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◆01

 余計なことを考えてしまうのは、愛用していたイヤホンが壊れてしまったからだ。  音楽を取り上げられた通勤時間の暇つぶしに、最適なものを探すような余力もない。  仕方がないので、味噌汁に浮かんだ具のことを考える。  ぼんやり歩いているとつい今日の反省を繰り返してしまい、ただでさえ鈍い足取りが鉛のように重くなるのだ。味噌汁、いや味噌汁の事を考えよう、と頭を振る。気持ちを切り替えて味噌汁の妄想をする。  歯ざわりが残るネギ、少しだけ柔らかくなったワカメ、小さ目にカットされた四角い豆腐。豆腐は絹の舌触りが好きだけれど、見た目は木綿の方が格好いい。なんとなく、味が沁みてそうでいい。  好きな食べ物は、と訊かれたら少し悩んで『茄子の揚げびたし』と答えるけれど、疲れた時に食べたいものは即答で『味噌汁』だ。  みそしるのみたい、と、直球すぎる欲求を頭に浮かべながら、環柊也は赤信号で立ち止まった。 (……塩分、足りてないのかなぁー)  歩みを止めるたびに重力に負けそうになり、交差点を過ぎるたびにもう少し駅に近い物件にするべきだったと後悔する。まだ二十代前半だから、と職場で擦り切れるまでネタにされる歳であっても、四階まで登る階段はかなりきつい。  今日の現場はエレベーターのないスタジオで、機材や荷物を抱えて何度も階段を往復した。もう階段は飽きた。おなかいっぱいだ。そう呪ってみても、とにかく登らないことには自室の扉までたどり着けない。どうにか味噌汁の妄想で乗り切るしかない。  白味噌ベースの甘くて柔らかな味噌汁は、やっぱり麩が浮いていてほしい。赤味噌には何が合うのだろう。アサリ、シジミ、白菜、玉ねぎ、大根、潰した大豆、ジャガイモ、茄子。でもやっぱりネギと豆腐とわかめだよな、と、面白みのない結論にたどり着いたところで、やっと階段を上り切った。  今日も疲れた。いや、今日は疲れた、と言っていい。  朝からトラブルまみれだった。スタジオ側の手違いで現場入り前にかなり待たされたし、給湯器は壊れてシャワーが付かなくなるし、そのせいか女優は始終不機嫌で、何故か彼女のマネージャーに何度か高圧的に怒鳴られた。  下っ端雑用と言っても過言ではないADとはいえ、初対面の人間に唐突に怒鳴られる謂れはない。なにか粗相をしたということならばともかく、思い返しても環自身に手落ちはなかったはずだ。  矢継ぎ早に様々な人間と出会う職業だ。合わない人間がいたからと言って、いちいち引き摺っていては疲れるだけだと、頭ではわかってる。  わかっていても、投げつけられた言葉で受けたダメージは、じわりと溜まって徐々に身体を重くする。忘れるしかない。寝るしかない。とりあえず味噌汁飲んで寝るしかない。  そう思うだけで手一杯だったから、環がその違和感に気が付くまでに随分と時間がかかった。 「……あっれ?」  鍵が開かない。というか合わない。いや、まず鍵穴に刺さらない。  しばらくガチャガチャと試した後、ようやく冷静になってきた頭を巡らし、恐る恐る表札を見る。  本来名前を表記する場所は、空白。これは環もそうだ。現代人の一人暮らしなんてみんなそんなものだろう。  けれどその上の部屋番号は見慣れた401ではなく、一つ下の階を示す301だった。  まずい。階数を間違えた。  ぼうっと歩きすぎた。  味噌汁に集中しすぎた!  そう思った時にはもう遅く、逃げる間もなく目の前のドアが乱暴に開かれた。 「だっ、れやねん!? つかなんやねんドロボーか!? 割合ド深夜やでこないな時間に正々堂々すぎひんか!?」  一気に下がった血液が、頭の上まで逆流する。  唐突に浴びせられた言葉の速さについていけず、思わず両手を目の前に掲げてからやっと口から出たのは『ヒェッ』という、あまりにも情けない小さな悲鳴だけだ。  301号室の中から出て来た住人は、背の高い男だった。  最初の印象は『赤』。  細面のその男は、目が覚めるような赤い髪色をしていた。  廊下の電燈が暗いせいで細かい色味はわからないが、それでも一歩引いてしまうくらいにあり得ない髪色だ。金髪も銀髪も紫もピンクも青も、街中では時折見かけることもある。けれど、深夜に自分のアパートで出会うと、どうしてか異常で異質なものに見える。  顎のラインよりも少しだけ長めに切りそろえられたおかっぱの赤髪男は、どうみても立腹していた。  それはそうだ。彼の言う通り時刻は深夜零時を過ぎている。  こんな時間に唐突に部屋のドアノブをガチャガチャと回されたら、誰だって不審に思うし腹も立つだろう。無言で通報されても文句は言えない。おそらく自分だったらそうすると思う。  勢いに押されて一歩下がったものの、環は足を踏ん張り、息を吸い、どうにか一気に頭を下げる。  やっちまったと思ったらまず謝れ、言い分があったとしてもまず謝れ。それが環の上司の口癖だ。 「す、すいません……! ぼうっとしていたら、部屋を間違えてしまいました! お休みのところお邪魔して、あの、本当に申し訳ありません……っ」 「はぁ? 間違えるっつったって、角部屋やぞ……あー、あれか、おにーちゃん、上の階のヒトか?」  本来なら見ず知らずの人間に軽率に部屋番号を教えることはないが、流石に環に非がある。素直に頷き、401号室の住人である旨を伝えると、赤い髪をくしゃくしゃとかき回した男は、何故か妙に納得したような息を吐いた。 「あー……せやなぁ、いっつもド深夜帰宅やもんな……毎日お疲れさんやなーと思っとったけど、マジでヘロヘロやねんな……。そら階段も数え間違えるっちゅー話やわ」 「あの、本当にその、申し訳――」 「いや、ええわ。おにーちゃん別に悪気あったわけやないやろ。酔っ払いか悪戯か怪奇現象だったら一発かましたろ思うてバーンて反撃してもうただけやし、おれも怒鳴って悪かったわ」 「……怪奇現象でも反撃するんですか」 「するやろそら。おもろいやんけ。深夜に部屋の鍵穴ガチャガチャする幽霊とかネットでバズりそうやん」  するかなぁ……と考えて、自分なら恐ろしくてやはり通報するなと思い、また非常識な行いをしたことに申し訳なくなった。  快く許してくれた男の好意を無駄にすべきではない。なにより先ほど彼が指摘したように、時刻は深夜だ。外で騒いでいては、他の住人にとっても迷惑だろう。  もう一度だけ軽く頭を下げて、お騒がせしました、と踵を返そうとした環の後頭部に、平坦な声が飛んでくる。  張り上げていない、感情がなだらかな男の声は、ひどく平坦で心地いい。 「ちょお、キミ、もうちょい待ってもらえんか」  待て、と言われて素直に待ってしまうのが環のいいところであり、馬鹿正直なところである。何よりこの日は疲れていて判断力が鈍っていた――と、後々思い出す度に穴に入って叫びたい気持ちになるのだが、素直に逃げずに足を止めた自分の馬鹿正直さだけは褒めたい、と思うことになる。  この時に逃げていれば、すべて無かったことにしていれば、環柊也の人生は確実に変わっていた筈だった。それが良い方向なのか悪い方向なのかはわからない。けれど、この赤い男との縁は、きっとここでぷつりと切れてしまっていたことだろう。  愚直な環を置いて部屋の中に戻った男は、しばらくするとタッパを抱えて帰って来た。  弁当箱より少し大きいサイズのタッパは、四つ。それぞれに、どうやらぎっしりと何かが詰まっているらしい。 「これ、良かったら食っちゃって。最近食ってくれる人間が減ってもうて、めっちゃ困ってんねん……まあ、これも何かの縁や。キミ、いっつもしずかーに生活してくれてて、大いに助かってんのや。暇やったら感想きかせてーや、ぜんぶ試作品やから」 「……え、あの、」 「あー、あれやなアヤシイか。怪しいな? 怪しいわ、おれ。ちょお待って、おれが一口食うたらええねんな? そしたらキミを毒殺しようとしとるストーカーやないことくらいは証明できるわな」 「いや、べつに、」  そこまでしなくても、と言う前に男はさっさとタッパを開け、長い指で茄子を摘まむ。  あ。と思う間に、目を奪われる。  骨ばった中指が綺麗で、駄目だ。そういえば自分は指の長い男が好きだった、ということを思い出した時にはすでに遅く、息が止まる。  油で濡れた爪の先が大きく開いた口の中に消えるまで、環は口を開けてただ茫然と見惚れていた。 「んー……うまい、と、思うんやけどわからん。自分の料理ってわからんのよなぁーある程度は間違いない確信はあるんやけどなぁー……あ、面倒やったらそのタッパ捨ててもええよ。おれがちょっと変なオニーサンな自覚はあるからな。そんじゃ、オヤスミ。……顔色悪いんはやっすい電燈のせいやないやろ、しっかり寝ぇやー」  さっさとタッパを渡し、さっさと手を振った男は、言いたい事だけ羅列して環の反応などお構いなしに扉を閉めた。  ガチャリ、と鍵のかかる音がしてからも、環はその場を動けない。  ……いや、このままでは本当に不審者だ。幽霊だと思われても言い訳できない。  そっと逃げるように静かに階段を登り、部屋番号を二度ほど確認してから、ようやく自室に滑り込んだ時には、ついに深夜の一時を回っていた。  早朝出勤ではないとはいえ、明日も仕事だ。いまから腹に物を入れるのは憚られる。インスタントの味噌汁を飲んでシャワーを浴びてさっさと寝よう。寝るべきだ。そう思うのに。 「…………へんな、ひとだ……」  不思議な高揚感から抜け出せず、タッパを持ったまま玄関先から動けない。  変な人だった。きっと誰が遭遇しても、同じ感想を抱くだろう。自分もあまりまともな人生を送っているとは言えないが、そんな環から見ても堂々たる変人っぷりだった。  幽霊に喧嘩を売ろうとする。謝ったら秒で許してくれる。そして何故か自作らしい料理を押し付けて、感想をくれなどと言う。  下の部屋の、名前も知らない赤い髪のおかっぱ男は、まぎれもない変人だ。  ――でも、いいひとだ。たぶん。  その証拠に、昼間の理不尽な怒号で蓄積された重い砂のような感情が、ほんの少しだけ軽くなっている。しっかり寝ろだなんて、久しぶりに聞いた言葉だ。たとえ軽い挨拶代わりの言葉だとしても、慮られた事実は気持ちがいい。  それに彼の骨ばった綺麗な指は、ぞくりとするほど艶めかしかった。うっかりちらりと見えた舌の色まで思い出しそうになり、慌てて頭を振って妖艶な想像を追い出す。  知らない男に欲情している場合ではない。何より、好意をくれた相手に失礼だ。気持ちを切り替え、よしまず風呂に入ろうそうしよう、と思った環はふと、タッパの蓋に可愛らしいイラストが印刷されていることに気が付いた。  赤くて丸い、ゆるキャラのような絵。その上には、四文字のカタカナが並ぶ。 「……イトメシ?」  聞き覚えのない言葉だ。あとで検索しよう。でもまずは冷蔵庫に入れよう。そして風呂に入って味噌汁を飲んで、寝たら明日の仕事が始まる。  疲労は溜まる。残念ながら人類はまだ『一瞬で元気溌剌に!』といううたい文句の疲労回復マシーンを発明していない。疲れている、という自覚はある。  それでも今日はなんとなく、軽やかな気持ちで眠れそうだという予感があった。  しっかり寝ぇや。その平坦で心地よい声が、しばらく気持ちよく耳の中に留まっていた、そんな気がした。

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