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第6話

「はい、これ一週間分の食費ね」 次の週の月曜日、沙奈恵は颯太郎に三千円を渡した。 颯太郎はそれを受け取ると、どういう事? と母を見る。 「正臣くんの事、源一さんに相談したの。そしたら、あんなやつ息子でも何でもないって言うから……」 見限る事にしたのよ、と沙奈恵は言う。 「だから週に一回、ここに食費を置きにくるけど、私たちは私たちで別に住むことに……」 「そんな……っ、じゃあ俺はどうしたらいいの!?」 颯太郎は沙奈恵にすがりついた。けれどその瞬間、沙奈恵から怒りの赤と嫌悪の青と、攻撃性の黒が一気に広がる。 「知らないわよ! あいつの血が流れてると思うだけでもゾッとするのに、引き取ってやっただけでも感謝しなさい!」 颯太郎はその言葉に、雷に撃たれたような衝撃が走る。しかし沙奈恵はそれに気付かず続けた。 「そもそも源一さんの離婚原因は、正臣くんが妹に手を出したからよっ。源一さん可哀想に、一人で責任負わされて……っ」 「……そんな……」 颯太郎は母の言葉の意味をあまり理解できなかったけれど、何となく、颯太郎が犠牲になれば丸く収まる、と言われていることは分かった。母は颯太郎を助けるどころか、見捨てようとしているのだ。 「嫌なら自分で稼いで家を出る事ね。親の保護下にいるくせに、不満だけは一人前なんだから」 吐き捨てるように言った沙奈恵は、ホントあの人そっくり、と言って、颯太郎の前を去っていく。 それが颯太郎の母の、最後の記憶だった。 その日の夜、コンビニへ出掛けた沙奈恵は、事故に巻き込まれてこの世を去る。 血が固まったような色を纏う母の亡骸を、颯太郎は人が死ぬとこんな色をするんだ、とぼんやり思った。源一も沙奈恵も、人付き合いはそんなになかったので、源一と正臣と颯太郎だけで母を見送る。 骨になって帰ってきた母を見ても、颯太郎は涙が出なかった。 そして沙奈恵がいなくなってから、更に颯太郎の環境は悪化する。 沙奈恵が言ったように、週一で源一が食費を置きに来て、颯太郎がやりくりしてご飯を作る。十歳年上だった正臣はアルバイトをしていて、そのお金を自分の好きなように使っていた。 けれど源一頼みだった食費が、徐々に減らされ、更には週一というスパンも伸び、ついにはいつ来るか分からない状態の上、紙幣が渡される事は無くなった。家の電気ガス水道は源一が払っているらしかったけれど、颯太郎は学校の給食と、家の水道水で空腹をしのぐ。 徐々に痩せていく颯太郎に対し、正臣はいたって健康体だった。真面目に学校とアルバイトには行っているらしく、家にほとんどいなかったので颯太郎に手を出す事は無かったけれど、時折女の子を連れて帰って来ては、大きな声を上げて颯太郎の睡眠を邪魔した。 正臣と彼女が、何をしているなんて考えたくもなかった。けれどずっと強いピンク色を纏わせている正臣が、次の日には少し薄くなっているのを見て、颯太郎は嫌悪感で身体を震わせる。そしてその状態で正臣が颯太郎を見ると、また元のように強いピンク色と黒を纏わせるのだ。 「颯太郎は、可愛いね」 怖くて視線を逸らすと、そんな事を言われた。 慌てて自室に戻ると、母に買ってもらった布団に潜り込み、頭から布団をかぶる。ドアの向こうで正臣がこちらの様子を伺っていると思うと、その日は眠れなかった。 「おとうさん、話を聞いて!」 そしてまたある日、颯太郎は源一にすがりついて、正臣の事を話した。けれど源一は終始嫌な顔をして颯太郎を見るだけで、何も返してくれない。 「おとうさん!」 「うるさい!」 ドン、と颯太郎は尻もちをつく。突き飛ばされたんだと思ったのは、源一が珍しく感情を顕にしてこちらを睨んでいたからだ。その色は怒り、憎悪の赤だ。 「沙奈恵と一緒になる条件がお前だったんだ、じゃなきゃ何でお前まで引き取ったと思う?」 源一は、今まで数える程しか口を開かなかった。だからこんなに喋るのは珍しくて、颯太郎は嫌な予感がする。 「あいつは俺と一緒になるために、俺との不倫を隠して離婚した。ただでさえ正臣のせいで外聞が悪い家族だったからなぁ」 今度こそちゃんとやっていけると思っていた、お前は男だし、と源一は片手で顔を覆う。すると少しずつ黒が混ざっていって、彼は手を震わせていた。 「なのに、一緒に住む直前……正臣……あいつは沙奈恵にも手を出した」 とても十歳にも満たない子供に聞かせる内容ではない。けれど源一もすっかり追い詰められていたのだろう。悲しみの青が混ざりだして、颯太郎は源一の話を聞くしかなくなった。 「なのに沙奈恵と正臣は何食わぬ顔で生活を始めた……俺を愛してると囁いた口で、正臣のモノを咥えてると思うと吐き気がした」 そして、そんな女の血が流れてるお前も、気持ちが悪くてしょうがない、と源一は唇を噛む。 そこで颯太郎は気付いた。初めて会った時に見た源一の色は、沙奈恵に向けたものだったのだと。 源一ははぁ、と長いため息をつく。 「……家があるだけマシだと思え」 そう言って去ろうとした源一に、颯太郎は再びしがみつく。 「待って! 嫌だ、助けてよ……っ」 涙目で訴えると、源一は苦しそうな顔をした。愛憎を滲ませたその表情に、颯太郎は息を詰める。 「沙奈恵も出会った時そうやってすがりついてきたな……でも、お前は男だ、貞操などどうだっていいだろう」 源一は颯太郎を振り払って家を出る。 閉まったドアが、颯太郎の未来を閉ざされたかのように感じた。 その後、颯太郎は正臣が発する色を見て自衛をする事にした。極力家で鉢合わせをしないようにし、家に帰れない時もしばしばあった。そんな時は保護されるのだが、どんなに帰りたくないと訴えても、何故か児相や警察は颯太郎を家に返してしまう。 そんな事を繰り返しているうちに、十歳の誕生日が来て、あの通り魔事件が起きるのだ。 そして結局、人はみんな、颯太郎自身でさえ、自分の身が可愛いのだと悟る。人はいざとなったら逃げるし、ボランティアなんて気が触れた人がするものだと、卑屈で歪んだ考えを持つようになり、ますます人嫌いに拍車がかかっていった。 けれど、颯太郎は感情が見えるおかげで正臣から逃れられた。だからこの能力は、自衛のためだけに使おうと思ったのだ。

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