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第1話

 平日の夜とはいえ、交差点前は凄い人混みだった。正面の駅前広場、右側のドラッグストア前の歩道は信号待ちの人々で溢れている。俺、中村智也(なかむらともや)は人集りの一番後ろで信号が青に変わるのを待っていた。  足元には通学用のリュックが転がっている。リュックの上に乱雑に積まれているのは制服の青いワイシャツとグレーのスラックスだ。一番上に放ったソックスは、路面に落ちてしまっている。  信号が青に変わった途端、人波が押し寄せてきた。俺は横断歩道から外れて、交差点のど真ん中へ大股で駆け出した。足の裏に小石が刺さったが、凄まじい解放感が俺をハイにさせ、痛みを感じさせなかった。巨大ショッピングビルを吹き抜ける風は火照った身体に気持ちいい。両腕を思いっきり伸ばしながら空を仰ぎ見ると、紺碧の夜空に灰色の雲が静かに流れていた。宝石箱をひっくり返したような豪奢な街の電灯が、つんと逆立てた黒髪や筋肉質な身体のラインを浮き彫りにする。スポットライトを浴びる舞台俳優になった気がして興奮は最高潮に達した。 「えっ、えっ」 「な、なに」  交差点を往来する大学生グループは目を剥き、二人組の女性は茫然と立ち尽くした。  全裸の男が流行の最先端と注目される街のど真ん中を陣取っているのだ。 「せーい」  俺は威勢よくその場でターンした。ペニスがぶらんと大きく揺れる。「顔は整っているのに、頭は残念」、「男ってすぐ、ちんこ出したがるよね」と侮蔑の声が上がったが聞き流した。腕時計をチラッと見ると銀色の針は午後九時十分を指していた。あと一時間もしないうちに『スタート』に戻る。皆の記憶から露出狂と遭遇した事件は消えてしまうのだ。忘れてしまうのではない、俺の記憶以外の全てのものは七月十日の午後七時に戻ってしまうのだ。そう、俺だけを残して。  心臓は血管が千切れんばかりに脈動を打つのに対し、心はヒヤリと冷えていく。孤独を振り 切ろうと俺はもう一度ターンした。股間のモノがぶらぶらと揺れる。 「……中村」 「中村じゃん」  聞き覚えのある声に俺は左右を見回した。左に黒縁眼鏡を掛けた男、右に派手な黄色いキャップを被った男がいた。どよめく群衆に交じるのは、同じクラスの二之宮(にのみや)と白井(しらい)だ。 「ちんこ丸出しですかぁ。あっはっはっは」  横断歩道の半ばで、派手な黄色いキャップを被った男、白井は腹を抱えながら不躾に俺の股間を指差す。 「うるせぇなっ」  馬鹿にした態度に苛立ち、俺は唇を捲った。元々、白井に対して嫌悪感を抱いていた。授業中は教師によく茶々を入れ、話の腰を折る。この間は、クラスの奴を「お前らホモなんだろ」と蔑んだ。かまって欲しがり屋な上に他人を傷つけるのが大好きなようだ。 「喧嘩している場合じゃない。ほら」  黒縁眼鏡を掛けた顔は凍ったように硬いままだった。二之宮は無表情のまま静かに視線を投げた。視線の先を追うと、肩を怒らせる警官が目に留まった。駅前広場の交番から駆けつけたのだろう、俺を目掛けて猛突進してくる。 「ま、ま、ま、まずい」 「中村。こっちだ」  泡を食っている俺に救いの手を伸ばしたのは二之宮だ。声が上がった方向を見ると、二之宮はリュックを揺らして大通りの入口へ駆け出していた。俺は路面を蹴り、二之宮を追った。 「ちょ、待てって」  背後から白井の声が上がったが、振り返る余裕はない。  俺と二之宮はアーチ状のゲートを通過し、激安量販店や話題の飲食店が連なる大通りを一直線に疾走した。何事かと通行人が道を開ける。衝突しないよう前方に注意しながら俺達は必死で走った。全身から汗が噴出し、汗玉が滝のように流れる。  突き当たりのカフェを右折すると、数軒先にゲームセンターの毒々しい蛍光色の看板が見えた。その隣に『テナント募集』の貼り紙が貼られた空きビルがあった。二之宮が空きビルのガラスドアを押し、俺達は転がるように入りこんだ。  一番奥の部屋に滑り込むと、俺はブルーシートが敷かれた床に仰向けに倒れた。胸を忙しなく上下させ、必死に肺に酸素を送る。心臓の脈動が頭に直接響いている。血が滾り、全身が猛烈に熱い。まるで、火だるまだ。 「はぁ、はぁ。だ、大丈夫か。二人共」  目眩が治まったところで俺は上半身を起こした。二之宮は壁にもたれ、肩で息をし、白井は足をこちらに向けて大の字で寝転んでいた。俺の呼びかけに、二之宮は顔にだらだらと汗を滴らせたまま頷く。白井は親指を立てたが、すぐに力尽きて床に腕を落とした。  回復するまでしばらく掛かりそうだ。俺はあぐらを掻くと、額の汗を手の甲で払った。  空きビルは改装中らしく、ドアは取り外され、吹き抜けの状態だった。 ブルーシートの硬い皺が尻に擦れ、ぐしゃぐしゃした感触が気持ち悪かった。立ち上がって壁にもたれてみるが、打ちっぱなしのコンクリートのザラっとした壁が不快だった。そんな俺を、二之宮はチラリと見た後、背負っていたリュックを下ろした。 「これ着なよ」  差し出されたのは学校指定のジャージだ。 「俺、裸だぞ。嫌じゃねぇの」 「そのままにしておけない。君は背が高いからサイズはキツイだろうけど裸よりマシだろう」  二之宮は感情を欠いた表情で淡々と答えた。  二之宮とは二学年でクラスが一緒になったが、話す機会はとくになく、俺は彼の人柄を知らなかった。確か図書委員に所属していた気がする。休み時間は教室の隅で仲の良い連中と勉強をしたり、自分の席で読書をしたりして過ごしていた。勤勉でクール、重たい癖毛と黒縁眼鏡の見た目も相まって、取っつき難い印象だった。 「……お前、良い奴だな。新しいのを買って返すな。ありがとな」 「いいよ、別に」  涙ぐむ俺とは対照に二之宮は無表情のまま答える。愛想は無いが、良い奴なのだろう。  俺は礼を言ってから、ジャージの下を履いた。丈が足らず足首と手首が露わになってしまう。平均的な身長の二之宮に対して俺の背は一八十に届く程だった。中学時代、バスケ部に所属していた俺は筋肉隆々とまではいかないが、全身に程よい筋肉がついている。ゴムの入ったウエストは、伸縮性はあるものの窮屈だった。 それでも、ありがたい。むしろ、汗と泥で汚してしまい罪悪感を抱く。 「その格好きもいよ。袖口が関節に見えて、なんか虫みてぇ」  余計な一言を発したのは、足を投げ出して座る白井だ。ニキビ面に嘲笑を浮かべている。 相手の気持ちを考えずに、思ったことを口に出してしまう性質のようだ。白井に苛立ちを覚えたが、今は喧嘩をしている場合ではないと判断し、俺は笑って済ませた。 俺達は床に三角形を描くように座った。俺に視線を寄越したのは二之宮だ。黒縁眼鏡の奥で冷たい光を宿した瞳で俺を見据える。 「中村。本題に入るが、どうして全裸で歩いていたんだい?」 「ああ、それな……」  俺は黙って顎先を掻いた。「同じ日にちの同じ時間帯を延々と反復している。自暴自棄になって全裸で歩いた」とは口が裂けても言えない。ふざけているのかと呆れ果てるだろう。 そもそも、説明をする意味はあるのだろうか。俺は腕時計に視線を落とした。文字板を囲む青いフレームがワンポイントとなっている黒を基調としたアナログ時計は、父親から高校入学祝いに貰ったものだ。銀色の針が午後九時四十分を指している。  あと二十分で『スタート』に戻る。街頭に流れるニュースの内容も、人々の一挙手一投足も、雲一つ一つの流れも、この世の全てのものが七月十日の午後七時に戻る。もちろん、彼等の記憶もリセットされ、巨大交差点を全裸で歩く俺のことや、繁華街を一緒に全力疾走したことは頭の中から消え去ってしまうのだ。  七月十日の午後七時から午後十時。 この四時間を俺はずっと反復していた。何回、リプレイしたのかもう分からない。途中で数えるのを止めてしまったから正確な数字は把握していないが、恐らく百回近くは繰り返しているはずだ。 ふと脳裏に蘇った一回目の七月十日の記憶は曖昧で、ずいぶん遠くに感じた。

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