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琥珀

「こは、く」  ああ、やっと会えた。天嘉の顔に喜びの色が宿った。夢と同じだ。とても蘇芳に似ていて可愛い。 「おっと、無理すんなって。」  震える声で呟いた名前に、青藍か苦笑いをした。蘇芳は嫁と産まれたばかりの息子の寄り添う姿を見つめると、涙を乱暴に拭う。目元と鼻の頭を赤くした蘇芳が、きゅっと唇を真一文字に引き結ぶ姿が珍しい。  泣きそうだ、そんな雰囲気がよくわかる。やせ我慢をしたまま、今更の矜持で見栄を張る。  そっと天嘉の髪を横に流してやり、琥珀を見えやすくしてやれば、擽ったそうにまつ毛を震わせる姿を認めて、またじんわりと涙を滲ませた。しかし、今度はしっかりと堪えた。  嫁を失う恐怖を感じた蘇芳の涙腺は相変わらず馬鹿なようで、堪えたとはいっても溢れぬようにするのが精一杯であった。 「お前に、無理をさせてすまない」  掠れた声で言う。青藍は困ったようにため息を吐くと、嗜めるようにいなす。 「蘇芳の旦那、今はよしな。それと天嘉、お前はしばらくは絶対に安静にしておきな。蘇芳の旦那は無理をさせないように見張っとくんだよ。」 「わかった、」  睫毛を瞬かせて、ゆっくりと蘇芳を見つめた。見たこともない泣き顔に少しだけ笑いそうになると、腹に響いてうめき声しか出なかった。  天嘉の自業自得に騒がしくした青藍が、蘇芳に顔を洗ってこいと命令をする。  天嘉はゆっくりと呼吸をしながら、傷が治ったら指を指して笑ってやろうと心に決めたのであった。  それから事を、少しだけ語りたいと思う。  天嘉の床上げはなかなか叶わず、その間の世話は蘇芳が実に甲斐甲斐しく行った。  体調もなかなか良くはならず、授乳もあってか体重が激減し、蘇芳は常に気が気ではなかった。そして、天嘉自身も不安定な日々を過ごし、また寝ている間に黄泉路に行ってしまったらという恐れからか、眠れぬ夜を過ごす日もままあった。  それに、今回の出産で身体全体に大きな負荷が掛かってしまったこともあり、しばらくは柔らかく消化に良いもののみしか口に出来ないほどに、天嘉の体は疲弊していた。  しかし天嘉は、それでも構わなかった。腹にいた子を、男の身でありながら元気に産んであげることができたのだ。  ずっと不安であった出産は、やはり想像通り周りに多大なる迷惑をかけてしまう結果にはなったが、天嘉はそれでも、琥珀にこうして会えたことが何よりも幸せであった。  そんな天嘉が、青藍の言葉を受けて酷く悲しんだ事。それは、天嘉の腹は二度と子を宿せぬということであった。  無理もない、しかしながら、それでも天嘉は支えあえる兄弟を作ってやりたいなあと思っていたらしい。 「俺の体が適さなかったから、ごめんなあ…」  悲しげな声色であった。天嘉のやせ細った体で、なおもそんな事を曰われた蘇芳は、その顔を悔しそうに歪めると、その手を掬い上げて温めるように包んで言った。 「何を言う、俺がお前に強いたのだ。それに、俺はお前にこれ以上ないほどに感謝している。そんなに体を痛めつけてまで、子を守ってくれてありがとう。愚かなのは俺の方だ。俺のほうが、お前に不便ばかり強いてすまぬ。」  そう声を震わせて、包んだ天嘉の手に許しを乞うように言う。その言葉を聞いて、天嘉は口を真一文字に結んだ。己の愛しい番いである蘇芳にそんな顔をさせるくらいなら、もう謝らないと決めたのだ。  だって、天嘉にとって、なによりも大切な蘇芳が悲しそうな顔をするのを見たくなかったのだ。  自分の懺悔じみた言葉を押し付けるのは違う、だから天嘉は、そっと蘇芳の手に唇を寄せて言った。  まるで、その言葉で蘇芳を縛るかのように、天嘉は己の心の内を蘇芳に曝け出す。愛より重い、蘇芳に対する己の執着を、天嘉は隠すことをやめたのだ。 「幸せにして、今まで以上に、俺と琥珀を大切にしてくれ。俺はお前に全部をやるから、お前も俺に全部をちょうだい。」  蘇芳の悔恨を汲んで、押し付けがましく言ってやった。天嘉がそういえば、蘇芳は意味を正しく汲みって、困ったように笑う。  本当に、俺が言おうとした言葉を先んじて言ってしまう。お前はそうやって俺を甘やかすのか。 胸の中が甘く締め付けられる。蘇芳は天嘉を見つめた。そして、天嘉は何も言わずに綺麗に微笑みかけるものだから、やっぱり蘇芳は天嘉には敵わないなあと思うのであった。    そして、ある日の昼のことである。 「天嘉殿、」 「おー。」  障子の向こうから、控えめなツルバミの声が聞こえてきた。どうやら琥珀が愚図っているらしく、蘇芳はしばし待てと天嘉に告げると、ゆっくりと立ち上がって障子へ向かう。 「本日のお体の具合は如何ほどでしょう」 「今日は昨日よりも良さそうだぞ。」 「おやあ、ならばようございました。」  蘇芳とツルバミのやり取りに、天嘉は苦笑いをする。傷口のお陰でしばらく熱でも寝込んでいたのだ。腹の傷はまだ完全ではないが、はしゃいだりしなければ問題はない。  蘇芳がそっと受け取った琥珀は、ふにゅふにゅと小さな手を動かしながら今にも泣き出しそうである。  この子にも随分と寂しい思いをさせた。天嘉は、蘇芳が下手くそに抱く琥珀を危なげなく受け取ると、そっとその小さな手に触れる。 「なかなか一緒に居てやれなくてごめんなあ、」 「今朝は影法師たちにあやされておりましたよ、お子の頃から下僕をつける貫禄、まさしく総大将の器でございますなあ。」 「あはは、あいつらにもごめんって言っといて。」 「なんの、あれは楽しんでおりますゆえ。」  影法師達は琥珀が愚図るとわらわらと集まってあやしてくれるらしい。端から見たらどこぞの儀式の様でございますると言うツルバミに、天嘉は毎度想像しては笑いそうになる。 「父よりやはり母の腕の中が良いらしい。」 「蘇芳抱くの下手くそだもんなあ。ねー」 「うう、む…」  天嘉の優しげな声が琥珀をあやす様子に、蘇芳は毎回己の心臓が狂ってしまったかのように感じる。  嫁の無事を確認してからは、蘇芳は真っ先に子を抱きにいった。青藍が子の健診をしてくれた後、なんの問題もないと言われて居ても立っても居られなくなったらしい。  まるで埋め合わせをするかのようだったとツルバミにまで言われ、蘇芳は琥珀に対して、申し訳無さそうな顔をしながらも、目に入れても痛くないと言わんばかりの器用な態度でご機嫌取りをしたという。  まるでその時のことを思い出すかのように、これは時効だと青藍とツルバミが天嘉へと報告したもんだから、蘇芳は情けなく眉を下げながら、お前のことで頭がいっぱいになって、名を呼ぶことすらできなかった。と落ち込みながら謝ってきた。  天嘉は、その時だけは少し怒った。その気持ちは嬉しいが、産まれたばかりの子を優先しろと言ったのだ。それでも、結局蘇芳は何度同じ事が起ころうとも、きっとこればっかりは変えられぬ気がすると言って、天嘉を拗ねさせてしまうのだが。 「ぅ、」  天嘉と同じ琥珀の瞳が美しい輝きを纏って蘇芳を見上げた。赤子の体躯で身に宿す妖力は大妖怪のそれである。  天嘉の嫋やかな指先が、琥珀の髪の毛に混じってふわふわの羽毛を見つけると、頬を染めながら蘇芳を見た。 「お前とお揃い、」 「ああ、飾り羽があるな。俺と同じ大天狗だ。」  元服を済ませるまでは、この飾り羽は抜け落ちないらしい。大人になると、目立つ部分が自然に抜けて、蘇芳のように黒髪と混じって分かり辛くなるらしい。    琥珀のへその緒も宝物だけど、元服後の抜けた飾り羽も宝物になりそうだなあ。天嘉はそう思うと、ふわふわの羽毛混じりの可愛らしい琥珀に優しく微笑む。 「いいな、俺もお揃いがいい。」  そっと琥珀に頬を寄せて愛おしむ天嘉の言葉に、思わず蘇芳が唇を引き結んだ。顔を両手で押さえ、喉から変な唸り声を漏らしたかと思うと、まるで天井を見上げるようにして顎を上げる。  だって、そんな可愛いことを平気で言うだなんて。  蘇芳はなんの衒いもなくそう言ってのけた嫁の言葉に、年甲斐もなくときめいてしまうから、心臓が忙しい。  子を産み、幼さの残る天嘉の整った顔立ちが、危うい色気を纏ったのだ。なんというか、こう、甘やかしてほしくなる。そんな慈しみあふれる雰囲気とでも言うのだろうか。  ともかく、蘇芳の語彙では表現し切れぬ何かが、確かにあった。  頭の中で忙しなく悶ている蘇芳を、不思議そうに見つめる天嘉とは違って、意味を理解しているツルバミは溜息を一つ。 「いつまで経っても変態臭い照れ方は変わらんのですなあ。」 「え?今照れる要素あったか?」 「天嘉殿が的確に蘇芳殿のツボを貫いたということでござりまする。」 「うん?なんかよくわかんないけど、琥珀の父さんは情緒が不安定だねえ。」 「ぅぐ、」  ああ、いまのがトドメですなぁ。ツルバミはそう言うと、ついには後ろに向かって転がった蘇芳を見る。  琥珀は薄紅色の頬をふくふくとさせながら、そんな情けない父の姿を見て、天嘉の腕の中でふにゃあと楽しそうな声を上げたのであった。

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