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◇04

 どうせ余っているし、食べてくれたらまあ、ありがたい。捨てても気にしないし、タッパは山ほど余っている物だから、返ってこなくても問題ない。  その程度の気軽な気持ちで渡した料理が、まさか山ほどのおまけつきで返ってくるなんて、勿論想像していなかった。  だから401号室の住人が来訪した時、伊都はどういう顔をしていいのかわからず、一瞬どころか五秒程固まってしまった。  おそらく、ひどく怪訝な顔を晒していたことだろう。  平日の夜、まだ夕刻と言える時間に301号室をノックした青年は、伊都の顔を見て少しだけ申し訳なさそうに眉を落とした。その顔を見て初めて己の非礼に気が付き、慌てて『ちゃうねん』と声を張り上げる。 「っあー、いや、びっ、くりしただけやねんて! 迷惑だとか思ってへんから悲しい顔すんのやめてーや!」 「え。俺、そんな顔してましたか……?」 「しとった。やっぱ捨てた方が良かったんじゃーって顔しとったわ。まあ、とりあえず入り。あ、この部屋はおれの私室っちゅーより仕事部屋っちゅー感じやから、あんまビビらんでええよ、今もバイトの子居るしな。……で、なんやったっけ、ええと……メシの感想? わざわざ? 書いてきた? ホンマ? え、ホンマか?」 「あー……やっぱり、迷惑……」 「ちゃうねんて! びっくりしただけやねんて!」  いい子すぎて、心底びっくりしただけだ。  身近な人間に手ひどい裏切りを受けたばかりの伊都は、他人に期待しないようにと予防線を張っていた。捨ててくれていい。別にそれで構わない。そんな風に言い聞かせていたから、素直に返って来たストレートな好意に、対応が遅れたのだ。  とりあえず入れ、などと軽率に彼を招いたのは、おそらく混乱していたからだ。落ち着いて珈琲でも飲みながら話さないことには、伊都の脳が正常に動いてくれない。  今日もパソコンに向かって唸っている柚葉はパッと顔を上げると、『ようこそ! こんばんは! バイトの柚葉です! どうぞわたしのことは無視してください! 空気です!』と威勢の良い空気宣言をかました後に颯爽と作業に戻ってしまった。  存在感のある空気やなぁ、と思ったものの、いちいちツッコんでいたら伊都の喉が枯れてしまうし、脳がさらに疲れてしまう。ありがたく無視することにして、いつも作業しているテーブルに青年を座らせた。 「はい、とりあえず珈琲淹れるからちょいと待……あ、番茶の方がええか。夜やしな。タッパそこに置いといてええから。キミ、夕飯は?」 「ええと、まだ、です、けど」 「じゃ、食ってもらえんか? さっき盛大に分量間違えて作ってもうたトリ肉じゃががあんねん。そういやおれもメシ食ってへんわ。ゆずちゃんも食うか?」 「空気はさっきいっぱい味見したので結構でーす」 「さよかー」  喋りながらもさっさと皿に盛り付け、さっさとお湯を沸かして茶の準備をする。呆気にとられていた青年が正気に戻ったのは、すっかり食卓の準備が整い、目の前に箸を置かれてからだった。 「あ……あの……そんな、またご馳走様になるわけには……」 「いやマジで余ってんねや。キミが食ってくれへんと捨てることになんねや。これから誰かとディナーの予定やっちゅーなら諦めるけどなー」 「……予定は、ないです、けど」 「なら諦めて食うてくれ。食いながらキミの話……ちゃうわ、ちゃう。まずは自己紹介や。いやこんな怪しい赤い奴に名前なんか教えたないかもしれへんけど……」 「いや、ご飯頂いてるのに名前は死守とかしないですよ!? すいません俺の方こそ順番がぐちゃぐちゃになっちゃって……! 先日は本当に大変失礼しました! 上の部屋に住んでます、環柊也と申します! そしてこれが先日いただいた食品に対する感想をまとめたテキスト入りのUSBです!」 「……USB…………」  まさかのデータでの提出に、さすがの伊都も一瞬ツッコミをわすれてしまう。  感想書いてきたっちゅーわりに手ぶらやん、とは思っていた。思っていたが、まさかUSBが出てくるとは思わなかった。  今はデータ便やらクラウドやら、共有手段は山ほどあるだろうにあえてUSBを選ぶセンスが、なんとも不思議だ。普段使いなれているツールなのだろうか。 「そんなごっつい本気でやらんでも良かったんに……なんか、気ぃ使わせてごめんな……?」 「あ、いえ、あの、俺こういう感想とかレポートとかわりと好きなんでつい……あと、少しでもお仕事の役に立てたらと思って」 「おしごと。……ああ、なんやキミ、おれのこと知っとんのか」  まぁ、目立つ外見である自覚くらいはある。それでも数ある配信コンテンツの中で大人気と言えるほどの知名度はない、と伊都自身は思っていた。  そもそも、動画配信業界はガラパゴスだ。テレビのように一律で放映されない。好きな時に、好きなものを、好きな人間だけが再生する。どんなに人気の配信者でも、興味がない人間にとっては一生関わることのないコンテンツなのだ。  時折イロモノ料理ユーチューバー枠でお昼の情報番組に呼ばれることはあるものの、レギュラー番組があるわけではない。社畜生活をしているらしき青年にとって、伊都は見ず知らずの派手な髪色の怪しい男でしかないと思っていた。  詳しく聞けば、実際に出会った日は伊都のことを知らなかった、らしい。職場でたまたま、イトメシのタッパに目をつけられ、そこで初めて動画を見たと環は言う。なるほど、知ったかぶりをせず素直に知らなかったことを詫びる、その姿勢も好感度が高すぎる。  しかも先程本屋で伊都の本を購入したらしく、そんなん言うてくれたらあげるのに、と弱々しい声を零す羽目になった。好感度がカンストしそうだ。 「ええと、というわけで、もし、余っていたら、このタッパを買い取らせていただくことは可能かなぁ……というお願いもあるんですけど……」 「あー別にええよ。ほんまに捨ててもええと思ってあげたもんやし。本人にもらいましたーとか言わんといてくれたら好きに配ってくれてかまわんわ。一応いま市販してへんから、おれからもろたとか言われるとちょっとアカンけど」 「俺が先生と直接お会いしたことは言ってないので、知人からありがたくもらった、って言っときます」 「うん。じゃ、それでええよ。あとせんせーってのやめてな。ゆずちゃんもせんせーせんせー言いはるけど、そんなたいそうなもんやないねん」 「じゃあ、イトマルさん……?」 「あーそういやおれそないなユーザーネームやったな……いや、伊都でええよ。本名やから。辻丸伊都や、よろしゅうな、えーとたまきしゅうやくん……マキ……マキちゃんて呼ぼかなぁ……あれ? アカンかった!? あ、おれ距離詰めすぎた!?」 「え、いや、あの、……あんまりその略し方されないんでびっくりした、って感じです。別に嫌じゃないです、はい」 「ほんまか? 嫌なら嫌ですてちゃんと言うてくれたら善処するから気兼ねなく言うてくれてええからね? 馴れ馴れしいやんけこのおっさん思たら言うてくれたら距離とるから」 「イト先生そんなこと言われたら泣いちゃうんでオブラートにつつんで言ってあげてくださいね!」 「コラ空気、余計な合いの手やめーや」  柚葉の茶々にツッコミを入れ、いやホンマに馴れ馴れしいかなと不安になったタイミングで環が笑っていることに気づく。思わず溢れた笑みらしく、凝視している伊都と目が合うと恥ずかしそうに目を逸らした。  良い子だ。初対面の夜の直感が、徐々に確信に変わっていく。  あんな怪しい経緯で渡した料理を、全部食べてくれた。容器も洗って返してくれた。捨ててもいいと言ったのに、ほしい人間に譲ってもいいかとわざわざ一言断ってくれた。その上感想入りのUSBメモリーだ。  良い子だし変な子だし、よく見たら男前だし、あまりにも出来すぎた人間すぎて逆に一歩引いてしまう。 (……アカン、おれいまたぶん寂しいねや)  仲間と思っていた人間に裏切られた直後だ。人間が恋しいし、癒されたい、という思いが異様に強くなっている、という自覚はある。  環は他人だ。名前と顔を知っているだけの他人に過ぎない。ころっと絆されたい気持ちに喝を入れ、でもたまにメシ食いに来てくれへんかないい食べっぷりやな……と思っていたところで、背中の方から聞き慣れ始めた電子音が響いた。連続三回のポロロン音に、さすがに伊都は振り返る。 「……ゆずちゃん、空気宣言したんやからもうちょいしずかーに作業してくれへんか……」 「善処! してますよぅー! だって! わかんないんです! うわーんイト先生〜パソコンさんがよくわかんないけどダメって言う〜!」 「残念ながらおれも助けてあげられへんのや。後で一緒にググったるから、とりあえず一緒に肉じゃが食うか?」 「イト先生が甘過ぎて全然作業進まない……」 「えええ……おれのせいやないやろ……いやおれができひんのが元凶やけど……」 「ちがいます〜スタッフであるわたしが出来ないのがダメなんです〜〜〜もっと言うと引き継ぎもなしに辞めちゃった馬鹿が馬鹿でくそやろうだっただけですムキィーーー」 「女子がクソとか言うたらあかんで」 「あの、動画の編集ですよね?」  ふと、箸を置いた環が立ち上がる。  見ても大丈夫ですか? とだけ問われたので、もちろん差し支えないという意味で伊都と柚葉は同時にがくがくと頷いた。  所詮ただの料理動画だ。だらだらとしたら編集前の動画は気を抜いている箇所もあるので若干恥ずかしいとは思うが、もちろん、困ることはない。 「あー……結構玄人向けのソフト入ってんですね……これ、UIが分かりにくいってうちの先輩がボロクソに言ってたやつだ……」 「ゆー……あい……? ってなんでしたっけぇ……」 「ユーザーインターフェイスです。えーと、操作性とかそういう……料理に例えるとキッチンのデザイン、かな? 例えばお湯の蛇口と水の蛇口が別々のところについていて、形も違ったら使いにくくないですか?」 「そりゃめっちゃ使いにくいわな。なんで隣に配置しとかんねや、ちゅーか蛇口一緒にしろやて思うわ」 「そうですよね。えーとつまり、そこそこ不親切な動画編集ソフトってことです。好きな人とかこだわりがある人はよく使ってるイメージですけど、画質とかエフェクトとかに過度なこだわりがないならもっと簡単なやつで編集した方が楽かなー、と、俺は、思います、けどー……」 「………かんたんな……」 「やつ……?」 「…………………おすすめのソフト、インストールしてもいいです?」 『お願いします!』  しっかり被った二人の声に爽やかな苦笑を零した環は、魔法のように一瞬で作業をこなした。  まずキーボードのタイプが速い。柚葉など未だに人差し指だけで押しているキーボードを、ほとんど目を落とさずにカタカタと打ち付ける。  あまりの手際の良さに、環の手元を覗き込んでいた柚葉と伊都は思わず後ろに退がる。 「個人的なおすすめですけど、フリーソフトならこれがいっかなーと思います。えーと、伊都さんの動画見た感じ、似たような色合いとフォントを使って編集できると思いますし。スマホ使えてるなら、なんとなーくわかる感じのメニューだと思うし、もしアレならいまちょっといじってもらってわかんないとこあれば……あの、なんで一歩下がったんですか伊都さん」 「いや有能すぎて引いてんのや……マキちゃん何者なん……? スーパーハッカーかなんかか?」 「ただの映像制作系のADです」  伊都と柚葉にとって、環は只者ではない人間だ。  言われた通りにカチカチとマウスを動かしていた柚葉は、しばらく後に笑顔を咲かせて振り返る。 「イト先生! これすっごい簡単です! これならわたしでもなんとかなる気がします! でも不安です! 無理かもしれません! 引き続き環先輩に教えて頂きたく――」 「いやあかんて。あかん。ゆずちゃんあんなー、マキちゃんは日々お疲れやねん。ホンマはおれらとだらだら喋ってるこの時間もゆっくり休息に当てるべきやねん。マキちゃんいま目ぇ逸らしたな、寝れてんのか? ホンマ? ホンマかなぁ……この前よりマシやけどキミ今日も顔色あんま良うないで。せやからおれたちの仕事に無駄に付き合わせるわけには――」 「あ、の! ……俺でよければ、いくらでも手伝いたいです!」 「……マキちゃんあんな、善意はそのー、ありがたいけど。親切心で人生削んの良くないで、マジで」 「いや、親切心だけじゃなくて、下心があります」 「なにて?」  実は、と口にしてから、環はしばし言い淀む。なんと説明したらいいのか迷っているらしい。  急かすことなくじっと言葉を待った伊都に向かい、キリッと決意の満ちた顔を向けた環ははっきりと、しっかりと、とんでもない言葉を吐き出した。 「動画編集を手伝う代わりに、ぜひ俺に料理を教えてほしいんです。詳しく話すと、ちょっと面倒というか、色々事情があるんですけど、えーと……簡単に言うとですね! AVの撮影のために! 俺は料理を覚えないといけないんです!」 「………いや、なにて?」  聞き返した伊都は、たぶん、悪くないと思った。

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