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◇02

 泡だて器を持つ腕が、もったりと重くなる。  白い液状だった生クリームは、徐々に形を変えて真夏の雲のような陰影を纏い始めた。質感が増すとともに、腕にかかる負担も単純に増えていく。  重い。辛い。なんなら痛いしもうやめたい。  それでも黙々と休むことなくただひたすらに腕を動かし続ける伊都に、ついに呆れたような声がかかった。 「イト先生~~~それ以上やるとクリーム通り越して固形になっちゃいますよぉ……生クリームもメレンゲも、泡立てすぎは失敗のモトって言うじゃないですかぁ」  使い捨ての蒸気アイマスクをゴミ箱に放り投げ、柚葉は口を尖らせたようだ。このところ毎日一緒にいるせいで、顔を見なくてもその表情を想像できるようになってしまった。  柚葉の言う通りすっかりパサついてしまった生クリームをやっと解放し、ボウルを置いた伊都は、右手をぷらぷらと振り回してから息を吐く。 「ええねん……仕事で使うもんやないし、おれが食うだけやからぱっさぱさでもねっとりしててもどうでもええねん大事なのはカロリーとこの重労働感や……」 「イト先生ってあれですよねー見た目どう見てもどSなのに実際はものすごーくどM! ですよねぇ……」 「うっさいわ。ゆずちゃんににはまだわからんかもしれんけどな、大人はストレス発散せんとうまいこと生きていけんのや」 「三十一歳のストレス発散方法が生クリーム泡立てて爆食いすること、ってちょっとかわいいですよね? ふふ」  馬鹿にしとんのか、とは言わない。  十歳年下の柚葉はデリカシーが足りないところはあるが、伊都を尊敬し、きちんと好いていてくれるということを知っているからだ。人を無駄に揶揄ったりしない柚葉は、本当に伊都の事を『かわいい大人』だと思って発言しているのだろう。  かわいいことがあるかいな、頭赤い三十男やぞ。  そうは思うが、今は口から零す言葉から棘を抜ける自信がなく、ただ感情を丸ごと飲み込むしかなかった。  辻丸伊都は機嫌が悪かった。  むしゃくしゃしていたし、気分が悪かったし、何かに当たり散らしていないと無意味に叫び出してしまいそうだった。  別のボウルに小麦粉とベーキングパウダーと砂糖を入れて、卵と牛乳をぶち込んでまた混ぜる。混ぜる。とにかく混ぜる。腕が痛い。腹が立つ。だからひたすらに運動する代わりにボウルの中身の生地を混ぜる。 (だから、恋愛なんてモン、嫌いなんや!)  口には出さず甘い生地に叩きつけた言葉は、この場に居ない過去の同僚に対する呪詛だった。  伊都を中心として調理動画を配信する『イトメシ』は、所謂料理系と言われる動画コンテンツだ。最初は一人で撮影し、軽く編集するだけだった動画も人気になるにつれ、スタッフを雇う余裕が出て来た。  動画の撮影や編集をスタッフがこなしてくれれば、伊都はゆっくりと新メニューの開発に専念できる。一人暮らし向けの簡単料理をコンセプトにしているものの、毎回うどんと丼ものというわけにはいかない。新しい動画を撮るには、必然的に新しい料理が必要になる。  一人でこつこつと始めた動画チャンネル『イトメシ』は、いつしか五人のスタッフを抱えるまでに成長した。伊都以外は家庭を持っている主婦だったり、バイトの掛け持ちだったりと専業ではなかったが、それでもチームとしてしっかりと機能してきたはずだ。  それなりに仲良くやってきた。実際に伊都は誰とも喧嘩をすることはなかった。指導や助言、相談をすることはあっても、口汚く罵った記憶はないし、スタッフとの会話で嫌な思いをしたこともない。歳も性別も性格もバラバラではあったが、チームとしてうまくやっていると思っていた。  伊都と柚葉を除く三人が、恋愛関係で揉めて一気に辞めてしまうまでは。  その詳細を聞いた伊都はまず笑った。あまりにも馬鹿馬鹿しく、思わず乾いた笑いが零れた。そのあと、自分でも信じられない程落ち込んだ。  何年ぶりかわからないが、風呂の天井を見上げてひっそりと泣いてしまったほどだ。  恋愛をするな、とは言わない。惚れてしまったなら仕方ない。そのくらいは仕方ないと思える。スタッフのうち二人が正々堂々付き合い始め、結婚を期にチームを離れる、という事情であれば伊都も快諾できた。  いや二股かけて、しかも不倫てなんやねん……。  それなりに信頼していたスタッフたちだったのに。そんな風に揉めていることも気が付かなかったし、揉め事を起こしてしまう人物だったこともショックだった。  人を見る目が無いのだろうか。……まあ、無いのだろう。  思い返せば夢を追いかけ上京した際の相方も、さっさと伊都を放り出して結婚してしまった。そういえばあの時も『だから恋愛なんてモンは嫌だ』と呪った記憶がある。  伊都の人生は恋愛に呪われている。  伊都自身はあまりそういうものに縁がないものの、周りの人間がとにかく恋愛関係で揉める。母親も、父親も、姉も、親友も、後輩も、そしてチームのスタッフも。みな恋愛にだらしなく、伊都を含め様々な人に迷惑をかけて消えていった。  珍しく順調だった人生が、ここにきて失速してしまった。自分の生き様の不調を人様のせいにするつもりはないが、それでも文句の五つくらい吐き出しても、罰は当たらないだろう。  馬鹿が三人一気に居なくなったせいで、伊都も柚葉もこのところ仕事に忙殺されている。むしろ専業の伊都よりも、コンビニバイトと掛け持ちしている柚葉の方が多忙だろう。  撮影や編集を担っていたスタッフが居なくなったため、とにかく手探りでどうにか動画編集をこなしている状態だ。昔一人でやっていた時代とは、動画編集ソフトも違えばアップロード環境も違う。  調べながら作業を進めているせいで時間がかかるし、もとより機械音痴ぎみな伊都は『ストレスでハゲるんとちゃうか?』と思う程苛ついていた。  このままでは、職を失う危機すらある。 「あかんわ……赤髪のおっさんが路頭に迷う未来がちらつきはじめたわ……」  弱弱しく呟いた伊都に、休憩から仕事に戻った柚葉は手を止めないまま笑う。 「え~? だいじょうぶですよぉ……だって先生、本出してるでしょ。三冊? あれ、次のやつで四冊?」 「次が五冊目や、ゆずちゃん最初っからおるスタッフさんなんやから、もっとおれの仕事に興味もってくれんか……」 「わたし本の方はノータッチですもーん。ほら、なんだっけ……印税? とかあるんでしょ?」 「あほか。ンなもん微々たるもんや」  弱火で熱したフライパンの底を、濡れタオルに押し付けた後、コンロに戻して生地を流し込む。バニラエッセンスは入れていないから、漂うのは卵と少しだけ甘い砂糖の匂いだ。 「今日日コンテンツ地獄や。常に発信しとらんと、すぐに埋もれて消えてまうわ。要するに働かないと死ぬっちゅーことや」 「えー。先生、ガチ恋ファンだけ囲って配信するだけで、スパチャで生きていけそうなのに……」 「怖いこと言うのやめーや……恋とか今は字も見たないわ……。ちゅーかおれは! 金貯めて! 引っ越したいねん!」  ふっくらと膨らんだ生地の下にフライ返しを差し込み、バン! と威勢よくひっくり返す。いささか行儀が悪い。しかしどうせ食べるのは自分だから、どうでもいい。 「あー……そういえばそんな事言ってましたねぇ……」 「百歩譲ってお隣のお子さんのギャン泣きはええねんまじで! ええねん! しゃーない! わかる! お子さんやもんな!? せやけど下の階のアホが日中窓開けてギターかきならすんは苦情入れてもええやろ!? こちとら年がら年中締め切ってご近所に配慮の上撮影しとんのやぞ!」 「あれほんと謎ですよね~たまに深夜の三時とかに歌ってますもんね~外人さんなのかなぁ」 「騒音注意の張り紙なんぞ見てへんのやろな……もうおれが引っ越すしかないねん……つまり……働いて稼がなあかんねや!」 「お仕事イエーイ」 「……ゆずちゃん、今の『ポロロン』っちゅー電子音、何?」 「えへ。なんかわかんないけど、なんかが違ったみたいです☆ ちょっとググります☆」 「うん……パソコン壊さんでな……?」  非常に不安だが、だからといって伊都が変わってやることもできない。パソコン作業に対する知識など、伊都も柚葉と似たり寄ったりだ。  焼きあがったパンケーキを皿に乗せ、放置していた硬いクリームをたっぷりと乗せる。うまそうかまずそうか、と問われたら正直後者やなぁ、と思う。けれどこれが伊都のストレス発散方法だから仕方がない。  携帯を片手に調べものをしていた柚葉が、ちらりと視線を寄越して『うわぁ』と苦笑した。  カロリー、と声がかかる。明日走るからええねん、と返す。  いつも通りの会話だ。ただし先週までは、この部屋はもっと賑やかだった。それが寂しく、やはり悔しくて、八つ当たりのように生クリームにフォークを突き立てる。  絶対にこの仕事を諦めたくない。ここで折れたくない。料理を作ることが人生の夢だったわけではないが、いまは天職だと思えている。  絶対に、金を貯めて、引っ越す。  鬼気迫る形相でひたすらパンケーキを口に入れる伊都に、ふと柚葉は声をかけた。 「イト先生がお引っ越しするのはわたしも賛成ですけどー……でも、上の階のヒトは結構いいひとそうでしたよねー。ほら、昨日のド深夜のーうっかりイケメンズ」  思わず、伊都の手が止まる。無意識の動揺は、クリームと一緒に飲み込んで見なかったふりをする。 「……ゆずちゃん、仮眠中やなかったんか?」 「えー起きてましたよーう。ちらっと見えましたけど、なんかこう爽やか系で、少年漫画誌のジャンル的には球技のスポーツ系っていうかぁ……」 「いやその例え、全然わからんわ」 「でもいいひとでしたよね? イト先生がスンッて言葉を抑えるのって、相手を信用した時だものー」  確かに爽やかで、人好きのする青年に思えた。ただ、どう見ても疲労困憊していた顔色が頭から離れず、思い出すと妙に心配になる。  つい山ほど余っている試作品を持たせてしまったが、別に廃棄処分のつもりで押し付けたわけではない。少しでも彼の栄養になれば、と思っての押し付けがましい親切心だ。  今思えば、あやしいどころの騒ぎではないのだが――いっそ全部捨ててもらっても構わない。若干悲しいが、まあ、今時見知らぬ他人からもらったものに対して訝しまない方がおかしいのだから、それは仕方ない。  ただ、あの後しっかり眠れていたらいいなと思う。  別に彼の健康など、伊都には関係ない。関係なくても、きちんと腰を折って自らの非礼を詫びる真摯さは、他人に裏切られたばかりの伊都には、ひどく好意的に映った。  ご近所さん全般に文句たらたらな伊都だが、上の階の住人には微塵も文句はない。日中はほとんど部屋に居ないらしく、土日も非常に静かだ。  そういえばゴミを出すときに時折見かけたような気もする。そうかあの年中ぐったりしている青年が、401号室の住人だったのか。 (……まあ、確かに、ええ子やったけど)  それはそれ、引っ越さない理由にはなりえない。  なぜならばいかに上の住人が好青年だろうと、伊都にとっては他人でしかないからだ。  人間は働かなくては生きていけない。伊都の労働は、動画の撮影と配信。その環境づくりの為には、騒音にまみれた部屋は好ましくない。 「はー……働かんで金がほしい……」 「第三ボタンくらいまで外してコメント読み上げる配信したら、たぶんその夢かないますってばぁ」 「じゃかあしい。おれは自分の身は売りたないんや」  生クリーム乗せパンケーキを一気に平らげた伊都は、律義に手を合わせてごちそーさん、と呟いて、憂鬱な仕事に戻る為に珈琲を淹れることにした。  働かないで金がほしい。  これは本心だが、本当はもっと別の願いがある。  ……だれかに、癒してほしい。頑張ってるねと言ってほしい。  そんな子供っぽい願いを口に出せるわけもなく、ただ憂鬱に息を吐き、楽しむ余裕すらなくなってしまった珈琲の香りを吸い込んだ。

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