き込む。体に巻かれた髪が締め付けを強めたかと思うと、朽ちて木乃伊のようになった手が、そっと天嘉の頬を撫でるようにして、目を合わせようとしてきた。  異形の額に刺さった釘、忘れることのできないあの日のトラウマが、今目の前にいる。 「は、な、せる…?」  震える声で問いかけた。生き延びるなら時間稼ぎが必要だったからだ。  我ながら馬鹿な質問だなと思う。それでも、天嘉の声を拾ったのだろう、その木の皮のような長い耳をひくんと揺らす。細長い体を縮めるように後退すると、手のひらで顔を覆い、肩を揺らすようにして数度体を跳ねさせた後、やまのけは小さな幼子のような声を絞り出した。 「あ、あ、、ア…の、ぁの子…ハ、どこ…に、行っ…タのダ。」 「え?」 「カき、…ぉ、オき…ぃ、ヒとつ、の、ノ残し、ヤしなイ、ひ、ぃ、ヒ、トり、で…ぃい、った、いどこニ。」  耳障りな声で、流暢にそんなことを宣う。天嘉は訳がわからないといった顔で見つめると、化け物はギギ、ギと喉が詰まったような声を上げる。もしかしたら、笑っているのかも知れない。 「あ、ァた、ち、ア、あたち、ぃハ、ゎ、ワるく…な、ぃイも、の」 「な、なにいってんの…なあ、っ…」 「お、お…ぉま、エが、て、…てんか、ヲ、ぃ、いじ、め、るかラ」  天嘉の瞳がぐらりと揺れた。頭の中で大きな音が鳴っているようだった。ありえない、そんなことあるわけがない。化け物は己の名を呼んだ。支離滅裂な言葉を話しながら、ギィギィと喉を軋ませて。 「さすガ、ば…、ぃイタ…のこ、どモ…だなあア」 「へ、」 「カ、カ、…カゎ、ワいィ、てん…カ。ぉォオ、お、トサン、が、ぉ、おシ…ぇエ、てやろ、ウ」  聞いたことのある台詞だった。奥底のトラウマを刺激されて、胸を焼くような嫌悪感が喉元に迫り上がってくる。なんであいつの言葉を話すんだ。声は似ていないのに、沢山の何でが、天嘉の頭の中を埋め尽くす。気がつけば枯れた手が、あの時のようにそっと頬に触れていた。震える手で、天嘉は胸元の角笛を握り締める。 「お、おとうさん、じゃねえ、もの…」 「お、おと、うさン、じゃね、えもノ」  天嘉の真似をするように、化け物が胸元を握り締める。片手を腹に添えて、大きな腹を撫でるような素振りをする。  もしかして、俺になりたいのだろうか。天嘉は頭痛に顔を歪ませながら、守るように腹に手を添えた。  口に角笛を銜える。音の鳴らない犬笛のようなそれに、細く息を吹きかける。それを真似する様に、化け物が指を咥えようとして、ぴたりと動きを止めた。 「ア、あ、」  話しづらそうに口をもごつかせる。枯れた手を持ち上げ、指を己の口端に引っ掛けると、何度も己の口端を真横に引き伸ばすようにして手を動かす。にんまりと笑うかのような顔で、体をゆさゆさと上下に揺らしながらのその異常な行動は、正しく天嘉の恐怖を煽る。  やがてやまのけは、天嘉の目の前で、己の口を引き裂くかの様にしてその顔を傷つけた。  ブチブチと、捲れ上がった皮膚が覆う顔が半分に千切れていく。あまりの光景に、天嘉は声を殺して涙を零した。もう、わけがわからなかった。ぎりぎりと縛り上げられていく手首と足首。血流が止まり、徐々に指先が冷たくなってくる。締め付けは、天嘉が身動ぎするたびに苦痛を伴う。  大きく裂けた口の中から、舌らしき部分がだらしなく垂れ下がった。首元まで一気に真横に引き裂かれた顔は、下顎を地べたに落とし、口内を天嘉の目の前に晒し出す。  顎の内側にはびしりと細かい歯が並んでおり、擂粉木状になっていた。その光景に怯える嘉に煽られたらしい。その手でちいさな頭を鷲掴むと、まるで丸呑みをするかのようにその身をゆっくりと近づける。 「っ…、!っや、め…!!」 「アーーー、あ、」  もう、逃げられない。ぎゅ、と目を瞑り顔を背けた。腹を抱き締める腕に力が入る。頭を喰われても、腹の子はきちんと産んであげられるのだろうか。己が死んでも、子が無事ならそれでいい。  涙が頬を伝って、天嘉の体から力が抜ける。  ふわり、と風が顔を撫でたかと思うと、締め付けられた体は投げ出されるかのようにして開放された。 「おやまあ、」  支えを失った体が傾く、そのまま抱きとめるかのように受け止められる。上等な着物生地に顔を埋める形になってしまった天嘉は、何が起こったのかを確かめるように、その目に怯えを宿したままゆっくりと見上げた。  黒髪が一筋頬を撫でた。天嘉を優しく抱き留め、地面とぶつかる前にその身を支えてくれたのは狢であった。 「む、狢…!」 「お呼びでありんしょう?随分と厄介なのに好かれんしたねぇ。あらよっと、」  やまのけはその体を解くようにしてしゅるしゅると蔓を繰り出す。狢は天嘉を抱き留めたまま、片手に持った煙管で的確にその攻撃を弾くように防ぐ。  天嘉を己の後ろに回すと、くるりと煙管を手の中で回転させた。その煙がゆっくりと天嘉の体を守るように侍る。 「ニニギ、あんさんの大顎で食らってやりなんし!」  ず、と頭上の暗闇が、影を引きずるかのようにして動いた。  キシキシと音を立てて何かが這う音がしたかと思うと、やまのけの真上からその身を落とすようにして現れたニニギが、その大顎を耳の下までぐぱりと開き、両手を広げて襲い掛かった。 「あんたは固くて不味そうだ、っ!」 「ニニギ!!」    赤い目を輝かせて、やまのけに向かって襲い掛かる。やまのけは虚のような伽藍堂の目でニニギを見上げると、その黒髪をざわめかせて勢いよく飛び退る。    太い百足の下肢を素早く動かし、地面を削るようにして降り立ったニニギは、その顔に加虐染みた愉悦の笑みを浮かべる。  やまのけが劣勢を悟ったのか、木の板を突き破るかのようにして外へと飛びだす。  ニニギは木片を散らして壁の穴を広げると、外の景色からしてこの小屋が山の頂にあるのだと、天嘉は漸く理解した。   「ここ、山頂…!?」 「修験者が止まる小屋でござりんす。蘇芳殿が、」    と、言いかけた狢が目を見開いた。大きな音を立てて、空が光ったのだ。狢がその腕で天嘉を抱きしめる。激しく周辺が光ったかと思うと、大きな大木が捻りきられるかのような激しい音を立てて雷が落ちた。  狢は正しく理解していた。ああ、怒っているのだろうなあと。  外ではニニギが苦戦を強いられていた。やまのけが思った以上に賢かったためである。他人の言葉を借りることでしか喋れないくせに、どうやらこのやまのけは他のものとは違うらしい。  ニニギの動きを封じるために、地面からはいくつもの太い木の根を突き出しながら追い詰めてくるのだ。長い体を持つニニギの外殻がいくら硬いからとはいえ、下から突き上げられたらたまったもんじゃない。ニニギは仕方なく、突き出た根の上に身を絡めるかのようにして器用に避けると、己の心臓に向かって生えでた木の根を、腕を一閃させてへし折った。   「ざっけんじゃないよ!セコセコと木ばっか生やしやがって、誰の山に勝手に植林してるんだい!」 「俺の山だな。」 「げえっ!」    ニニギが絡みついた木の根の頭上から、聞き慣れた声が降ってきた。背後に雷鳴を響かせる空を背負いながら、その突き出た先端に降り立った蘇芳は、面の僅かな隙間から猛禽の瞳を光らせる。  天嘉の知らない蘇芳だった。低く、そして冷たい声を放ちながら、いつもの着流しに赤く、そして白い髭を蓄えた厳しい面をつけている。   「アタイの上で喋るんじゃないよ!」 「そこにいたら貴様も雷を食うぞ。焦げたくなければさっさとその外殻で天嘉を守れ。」    狢の後ろで、天嘉が小さく息を飲む。空気が静電気を帯びてきたのだ。蘇芳の体の周りに、まるで侍るかのように青白く、細い電流が何度も姿を表す。ニニギは大慌てで体を解くと、狢と入れ替わるようにして天嘉のもとにその身を寄せる。  腰に佩びた刀を、狢が引き抜きながら外に出る。飄々とした様子は相変わらずで、心配そうに見つめる天嘉の視線に気が付いたのか、振り向くと柔らかく微笑みを返した。   「あちきは雷を喰らいんせんようにあの根を片しに行ってきんす。天嘉殿はいい子で待っていてくんなましね。」 「え、あ、」 「ニニギ、あんさんも大顎で手伝いなんし。」 「ああもう、頼りのない男ばっかで嫌になっちまうよ!!」    外に繰り出した二人の体の僅かな隙間から、やまのけが真っ直ぐに天嘉を見た。枯れた手を素早くその方向に向けると、まるで土竜が辿るような地面の盛り上がりを見せながら、木の根が勢いよく下から襲い掛かる。隙きをついた攻撃に気がついた天嘉は、慌てて壁にくくりつけられていた斧を手に取ると、勢いよく振りかぶった。   「守られてばっかは、嫌なんだよ!!」    手前で飛び出してきた木の根を横に避けると、一息に振り下ろした。見た目以上に硬く、切断することは叶わなかったが、怯ませることには成功したらしい。あらかたの避雷針の如く生えていたそれらの処理を終えたニニギと狢が、長物を投げ出して大慌てで戻ってくる。処理は終えたが雷の餌食にはなりたくはないのだ。  蘇芳は天嘉の怒りの一撃を見ると、面の下で小さく笑った。   「お前にそんなものを握らせてしまってすまない。」    やまのけはその手を地面から抜こうと身を捩った。蘇芳は無様なその様子を目を細めて見つめると、己の周りにばちばちと走らせた電流を、絡めとるかのようにして手を動かした。   「蘇芳、」 「すぐに終わらせる。お礼参りは面倒だからな。」    そう言い放つと同時に、一本の帯のような青白い光が真っ直ぐにやまのけの体を貫いた。まるで獣の咆哮のような轟音は、その威力の激しさを伝えていた。大地が震える。地響きでも聞こえてきそうなほどの揺れであった。  天嘉は、その瞬間を二人の腕の中で見つめていた。狢に抱きすくめられ、そしてニニギの体の内側で、腹を守りながら。    目を閉じても残る陰性残像。それほどの強い光であった。悲鳴は聞こえなかった。ただ、木が捻り切られるかのような耳障りな音がしただけであった。      

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